552手目 中華そば
※ここからは、御城くん視点です。
よし、これで俺の出番は終わりだ。
解説会場を出て、大きく背伸びをする。
カーペットに反射する真夏の日射しが、妙にまぶしかった。
仕事明けっていうのは、ほんとうに開放感があるんだな。
いったん部屋へもどって、着替えよう。ここからはラフでいい。
下の階へ──ん? 休憩スペースに、だれかいるな。
よくみると、魚住がソファーに寝っ転がっていた。
顔に麦わら帽子を乗せている。
俺はそのまま通り過ぎようとしたが、ちょっと気になって声をかけた。
「おーい、だいじょうぶか?」
魚住は麦わら帽子の下で、
「昴くん、負けちゃった……」
とつぶやいた。
しょうがないよな。負けは負けだ。
とはいえ、魚住が六連を応援していたのは知っているから、
「ま、こういうこともある。勝負は時の運だ」
と返した。
魚住は、
「そりゃそうだけどさあ……昨日の不調がなきゃなあ……」
と言って、ソファーからゆっくりと上半身を起こした。
麦わら帽子をかぶりなおして、嘆息する。
「ハァ……御城のあんちゃん、お昼どうする?」
「部屋にもどって、着替えてから行こうと思ってた」
「なんで着替えるの?」
魚住はシャツに半ズボン、それにサンダルというかっこうだった。
俺もそれなら着替えなくていいんだけどな。
ここもカドが立たない言い方にしておく。
「汗をかいた」
「あれ、あんちゃん暑がりなの?」
そういうことにしておく。
「そっか、でも着替えはすぐだよね。だれかもうひとりくらい呼んで、外行かない?」
「だな。今夜はパーティーだろうし、ホテルのランチはやめよう」
俺は自室にもどって、ポロシャツとジーンズに着替えた。
廊下にもどると、爪を噛んでいるメガネの女、渋川が待っていた。
黒のロングワンピースを着て、肩から小さなバッグをかけていた。
「なんだ、来てたのか」
「き、来ちゃ悪いの……ッ?」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだが……白鳥にスタッフの枠をゆずったから、てっきり来ないのかと思ってた」
「す、スタッフになるのが、イヤだっただけよ……ッ。ど、どこで食べるの……ッ?」
3人で話し合った結果、とりあえずぶらぶらすることに。
俺たちはH島市出身じゃないから、店をあまり知らないのもあった。
ホテルを出ると、厳しい夏の暑さに襲われた。
さすがにたまらない。俺は扇子をとりだして、あおぐ。
「さて、どうする?」
「おいら、ラーメン食べたいなあ。有名店じゃなくて、ほんとにふつうのラーメン」
たしかに、そういうのもいいな。
渋川もそれでオッケーだったから、俺たちはそのへんのラーメン屋へ入った。
店の外の匂いからして、とんこつ系だな。
メニューは……壁に【中華そば ●●円】の張り紙があるタイプか。
いい感じに汚れている店内。
おやじさんは、らっしゃい、とだけ言って、新聞を読んでいた。
俺たちは4人がけのテーブル席について、注文をした。
中華そば。一番シンプルなやつ。
魚住だけ、チャーシュー麺にするかどうか迷っていたが、けっきょくそろえた。
しばらく雑談する。
将棋からは離れて、夏休みの予定なんかを話した。
店員さんが、どんぶりを運んできた。
予想通り、スープが白く濁っていた。
箸を割って、いただきます──ザ・そのへんのラーメン、だな。
なんだかかえって生き返る。
魚住も、
「O道とは味がちがうけど、おいしいねえ」
と言って、ご満悦だった。
男子ふたりは、あっという間に食べきってしまう。
渋川は猫舌なのか、やたらレンゲでふぅふぅしながら食べていた。
俺は箸をおき、水を飲んで、ひと息ついた。
「ふー……ところで、魚住、六連はどういう負け方だったんだ?」
「え、あ、うーん、それが、よくわかんなかったんだよね。気づいたら悪くなってた」
俺はちょっと気になって、スマホで棋譜を確認した。
「……むずかしいな」
「でしょ。解説席でも、結論が出なかったし」
「相方は将棋仮面?」
「ううん、九州の知らない男子だった。将棋仮面のあんちゃんは抜け番」
俺はスマホをテーブルのうえにおいて、局面を見せた。
「ここから入玉できるなら、後手がいい」
「だけど、どうみてもできないよね」
そう、これはさすがにできない。
つまり、後手は失敗している。
俺は再生ボタンで、先へ進めていく。
2六角、2七玉、1八金、1六玉、5九桂。
5九桂は、詰めろの回避。
以降は、完全に押しもどすターンだ。
2四香、2一飛、2二銀、1七金、2五玉。
「本譜は、ここで3五角か……切ったのがよくなかった可能性もある」
魚住は、
「おいらも切るけどなあ。ほかに手がなくない? ぐずってると、入られちゃうよ?」
と言った。
俺は、
「4二成銀は、あると思う」
と、候補を挙げた。
渋川は箸をとめて、
「と、取らなきゃ、なんともないわ……ッ」
とつっこみを入れてきた。
「そうか? 次に3二成銀だぞ?」
「い、1六歩と打たれたら、せ、先手のほうが、忙しいでしょ……ッ」
なるほど、たしかに。
1六歩に3二成銀、1七歩成、2二飛成は、間に合わない。
「だったら、切るしかないな……同歩、2六香、1四玉、2四香の順も、自然だ……が、この時点で先手が勝ちにくくなっている。後手を寄せるのは困難だ」
俺たちは、沈黙した。
どこでおかしくなった?
とちゅうまで、先手は良かったはずだ。
入玉を阻止する手順がマズかったか?
だとすると、パターンが多すぎて、分析しにくい。
「……ソフトにかけてみるか?」
俺の提案に、魚住は、
「ま、それでもいいんじゃない」
と答えた。
そのときだった。
となりのテーブルからいきなり、若い男の声が聞こえてきた。
「桂打ちがミスだろうな」
俺たちは、ふりむいた。
黒のスポーツキャップに大きめのサングラスをかけた男が、ラーメンを食べていた。
容姿はよくわからないが、けっこうイケメンっぽいな。
俺の好みとは、ちょっとちがうが。
もしかして10代か?
おとなびた雰囲気だが、俺たちとおなじ年齢層にみえた。
少年は澄んだ声で、
「161手目の桂打ちがミスだ」
とくりかえした。
俺と魚住と渋川は、顔を見合わせた。
少年は勝手に先を続けた。
「聞き流すだけでいい。161手目に、先手は5九桂と打った。一見手堅いが、ミスだ。もちろん、受けたこと自体はミスじゃない。5八銀成以下の詰めろになっているからな。そこで5九桂じゃなく、5九銀として、駒を節約しないといけなかった」
【参考図】
5九銀? ……いかにも危なさそうだが。
なにかあったとき、5七桂の放り込みが成立してしまう。
少年は水を飲んで、先を続けた。
「ここで桂馬を節約すれば、2四香に2一飛、2二銀、1七金、2五玉、3五角とする必要がなくなる。すぐに3七桂の詰めろでいい。以下、同香成、同角で、先手優勢だ」
【参考図】
……そうか。3七の角で、銀にひもがつく。
これなら単に銀引きでも、受かっている。
しかも、後手はこの瞬間が詰めろだ。
俺が感心していると、少年は箸をおいて、ごちそうさまをした。
マスクをつけ、席を立つ。
俺は、
「どうもありがとうございました」
とお礼を言った。
少年は手でサッと返事をして、店を出て行った。
あとには、ラーメンの香りだけが残った。
「な、なにあの男……ッ?」
「わからん」
「夏にマスクなんかしちゃって、風邪気味だったのかな?」
魚住の推測に、俺は内心でノーだった。
あれは、顔を見られたくなかったんじゃないだろうか。
俺がそんなことを考えていると、魚住は、
「でも、さっきのあんちゃんが言ってたこと、ほんと?」
と、急に素にもどった。
「り、理屈は成り立ってたと、お、思うわよ……ッ」
「俺もそう思う。説明に穴はなかった」
これを聞いた魚住は、二重にがっかりした。
「そっかぁ、受けがおかしかったのか」
「1分将棋で今の順を読むのは、むずかしいだろうな」
「だよね……」
魚住は椅子にのけぞって、
「あとは捨神のあんちゃんと、素子ちゃんを応援しよ」
と言った。
「も、素子ちゃんは、プレーオフ、だ、だいじょうぶかしら……ッ」
俺は水をひとくち飲みながら、
「どうだろうな。六連も、とちゅうではもう決まったと思っていたが、結果はこうなった。だれが残っても、おかしくはない。それに……」
俺はスマホを確認した。
13時15分。
あと15分で、プレーオフ開始だ。
「そ、それに……ッ?」
「俺たちはもう、解説でもなんでもない。ただの観戦者だ。将棋の観戦は、エールを送れない。野球やサッカーとは違って……ただ見守るだけだろ」




