531手目 濃密な時間
※ここからは、捨神くん視点です。
……………………
……………………
…………………
………………僕のほうが遅い。
速度計算をまちがえた。
5九歩なら5八成桂、同歩に5六角でいいと思っていた。
でもそれは足りない。2四とのほうが速い。
僕は軌道修正を考えた。
1分ほどして、5八成桂以下は修正できない、という結論になった。
じゃあ、取らなければ? ……イケるかも。
すくなくとも、候補手はいくつかある。
まず、5六角、次に、5六銀、最後に、1四角。
僕はチェスクロを確認した。
僕が15分、香宗我部先輩が9分。
いつもより多く消費している。まだ50手にもなっていない。
時間差を利用して、このまま押し切ってみる?
1分将棋になれば、間違ってくれるかもしれない。
でも、運頼み過ぎるよね。きちんと指したほうが、悔いは残らないはず。
僕は3つの比較を始めた。
第一感は5六角だと思う。でも、7七銀と上がられたときがわからなかった。
5六角、7七銀、6七成桂、同金、5七角成、5六金、6七銀、8八玉──
足りない気がする。
8八玉と寄られたあと、うまい詰めろがかからない。
僕のほうは5二角で詰めろになってしまう。
6一角成、同金、同龍、同玉に、6二銀の手筋が決まる。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
5六角、7七銀に、6六銀という捨て身はありうる。
だけど、これも自信がなかった。6八銀、7七銀成、同銀でよくわからない。
千日手コースっぽいかも。
5六銀は? ……6八銀くらいでダメか。
1四角は? これがダメなら、かなりきついんだけど。
僕は一心不乱に読んだ。
1四角の難点は、5八角成が王手になっていないことだ。
5二銀のほうが速いなら、それで終わってしまう。
ムリヤリ王手をかけられるようにする?
例えば、1四角、5二銀に6九銀。
同玉は5八角成、同歩、6八金で詰む。
だから7七玉だけど、後手も合わせて逃げれば……ダメだ。うまく逃げられない。
僕は苦吟した。
残り時間は僕も10分を切った。
香宗我部先輩も、後手がおかしいことに気づいている。
その証拠に、さっきほど困った顔をしていなかった。
こうなったらミスの期待もできない。正しく読むしかない。
……………………
……………………
…………………
………………ッ!
ちがう、逆だ。
先手玉に王手がかからないなら、僕のほうにもかからないようにすればいい。
5二銀に8二玉。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
6一銀成は王手じゃないし、次に有効な王手もない。
僕のほうは5八角成、同歩、6八金、7七玉に、6一金と手をもどして迫れる。僕が読める範囲では最善。
「1四角ッ!」
駒音が鳴り響いた。
僕はチェスクロを押す。
香宗我部先輩の顔色が、また変わった。
5八成桂じゃないのか、という表情。
攻めてくると思う。残り時間的にも、斬り合ったほうがいい。
だとすれば、あとは読みの深さの問題。
この将棋は、短手数で終わる。
「……」
「……」
濃密な時間。
読みが深まるにつれて、じぶんの勝ち筋と負け筋が、交互に現れてくる。
勝てないかもしれない、という不安が、幾度もよぎった。
だけどそれは、香宗我部先輩も同じはず。
「……5二銀だ」
本線に入った。
僕は8二玉と寄った。
香宗我部先輩は、ノータイムで6一銀成と入った。
5八角成、同歩、6八金、7七玉、6一金。
岐路だ。5七歩も、わずかにある。
この時点で、残り時間はおたがいに3分を切っていた。
香宗我部先輩は息をついて、お茶を飲んだ。
キャップを閉めたあと、静かに9六歩と突いた。
僕は椅子に手をついて、読み直す。
この先に、大きな分岐点が待っている。
6七成桂、8六玉と追ったあと、一回受けないといけない。
もしかして負けになってる? ここで受けるようじゃ、おかしいかもしれない。
だけど、6六角成、6一龍の攻め合いは、はっきり僕の負けだった。
だから、受けないといけない。
受けたあと、先手は? そこがよくわからなかった。
6二歩と叩いてくるかもしれないし、角を打ってくるかもしれない。
4三角が普通だろうけど、2二角みたいな守りの手もあった。
時間が過ぎて行く。
ピッ
1分将棋。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
6七成桂。
香宗我部先輩はノータイムで8六玉。
僕は59秒まで考えて、7二銀打とした。
こんどは香宗我部先輩が悩む番だ。
先手に正解があるのか、あるとして選べるのか。
先輩は、右の前頭部へ手をあてて、テーブルにひじをついた。
……ピッ
先手も1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6二歩」
僕は背筋を伸ばした。2番目に読んでいた手だ。
本命は4三角だった。だけど6二歩も厳しい。
僕はじっと盤を見た。6一歩成は、詰めろでもなんでもない。だけど──
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6六角成」
香宗我部先輩も59秒まで考えて、7七金。
よし、読みの範囲に入った。
この手に賭ける。
「7八金」
「!」
香宗我部先輩は一瞬おどろいて、そのあと目を細めた。
なんだそれは、と視線が語っている。
腕組みをして、まぶたを閉じた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
6六金、同成桂、3三角、6五金、4三角。
先手は攻防の2枚角。僕の攻め駒を攻めてきた。
一気に寄せるしかない。間に合って。
7六成桂、9七玉、8九金、6五角成。
「8五桂ッ!」
成桂が瀕死のなかの、王手。
香宗我部先輩はノータイム指しになった。
9八玉、8八金、同角成、7七銀、7九金、8八銀成、同金。
僕は震える指で、7九角と打った。
香宗我部先輩は、くちびるを結んだ。
40秒が過ぎたあたりで、先輩は姿勢を正した。僕も正す。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
「ありがとうございました」
丁寧に一礼して、終局。
僕は大きく息をついた──勝った。
香宗我部先輩は、
「とりあえず、おめでとう、だな」
と言ってくれた。
「ありがとうございます」
「途中、うまくいったような気もしたんだがなあ」
「そうですね……僕が悪くなる順は、けっこうあったと思います。本譜も微妙で……最後も、7九馬なら、もうちょっと続いたと思います」
【検討図】
香宗我部先輩は、不思議そうな顔をして、
「7九馬? 9七銀で?」
とたずねた。
「8九玉、8八銀右成、同馬、同銀成、同玉、7七桂成、7九玉が、すぐには捕まらないんですよね。後手勝勢だとは思うんですが」
「……なるほど、4六角に合駒はできないが、8九玉で即詰みというわけじゃないのか。しまったな。最後、時間攻めにしたのがミスだった。6七成桂とでもしてくれないかな、と思ったんだが、するわけないから無意味だった……ところで、感想戦をしていいのか? 休みたいなら、切り上げるぞ?」
「あ、だいじょうぶです。早くても昼休憩がありますし、ほかの選手がプレーオフなら、午後の遅い時間帯だと思うので」
僕たちは、中盤も調べることにした。
香宗我部先輩は、
「5九歩の代わりに5二銀は、足りないよな?」
と、確認を入れた。
【検討図】
「これは僕がいいと思いました」
「やっぱりそうか。攻め合いで自信がなかった」
「この段階では気づいてなかったんですけど、ここで8二玉もよさそうです。本譜でじっさいに考えていたのは、いったん9四歩と突いて、6一銀不成、同金、5二とに6九銀でした。同玉なら5八成桂で詰みです」
「これが足りないから5九歩と打ったんだが、捨神はそこから長考したよな?」
僕はちょっと恥ずかしくなって、
「見落としてました。正確には、5九歩、5八成桂、同歩、5六角を読んでたんです。足りないことに、あとから気づきました」
と白状した。
「俺はそっちのほうを読んでなかった。5八成桂、同歩なら2五角だと思ってた。ちなみに、5八成桂を入れないで、単に5六角の場合は、どうなんだ? 5二銀だと?」
「それは先手が足りないと思います」
だったら、と言って、香宗我部先輩は6八銀を示した。
【検討図】
「ありそうですね……ただ、2四とで後手が苦しいかな、と思いました」
「2四とは、1秒も考えなかったなあ。7七銀は考えた」
僕たちは2四との流れも検討した。
結論として、僕が思っていたほど先手はよくなかったらしい。
5一とのほうがまだ採算がある、ということに。
「読み不足でした。どうも枝が多くて……」
「いや、全体的に俺のほうが読み負けてたよ。それじゃ、このあたりにするか」
おたがいに一礼して、解散。
15局すべてを終えた僕は、どこか晴れ晴れとした気分だった。
ひと休みして、インタビューへ向かう。
「もしもし」
いつも通り、御城くんの声が返ってきた。
《もしもし、おつかれさん。そして、おめでとう》
「ありがとう。ようやくプレッシャーから解放されたよ」
《おいおい、まだ予選が終わったばかりだろ》
「アハッ、予選敗退が、わりと現実的になってたからね、後半は」
《14回戦で、吉良に勝てたのは大きかったな。さて、本譜の感想は、どうだ?》
「そうだね、やっぱり深く読めてないな、っていう局面があった。1四角で軌道修正できたのは、ラッキーだったよ。終盤もミスできない局面が続いたから、最後まで気が抜けなかったね」
《いろいろ訊きたいところもあるんだが、とりあえず休憩に入ってくれ。パターンによっては、昼食休憩後、すぐに決勝トーナメントだからな……牧野、なにかあるか?》
あ、牧野くんがいるんだ。
《もしもし、牧野です。決勝トーナメント進出、おめでとうございます》
「ありがとう。懇親会のとき、会ってないよね?」
《昨日会場入りしました。私からは一点だけ、終盤の先手には、7九馬と逃げる筋がありませんでしたか?》
「あ、感想戦で出たよ。長引くけど、後手勝ちかな、と思う」
《たしかに後手優勢なのですが、8八右銀成、同馬、同銀成、同玉、7七桂成、7九玉、4六角、8九玉、8七成桂上、同馬、同成桂、8八金以下が、そう簡単でないように思えるのですよね》
【検討図】
僕は、イヤホンから聞こえた読み筋を追いながら、
「そうだね……もう1分将棋になってたから、深くは読めてないけど……8八同成桂、同玉、6八角成……飛車受けが最強かな。7八飛、6六角、7七歩、6七金で、どう?」
と返した。
《以下、6八飛、7七角成、9七玉、6八金、8七金ですか……なるほど、そこで6七飛と打つか、あるいは7八金と寄って勝ちですね。7八金、7七金、同金のとき、先手は合駒が角銀桂歩で、うまく受かりません》
「だね、今考えた手順だから、実戦でどうなったかは分からないけど」
《承知しました。決勝トーナメント、楽しみにしています》
「おつかれさま」
僕はイヤホンをはずした。
頭が真っ白になる──ほかの対局は、まだ終わってなかったのかな?
解説の立場だから、ほかの対局を観てなかったか、教えにくかった可能性もある。
確認に行こう。きびすを返したところで、囃子原くんとぶつかりそうになった。
「あ、ごめん」
「おやおや、ずいぶんと慌てているな。どうだった?」
「勝ったよ」
「そうか、おめでとう。僕も13-2でフィニッシュだ。観戦に行くか?」
「うん」
僕らはいっしょに、インタビューコーナーを離れた。
【現時点の男子戦況】
1位 囃子原礼音 13勝2敗 全局終了 決勝トーナメント進出確定
2位 捨神九十九 12勝3敗 全局終了 決勝トーナメント進出確定
3位 吉良義伸 11勝3敗 対局中(vs石鉄) プレーオフ以上確定
4位 石鉄烈 10.5勝3.5敗 対局中(vs吉良)
5位 六連昴 10勝4敗 対局中(vs阿南)
6位 鳴門駿 9.5勝4.5敗 対局中(vs米子)
吉良義伸
自分が勝った場合 → 決勝トーナメント進出確定
自分が負けた場合
六連勝ち → 吉良、六連でプレーオフ(2名で1枠を争う)
六連負け → 決勝トーナメント進出確定
石鉄烈
自分が勝った場合 → 決勝トーナメント進出確定
自分が負けた場合
六連勝ち、鳴門勝ち → 予選敗退
六連勝ち、鳴門負け → 予選敗退
六連負け、鳴門勝ち → 石鉄、鳴門でプレーオフ(2名で1枠を争う)
六連負け、鳴門負け → 決勝トーナメント進出確定
六連昴
自分が勝った場合
吉良勝ち → 決勝トーナメント進出確定
吉良負け → 吉良、六連でプレーオフ(2名で1枠を争う)
自分が負けた場合 → 予選敗退
鳴門駿
自分が勝った場合
石鉄and六連負け → 石鉄、鳴門でプレーオフ(2名で1枠を争う)
それ以外 → 予選敗退
自分が負けた場合 → 予選敗退
場所:第10回日日杯 4日目 男子の部 15回戦
先手:香宗我部 忠親
後手:捨神 九十九
戦型:後手角交換型四間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4二飛 ▲6八玉 △8八角成
▲同 銀 △6二玉 ▲4八銀 △7二玉 ▲7八玉 △4四歩
▲5八金右 △5二金左 ▲4六歩 △3三桂 ▲4七銀 △4五歩
▲同 歩 △同 飛 ▲2五歩 △4六歩 ▲3六銀 △4一飛
▲2四歩 △3五歩 ▲2三歩成 △3六歩 ▲4二歩 △4七歩成
▲4一歩成 △3九角 ▲2六飛 △5八と ▲同 金 △4五桂
▲2四角 △3四金 ▲3六飛 △2四金 ▲3一飛成 △5七桂成
▲4二と △4一歩 ▲同 龍 △6二金寄 ▲5九歩 △1四角
▲5二銀 △8二玉 ▲6一銀成 △5八角成 ▲同 歩 △6八金
▲7七玉 △6一金 ▲9六歩 △6七成桂 ▲8六玉 △7二銀打
▲6二歩 △6六角成 ▲7七金 △7八金 ▲6六金 △同成桂
▲3三角 △6五金 ▲4三角 △7六成桂 ▲9七玉 △8九金
▲6五角成 △8五桂 ▲9八玉 △8八金 ▲同角成 △7七銀
▲7九金 △8八銀成 ▲同 金 △7九角
まで82手で捨神の勝ち




