571手目 沈黙する外野
※ここからは、香宗我部くん視点です。
9三玉。
今治はその大柄な手で、ビニール板の駒を動かした。
ここはホテルの喫茶店。
俺、今治、阿南の3人で、タブレットと将棋盤を囲んでいた。
客席は、そこそこ埋まっている。
西洋アンティークを基調とした、シックな内装。
俺たちの存在は、この店にとってやや異質だった。
今治は、扇子で顔をあおいだ。
「後手は受かるのか?」
むずかしいな。
正直なところ、この3人で形勢判断しろ、と言われても無理がある。
口には出さないが、今治もそれを感じているのだろう。
自信があるなら、どちらがいいか、はっきりと言ったはずだからだ。
タブレットには、【解説】というアイコンがあった。俺たちはまだ押していない。
音声が流れたら、となりの席に迷惑だと思ったからだ。
阿南は、
「7一角、8二銀でも、後手は寄らないと思いますね」
と、比較的楽観視していた。
俺は、
「先手は寄るのか?」
とたずねた。
阿南は口もとに手をあてて、しばらく考えた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7二銀成が指された。
烈は、寄せるつもりか?
ここで阿南は、
「先手も寄らないです」
と結論づけた。
俺は、
「となると、手数は伸びそうだな」
と返した。
「ただ、1分将棋なんですよね。ミスってそのまま崩れるかも」
俺はタブレットを見た。
サイドカメラには、吉良と石鉄が映っている。
どちらも苦しそうな表情だ。
おたがいに悪いと思っているのか、それとも分岐が多すぎるのか。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
また受けた。
阿南は、
「吉良のほうが苦しいかな……」
とつぶやいた。
俺もそんな気がしてくる。
同成桂で、吉良は悩んだ。
受けがないなら、このまま終わるぞ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
8六歩。
今治は、ほほぉ、とうなった。
「死中に活を求めたか。おそらく最善だろう」
同歩、6七銀。
阿南は、あ、そっかあ、と言って、頭をかいた。
「これ詰めろですね」
俺は、ほんとか、とたずねた。
「7八銀成、9七玉、8七金、同玉、8九飛成、8八金、同成銀以下です」
「……そうか、詰むな。8七金以外は、簡単だ」
吉良からすれば、8七金も簡単だろう。
そもそも、これが見えていたから8六歩と突いた、としか思えない。
もしかして、後手がいいのか?
形勢判断が揺れ動く。
どちらを応援しているわけでもない。外野の立場も宙ぶらりんだった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
打ったあと、烈はかるく髪をなでた。
俺は、
「途中まで、受け切りの方針だった。この手は一貫してる」
とコメントした。
今治は、
「しかし、こいつは千日手の懸念があるぞ」
と指摘した。
たしかに、そうだ。
千日手になりがちな順だ。
このまま金銀をどんどん入れ替えていって、そのうち同一局面が現れる。
それを繰り返せば、最後は千日手になる。
阿南は、
「吉良の形勢判断次第ですね。後手良しと思ってるなら、打開するでしょう」
と予想した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7八銀成、同銀、7九金、6九銀打、7八金、同銀。
金銀の入れ替えが始まった。
6九銀、7九金、7八銀成、同金、6七銀。
千日手コースか?
テーブルの空気は、そちらに傾き始めた。
吉良は、打開の順を考えているはずだ。
全部59秒ギリギリまで読んでいる。
しかし、うまい順があるようには、思えなかった。
今治は、
「6七銀のところで、一本8七歩は利かんかったのか?」
とたずねた。
「打つのはアリです。ただ、それで即寄りかと言われると、ちがいますね」
「ふぅむ、そうなると、千日手だな」
7九金打、7八銀成、同金。
ん? さっきと金銀が違うぞ?
烈も打開したいのか?
吉良は前傾姿勢になった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
俺たち3人のあいだに、沈黙が流れた。
「……打開しましたね」
同金……いや、どうだ、9八玉か?
即寄りがあるなら、後手の勝ちだ。
とはいえ、烈がこれを見落としていたとは思えない。
その証拠に、ライブカメラの烈からは、自信が感じられた。
阿南はもう一度、8七歩で即寄りはない、と評価した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
9八玉。
烈は王様を寄った。
8八金、同銀、同歩成、同金、7九銀。
きわどい。
俺は我慢できなくなって、解説のアイコンを押した。
鳴門の声が聞こえる。
《んー、なんとも言えないなあ。耕平、どう?》
《寄ってるんじゃないっすか?》
《7八金打で?》
《8八銀成、同金、7九銀の瞬間に、金がもうないっす》
阿南は、この解説に反対だった。
「寄らないと思いますね。7七銀くらいでも、まだ受かってます」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7八金打、8八銀成、同金、7九銀、7七銀。
阿南の指摘した順になった。
今治は、
「さっきのは、8七銀がカタチじゃないのか?」
と、首をかしげた。
「それもありましたね。8八銀成、同玉、8九飛成、同玉、7七金、8八銀、8六飛が怖かったのかな」
【参考図】
ん? そうか?
俺は阿南の読みに、違和感をおぼえた。
後手が相当危ないように思うが。
それを確認するヒマも、1分将棋ではなかった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
8八銀成、同玉。
王様が引っ張り出された。
これもさっきの飛車切りの順がないか?
俺は盤の駒を動かさずに、
「8九飛成、8七金で?」
とたずねた。
「それは7一角で金を1枚使わせてから、7八銀で受かります」
「さっきとなにが違うんだ?」
阿南は頭をかいた。
「んー……さっきのも寄らなかったんですかね。1分じゃわかんないな」
外野が後手後手になってきた。
いや、とっくになっていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
6七金。
《ここで角打ちたくないっすか? 合駒請求したほうが、安全そう》
《……いや、危ない》
《なにが?》
《今のタイミングだと、8二金と引くだけで受かってるかも》
《マジ?》
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
8七銀。
寄せ切れるか?
吉良は首をかしげた。
読み切っていないようだ。正解があるのかも、よくわからない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7七金、同玉。
分岐点だ。
俺たちが検討していたのは、7九飛成、6七玉、4七金の包囲。
今治は、
「後手勝ちに見えるが」
と言った。
これに対して、阿南は、
「5七金とべったり受けて、回避できてませんかね」
と懐疑的。
俺はなんとも口出しできない。
そもそも7九飛成なのか?
4七飛成、6七合駒、5八銀のほうが、端へ追っているように思うんだが。
しかし、鳴門と米子の解説陣も、7九飛成を検討していた。
鳴門は、
《7九飛成、6七玉、4七金、5七金は、8九龍で後手勝ちだね》
と断言した。
阿南も、なるほど、と納得した。
8九龍が銀当たりになっているから、4七金のヒマがない。
鳴門はさらに、
《だから、4七金に7一角、8二銀と使わせて、7八金》
と、別の受けを提示した。
吉良は動かない。残り10秒を切った。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
吉良の腕が舞った。
……………………
……………………
…………………
………………
阿南は、パンと手をたたいた。
「うまいッ!」
詰めろ──いや、それ以上か?
7八銀打じゃ、受けになっていない。7九飛成で終わりだ。
烈の姿勢が崩れた。
自分の持ち駒と相手の持ち駒を、確認し始めた。
《あれ……これ先手、ヤバくないっすか?》
《8八玉、6八金、7八金で粘れない?》
《同金、同銀、6八金が詰めろっすよ》
《あ……7九飛成が止まらないのか》
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
烈は7八銀と引いた。
阿南は、
「たぶん最善です。後手も間違うと死にます」
と言った。
俺たちは検討を打ち切った。
決まったからじゃない。もう見守るしかないと思ったからだ。
6七金打、同銀、同金、同玉、4七飛成、5七金、5八銀。
先手は持ち駒だらけになった。
7八玉、5七龍。
今治は、扇子をパチリと閉じた。
「一手空いたが……後手は寄らんな」
「ですね。8二成桂のかたちが王手にならないので、どうやっても寄りません」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
烈は7一角。
遅すぎる角だった。
8二銀、同角成、同金。
先手は、どこにどう受けても、詰みだ。
7七金でも8七銀でも、6九角以下。
後手玉には、有効な王手がかからない。
烈は呆然としていた。
反省タイムも与えないようなスピードで、60秒が溶けていく。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
烈は頭を下げた。
外野の沈黙の中で、勝者と敗者が、またひとり決まった。
場所:第10回日日杯 4日目 決勝トーナメント 男子準決勝
先手:石鉄 烈
後手:吉良 義伸
戦型:角換わり力戦形
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩
▲6八銀 △7七角成 ▲同 銀 △4二銀 ▲7八金 △6二銀
▲4八銀 △1四歩 ▲9六歩 △9四歩 ▲3六歩 △3三銀
▲1六歩 △3二金 ▲4六歩 △7四歩 ▲3七桂 △6四歩
▲4七銀 △6三銀 ▲6六歩 △7三桂 ▲6八玉 △6二金
▲2九飛 △8一飛 ▲4八金 △5四銀 ▲5六銀 △4四歩
▲3八金 △5二玉 ▲4九飛 △8四飛 ▲4五歩 △同 歩
▲同 銀 △同 銀 ▲同 桂 △4四銀 ▲7一角 △4三金
▲8二銀 △7二金 ▲7三銀不成△同 金 ▲5六桂 △6一玉
▲4四桂 △7一玉 ▲5二桂成 △1三角 ▲5三桂成 △4六銀
▲3五銀 △4八歩 ▲同 飛 △5三金 ▲同成桂 △5六桂
▲同 歩 △5七銀打 ▲7九玉 △4八銀成 ▲同 金 △8二玉
▲4六銀 △同 角 ▲6八銀打 △5九銀 ▲5八金 △6八銀成
▲同金右 △5七銀 ▲6二銀 △4九飛 ▲8八玉 △7二金
▲5七金 △同角成 ▲6八金打 △6七金 ▲同金直 △同 馬
▲7九金打 △5六馬 ▲6八桂 △7八馬 ▲同 金 △4五角
▲5六歩 △8三金打 ▲6一銀打 △6二金 ▲同成桂 △9三玉
▲7二銀成 △同 角 ▲同成桂 △8六歩 ▲同 歩 △6七銀
▲7九銀 △7八銀成 ▲同 銀 △7九金 ▲6九銀打 △7八金
▲同 銀 △6九銀 ▲7九金 △7八銀成 ▲同 金 △6七銀
▲7九金打 △7八銀成 ▲同 金 △8七歩 ▲9八玉 △8八金
▲同 銀 △同歩成 ▲同 金 △7九銀 ▲7八金打 △8八銀成
▲同 金 △7九銀 ▲7七銀 △8八銀成 ▲同 玉 △6七金
▲8七銀 △7七金 ▲同 玉 △5七金 ▲7八銀 △6七金打
▲同 銀 △同 金 ▲同 玉 △4七飛成 ▲5七金 △5八銀
▲7八玉 △5七龍 ▲7一角 △8二銀 ▲同角成 △同 金
まで156手で吉良の勝ち




