540手目 かぶりなおされる帽子
※ここからは、香子ちゃん視点です。女子第17局開始時点にもどります。
最終局直前。私はお茶を飲みながら、ひと息ついていた。
となりの姫野先輩からは、なんかちょっといい香りがする。
香水かしら。ほんとうにうっすらと、だけど。
半年のうちに、だいぶおとなびたなあ。
見る対局は磯前vs西野辺と決めてあるし、あとは雑談コーナー。
私は、
「予選通過争いが熾烈ですね。姫野先輩は、だれが通過すると思いますか?」
と話を振った。
「むずかしいご質問です。5敗勢のうち4名が負けると、6敗勢にもチャンスが回ってきます。残りの対局カードを見ても、ありえないシナリオではありません」
そうなのよね。
6敗勢がプレーオフになる条件は、5敗勢5名のうち、4名が負け。
磯前vs西野辺、大谷vs鬼首、温田vs剣、桐野vs梨元、早乙女vs宇和島。
早乙女さんは負けないかなあ、と思う。だけど、磯前さん、大谷さん、温田さん、桐野さんが揃って負けるのは、わりとありそう。
大谷さんは対戦相手が強いし、西野辺さんと剣さんは、今日の1局目が良かった。
西野辺さんの今朝のようすをみると、カレピのおかげかな。
ラブパワー、強し。
梨元さんは8連勝中で、絶好調。
「裏見さんは、本局について、どのようなご予想で?」
「そうですね……ここまでの勝敗数は、磯前さんが圧倒しています。西野辺さんは、大谷戦の内容がよかったです。両者、調子がいいみたいなので、熱戦を期待しています」
心情的には、磯前さんを応援しているところがある。ただそれは、私が磯前さんをよく知っていて、西野辺さんはあんまり知らない、っていうだけ。
だから口にはしない。
《間もなく開始です。ご準備ください》
私はいずまいを正した。
……ピポ
7六歩、8四歩、2六歩、8五歩、7七角、3四歩。
【先手:磯前好江(K知県) 後手:西野辺茉白(H島県)】
角換わりだ。
私は、
「先手が誘った、というよりも、後手の誘導に見えますね」
とコメントした。
「左様です。西野辺さんのほうに、なにか準備があるのやも」
角換わりの出だしはありふれてるから、磯前さんはすぐに6八銀と上がった。
ところが、西野辺さんは4四歩。
いきなり角筋を止めた。
磯前さん、小考。
解説も、いきなり修正を迫られる展開に。
「角換わりかと思ったんですが……違いましたね」
「ムリヤリ矢倉でしょうか。後手の研究ストックが切れた、とも読めますが、これ自体がなんらかの研究かもしれません。どちらであるのかは、考えてもわからないと思います」
うーん、同意。
ここはパッと指したほうがいいような──あ、指した。
4八銀。
矢倉の含みを見せた。
3二金、1六歩、9四歩、4六歩、4二銀、7八金、6二銀。
矢倉っぽくなってきた。
だけど先手は、7七の角をどうするのか、これが悩ましい。
「先手は矢倉に組めますか?」
「ここからは雁木にするしかないかと」
「雁木ですか……後手も雁木なら、相雁木ですね」
「双方どう囲うのか、注目です」
4七銀、4三銀。
後手のほうが早めに雁木を確定させた。
9六歩、7四歩、1五歩、5四歩。
磯前さんは、なかなか態度を決めない。
ちょっと迷ってるのかな、という印象を受ける。
とはいえ、雁木以外に組むのはむずかしい。
6六歩、3一角、6七銀で、ようやく相雁木に。
3三桂、2五歩、5二金、2四歩、同歩、同飛、2三歩、2八飛。
飛車先の歩を切って、先手は軽くなった。
でも、王様の位置が不安定だ。
姫野先輩は、
「このまま居玉で7五歩も、考えられます」
と言った。
いやあ、どうかなあ。
それは姫野流な気がする。
「通ります?」
「7五歩、同歩、同角、7六歩ならば、5三角または6四角が好位置になります。壁角も解消できるので、一石二鳥です。個人的には6四角が好みです」
「そのあと、後手の攻めが続きますか?」
「先手は6五歩で咎めに行き、そこで8六歩とカウンターを決めます。以下、6四歩、8七歩成、6三歩成、同銀、8七金、同飛成、8八飛は、いかがでしょうか」
【参考図】
姫野先輩の攻め気質が暴走してるぅ。
こんな変な攻め合いしないでしょ。
「もうちょっと穏当な手はないかな、と……」
「棋理には適っていると思いますが」
いやあ、棋理もあるけど、心情もあるわけで。
最終局の、しかもプレーオフがかかってる場面で、これは選択しにくい。
あ、でも、西野辺さんは予選落ち確定だから、誘う可能性はあるのか。
調子もいいし、攻め合いは歓迎だと思う。
私がそんなことを考えていると、駒音が聞こえた。
仕掛けた。
さっきの攻め合いの筋があるから、固唾を飲んで見守る。
同歩、同角、7六歩、5三角。
後手は深く引いた。
姫野先輩は、
「この手では、やや落ち着いた流れになります」
と、ちょっと残念そう。
まあまあまあ。
「ちなみに、7六歩の一手ってわけじゃ、なかったですよね?」
「はい、5六銀と出ても良かったですし、6八角と引く手もありました」
そこを選択しなかったあたり、磯前さんもひよってるイメージ。
大一番だから、しょうがない。
こういうところで踏み込むのは、逆に大谷さんのほう。
ふだんの言動と盤上の指し手って、そこまで連動しない。
5六歩、7三銀、6八角、6四歩、3六歩。
私は、
「おたがいに間合いを計ってますね」
とコメントした。
「先手は焦点がなくなりました。やや後手持ちです」
たしかに、後手からの攻め待ちだ。
西野辺さんが動くかどうか。
西野辺さんとしては、最後の対局、というだけだから、千日手にするモチベはないと思う。磯前さんも、そのへんは考慮に入れていそう。
「これ、単に8六歩とか6五歩は、続きませんよね?」
「7四銀は必須かと」
「7四銀、5八金の瞬間に、6五歩、7五歩、8六歩の選択ですか。7三桂は7五歩、同銀、7四歩があるから、すぐには跳ねられないです」
私たちは、歩突きの是非を検討した。
結論として、6五歩は入れないほうがいい、ということに。6五歩、同歩、7五歩、同歩、同銀、7六歩、8六歩、同歩、同銀の瞬間、5七角と出る手があるのだ。
【参考図】
ここでうっかり8七銀成とすると、8三歩からの連打で止まってしまう。
そのとき7八成銀が王手じゃない、というところがポイント。
だから8五飛と浮かないといけなくて、以下、7五歩、8七銀成、7六銀。
【参考図】
この返しが強烈。5三の角筋も止まっていて、後手の攻めは頓挫。
これを回避するには7五歩に同銀としないといけない。
というのを8割方、姫野先輩に読んでもらいました。マル。
姫野先輩は、
「7五同銀のところでは、まだ後手持ちだと思います。しかし、こうするくらいなら、最初から6五歩を入れないほうがよいです。そのときは5七角が成立しません」
と解説した。
ほえ~、なるほど、勉強になる。
「7五歩は、取らなくてもオッケーですよね?」
「取らないほうが自然だと思います。その場合、先手は3七桂などで一手待ち、後手に6五歩を突かせます」
「それを同歩なら、さっきの順に合流する、と?」
「いえ、その場合はさらに同銀で変化します」
【参考図】
そっか、手順でだいぶ違う。
検討もだいたい終わったところで、西野辺さんが着手。
7四銀、5八金、7五歩。
本線に入った。
こんどは磯前さんが長考。
姫野先輩は、
「3七桂は、第一感として見えていると思います」
と言って、次の手を考えているわけではない、と予想した。
私もうなずいた。
「そのあとですよね、問題は。6五歩、同歩、同銀、6六歩、7六銀と突っ込まれて困るなら、べつの手を考える必要があるので……6五歩、同歩、同銀に7七桂とか、どうですか?」
【参考図】
姫野先輩は、10秒ほど考えた。
「7六銀に同銀とせず、別の手を指す方針ですか?」
「はい……ただ、なにを指すかはむずかしいですね」
戦場から離れるなら、4八玉。
けどなあ、ここから右玉にするのは、磯前さんらしくない気がする。
パシリ
3七桂。
以下、6五歩、同歩、同銀に2九飛。
この手は検討していなかったので、解説席も忙しくなった。
姫野先輩も、読んでいなかったようだ。
それもそのはずで、これは純粋に受けの手。
当然、次の6六歩が強烈な打ち込みになる。
西野辺さんは、長考を開始した。
私は、
「罠……と見てますね」
とつぶやいた。
「わたくしなら、すぐに打ち込みます」
あ、はい。
まあ、姫野先輩が言ってることにも一理あって、罠かどうかの心理戦は、盤上の優劣とは関係がない。私もそこまで気にしないほうかな。
とりあえず、6六歩の検討。
「6六歩オンリーってわけじゃ、ないような……」
「8六歩もありそうですが、手順の問題かと」
たしかに、6六歩を先にするか8六歩を先にするか、くらいの違いだ。
「打たないっていうのは、ないですよね。代わりの手が……」
パシリ
やっぱり指した。
後手の攻め、先手の受け。方針ははっきりした。
あとは後手の攻めが切れるのか、切れないのか、それだけだ。
磯前さんはスポーツキャップを脱いで、ひたいをぬぐった。
クーラーが効いているはずなのに、汗をかいているようにみえた。
披露、緊張、プレッシャー。
磯前さんはそのすべてをはねのけるように、帽子をかぶりなおした。




