574手目 By chance
※ここからは、萩尾さん視点です。
さて、どうかな。
8八角は、最善手だよ。奇手じゃない。外野の中には、早乙女の思考外しだと、深読みしてるひともいるんじゃないかな。一応、半分は合っている、半分は、ね。
早乙女は評価値が見えるのか?
それはわからない。他人の脳内は、覗き込めないからだ。
だけど、謎の強さがある。対策は必要。
さて、どうする? ボクが採用した考えは、シンプルだった。
外面的にわかることだけを扱う。将棋で外面的に残るのは、棋譜だけ。
だから、早乙女の負け棋譜を研究した。
そして、ある弱点を見つけた──奇手に対する精度が低い。
もちろん、ただの奇手じゃダメだ。対応されて、そのまま押し込まれる。
重要なのは、奇手で、かつ、それがそんなに悪くないケース、これ。
なぜそうなるのか? それはもうどうでもいい。
仕組みは無視して、とにかく統計に賭けるしかない。
早乙女の強火力については、もう認めざるをえないからね。
持ち時間の差は、ここまでの成功を示している。
早乙女の残り時間は、5分を切った。
ようやく顔を上げて、うしろ髪をなでた。無表情。感情は読み取れない。
パシリ
最善で来た。
やっぱり簡単には折れないよね。
ボクは8五桂と跳ねた。
早乙女は8六銀打。手堅く受けた。
9五香、同香、7七桂成、同銀。
「悪いね、本命はこっちなんだ」
ボクは駒音高く打った。
桂馬のタダ捨て。
からくりは簡単だよ。同銀なら、9七角成と成る。
さっき成れば良かった? 進行が違う。
単に9七角成は、8二歩、7一飛、7二歩、3一飛と追いやられる。先手優勢、ってわけじゃないけど、後手にうまみがない。以下、8九香で8筋を支えられたら、後手には攻め手がなくなる。
6六桂は、この順を回避する魔法のタダ捨てだ。同銀なら9七角成、8二歩の瞬間に、8八馬と入れる。8二歩に代えて8九香なら、8六歩。
(※図は萩尾さんの脳内イメージです。)
このとき、同銀右でときない。単に同銀、9六馬、8七桂、8六飛。
ここまでが、6六同銀のパターン。6六同金は8五桂、8八銀、同桂成、同玉、7六歩の突き出しに、7三角、5二玉。先手は手がない。7六金なら7七銀と打ち込んで、これはさすがに後手が優勢。
というわけで、6六桂で後手良し──じゃないんだよなあ。
後手を持ちたい、くらい。
桂馬を渡してるから、そこははっきりマイナスになっている。
盤面全体からして、桂馬は使いどころがないだろう、という読み。
この一点が崩れると困る。
早乙女はこぶしを握って、それを口もとに当てていた。
動作で見せた、初めての感情の起伏。
困惑? 動揺? 衝撃? 後悔?
それともボクの手に対する、嘲笑?
ありうるね。6六桂は奇手だけど、妙手かどうかまではわからない。
ボクは不動の体勢で、先を読んだ。
勝ち筋もあれば、負け筋もある。まったくわからない筋も。
時間が過ぎていく。削れているのは、早乙女の時間だ。
早乙女は口もとにこぶしを当てたまま、目を閉じた。
01:06 01:05 01:04 01:03
ここで動いた。
パシリ
同銀か。きっかり1分残してきた。
ボクはここからが正念場だ。
とりあえず、分岐のないところはさっさと指す。
9七角成。
次の手が広い。早乙女のさっきの長考は、そこで悩んでいたはず。
そして案の定、早乙女は着手が早かった。
8九香。
チェスクロが押された。ボクはお茶を飲む。
8六歩……だよな。
8八歩を一本入れたり、9六桂と打ったりする手もある。
だけど、それは繋がらない。
8八歩は取らずに、8二歩、8九歩成、同飛で逆用される。
9六桂は7七金の猶予が生じる。8筋が固くなると、攻め切れない。
「8六歩」
同銀、9六馬、8七桂、8六飛。
早乙女、残り10秒。
ピッ
1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
受けに回った。
ボクは、頭の手ぬぐいバンダナをなおす──イケるかも。
攻め合いはない、と認めた手だ。
攻め合うなら、9八桂からの8七飛成、同香、7四馬、8二飛だった。
早乙女が見落としたのか、読んだうえで切ったのかは不明。
ボクは30秒使って、慎重に8一飛と引いた。
9二香成、7一飛、7二歩、3一飛、7五金。
ちょっと読みが合わない。
守りというより、入玉狙いくさい。
一手一手に、微妙な時間を使わさせられた。
ピッ
ボクも1分将棋に。
8八歩は手抜かれるか? 8六歩は?
00:49 00:48 00:47
8八歩は、6七玉、8九歩成、9七歩、同馬、7六玉が面倒か。
入玉の可能性が生じてしまう。
8六歩は、6四歩の攻め合いが間に合うかも。
00:34 00:33 00:32
3八歩成が入る?
同飛なら4九銀の割り打ちだ。
でも取らないで9七歩がある。
00:20 00:19 00:18
……………………
……………………
…………………
………………もう一発勝負が必要か。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
2発目の桂捨て。
迷いの中で、チェスクロを押す。
同金なら同馬、7五桂、8八歩で攻める。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
早乙女は7六金と引いた。
6六桂、同金寄、8六歩。
早乙女はこの手を見て、息をついた。
タメ息というよりも、なにかを察したような、軽いものだった。
「先手の候補手が、すべてマイナスになりましたか……逆転の余地がありません。投了します」
ボクは一瞬、反応できなかった。
早乙女はチェスクロを止めて、
「ありがとうございました」
と言って、頭を下げた。
ボクもようやく声が出た。
「ありがとうございました……先手、まだ指せない?」
「ここからは、後手が平凡な手を指して行くだけで、勝ちです」
なるほど、ね。
まあそれっぽいかな、とは思う。
後手は広い。先手は入玉できない。4二の角が斜めに利いているし、3一の飛車も、最下段をガードしている。そもそも、すり抜ける隙間がない。
だけど、投了しなくても、よかったんじゃないかな。
「粘る順は、見なかった?」
「綺麗なものは、綺麗なまま終わらせましょう」
ん? どういうこと?
泥臭いのはイヤって意味だろうか。
「感想戦、する?」
「萩尾先輩は決勝がありますし、また後日にでも」
了解。
ボクはもういちど一礼して、席を立った。
会場を出る。
その足で、選手が泊まっている階へ降りた。
すると、レクリエーションルームみたいなところで、松陰先輩が待っていた。
「決勝進出、おめでとう」
そう言って、松陰先輩は立ち上がった。
「ありがとうございます……ここで観てたんですか?」
ボクは周囲を確認した。
松陰先輩しかいないし、テレビもついていなかった。
テーブルの上に、スマホが投げ出されているだけだ。
「いや、ちょっと休憩してただけだ。スマホで観戦してたら、急に終わった」
だよね。
観客的にも、タイミングが読みにくかっただろう。
解説のひととか、今頃大変なんじゃないかな。
ボクはソファーに腰を下ろした。
両腕を広げて、もたれかかる。
「なんか疲れました」
「130手くらいじゃなかったか?」
「なんていうんですかね……濃密な対局でした」
松陰先輩は、肩をすくめてみせた。
だけど、この対局の流れが変わっていたことには、気づいていたらしい。
座りなおして、質問をしてきた。
「早乙女は6六桂に、なんで同金としなかったんだ? 本譜の6六同銀は、桂捨ての効果がはっきりしてる。同金は、そうでもなかったと思うが」
「あー……あそこは、ちょっと難解なんですよ」
ボクはからくりを説明した。
まず、6六同金、8五桂、8八銀、同桂成、同玉、7六歩。
【参考図】
ここまでを、スマホのアプリですらすら並べた。
「松陰先輩なら、どう指します?」
松陰先輩は、画面をじっくり見て、30秒ほど考えた。
「……7六同金?」
「それは7七銀、7九玉、9七角成で、寄りますよね?」
「たしかに……7七銀に同金とできないなら、敗勢か。だが、俺の質問に対する答えに、なってなくないか? 今の順だと、6六桂の意味は、特になかった」
あるんだよね、これが。
私は追加で、
「7六同金に代えて、7三角、5二玉、6四桂ってありえますか?」
と質問した。
【参考図】
松陰先輩は、
「いや、これはない」
と即答した。
「理由は?」
「同角と切って終わりだからだ。同歩に、7七桂成」
そこですよ、とボクは言った。
「なんで桂馬を成れます?」
松陰先輩は、ハッとなった。
パチリと指を鳴らす。
「そうか、6六桂で金が吊り上げられてるからだ」
「そういうことです。6六桂と捨てずに8五桂、8八銀、同桂成、同玉、7六歩の進行は、7三角、5二玉、6四桂があるんです」
【参考図】
ここで同角と切るのは、成立しない。
7七の地点がガードされているからだ。
松陰先輩は腕組みをして、うなった。
「稀に見る妙手だな。同銀でも同金でも、絶妙な進行になる」
「たまたまですよ。こんなに綺麗な……」
ボクはそこで、口をつぐんだ。
そう──たまたまなんだよね、こんなに綺麗な手が存在したのは。
自分で指しておきながら、今まで気づかなかった。
勝利の余韻を超えて、そのことがなんだかとても、おかしく感じられるのだった。
場所:第10回日日杯 4日目 決勝トーナメント 女子準決勝
先手:早乙女 素子
後手:萩尾 萌
戦型:後手右玉
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △8四歩
▲4六歩 △3二金 ▲4七銀 △8五歩 ▲7八銀 △5四歩
▲5八金右 △6二銀 ▲6八玉 △4二銀 ▲5六銀 △5三銀右
▲3六歩 △4三銀 ▲9六歩 △7四歩 ▲2五歩 △3三角
▲3七桂 △7三桂 ▲7九玉 △9四歩 ▲4八飛 △6二金
▲7七角 △8三飛 ▲1六歩 △6四歩 ▲6六歩 △1四歩
▲2八飛 △5二玉 ▲8八玉 △8一飛 ▲6七金 △4二角
▲5九角 △3三桂 ▲2九飛 △6三玉 ▲4七銀 △7二金
▲5六歩 △8三金 ▲5八金 △6二銀 ▲2四歩 △同 歩
▲同 飛 △4五桂 ▲2九飛 △3七桂成 ▲同 角 △2四歩
▲2六角 △5三銀 ▲3五歩 △同 歩 ▲同 角 △3三金
▲2六角 △8四金 ▲5九角 △9五歩 ▲同 歩 △8六歩
▲同 歩 △8五歩 ▲同 歩 △同 金 ▲8六歩 △同 金
▲同 角 △同 飛 ▲8七銀 △8一飛 ▲8六歩 △6二銀
▲3九飛 △3七歩 ▲7五歩 △8五歩 ▲同 歩 △6五歩
▲同 歩 △7五歩 ▲6四金 △5二玉 ▲7四桂 △7六桂
▲7八玉 △6三歩 ▲6二桂成 △同 玉 ▲7四金 △8八角
▲7七桂 △8五桂 ▲8六銀打 △9五香 ▲同 香 △7七桂成
▲同 銀 △6六桂 ▲同 銀 △9七角成 ▲8九香 △8六歩
▲同 銀 △9六馬 ▲8七桂 △8六飛 ▲7七金 △8一飛
▲9二香成 △7一飛 ▲7二歩 △3一飛 ▲7五金 △7四桂
▲7六金引 △6六桂 ▲同金寄 △8六歩
まで130手で萩尾の勝ち




