524手目 3年ぶりの
※ここからは、捨神くん視点です。男子第14局開始時点にもどります。
その日の朝、僕はちょっと遅めに部屋を出た。
すると、廊下で葦原先輩と出会った。
葦原先輩は、さっぱりした夏の制服を着ていた。
僕はあいさつをする。
「アハッ、おはようございます」
葦原先輩は、ぺこりと頭をさげた。
「おはようございます」
うーん、どうしよう。距離感がむずかしい。
ひとに会わない予定だった。
とりあえず、階段のほうへ歩く。
僕が迷っていると、葦原先輩のほうから話しかけてきた。
「今日は、捨神くんの解説をするかもしれません。そのときは悪しからず」
僕は、言われたことの意味がわからなかった。
解説? どうして?
僕は踊り場のところで立ち止まって、
「男子は全員15局で、終わるのは同時ですよね?」
とたずねた。
「例年、プレーオフと決勝は、選手が解説することになっているそうです。辞退はできますものの、私は受けるつもりです」
あ、そうなんだ。知らなかった。
葦原先輩はまた歩き始めながら、
「そのようすでは、ご存じなかったようですね」
と言った。
「あ、その……対局以外のことは、あんまり調べてなくて……」
「責めているわけではありません。私も光彦から聞くまでは、知りませんでした。一応、順位の上から声をかけられるようです」
ようするに、5位以下から、ってことかな。
僕は、葦原先輩が暫定7位なことを思いだした。
1番手というわけでは、なさそう。
まるで僕の思考を読み取ったかのように、葦原先輩はほほえんだ。
「私は残り2局も勝つつもりです。それでは、おたがいに武運を」
僕たちは、会場の入り口で分かれた。
対局席へ向かう。
吉良くんは、先にテーブルへついていた。
僕も黙って座った。
駒を並べたあと、振り駒はゆずった。
表が2枚で、僕の先手。
会場全体が静かになっていく。
《対局準備はよろしいでしょうか?》
「……」
「……」
《では、始めてください》
「よろしくお願いします」
チェスクロを押す音。
僕は角道を開けた。
7六歩、3四歩、2二角成、同銀、8八銀、3三銀、6八飛。
【先手:捨神九十九(H島県) 後手:吉良義伸(K知県)】
おたがいに予想済みのかたち。
8四歩、3八金、4二玉、3六歩、1四歩、1六歩。
ふつうに組む。奇はてらわない。
6二銀、7七銀、7四歩、4八銀、7三桂、9六歩。
吉良くんも、オーソドックスに来てるね。
僕は2~4筋を盛り上がる予定。
それは読まれているだろうから、吉良くんはおそらく矢倉だ。
3二金、6六歩、4四歩、3七桂、3一玉、2六歩。
ここまでは読み通り。
僕の構想は、4七銀+3八金型の木村美濃。
6四歩、4六歩、6三銀、4七銀、5四銀、7八金。
吉良くんは2二玉と入った。
僕は小考。そして9五歩と伸ばした。
後手から攻めて欲しい、という手。
大一番だから怖いけど、とにかくひよらない、あせらない。
「……6二飛」
吉良くんも呼吸を合わせてきた。
ここで4八玉。
5二金、6九飛。
吉良くんが攻めるとしたら、次だね。6五歩だ。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
8五歩や4二銀で、手待ちするのもありえる。
でも、吉良くんは引かないと思う。攻めてくるはず。
6五歩、同歩、5五角と置かれて、どうか。
先手は、そう簡単に受かるかたちじゃない。8八角と打つか、あるいは6四歩、同角、6六歩、5五銀、8三角で反撃するか。後者は6三金くらいで止まりそう。以下、6五歩なら同桂、同飛、7三金と、手順に寄ることができる。
だから8八角一択。6五銀に6六歩で、止まりそう? 態勢を立て直してくるかな……そうだね、立て直しは簡単だ。僕のほうは、ここから3九玉としにくい。5六歩がきつくなる。僕の王様は、守りに利かせている意味合いもある。
あ、吉良くんが動く。
「6五歩」
攻めてきた。開戦。
僕は30秒ほど確認して、同歩と取った。
5五角、8八角、6五銀、6六歩、5四銀。
やっぱり立て直してきた。
先手は選択肢が多い。5六歩で角をどかせてもいいし、6八銀~6七銀と組み替えてもいい。2五歩で2筋にプレッシャーをかける手もある。5六歩でも、6四角、6八銀、4三銀、6七銀で、けっきょく組み替えになるかな? 6筋の飛車を活かすには、これしかないかもしれない。
僕は慎重に読んだ。
「……5六歩」
6四角、6八銀、4三銀。
吉良くんは、この6八銀を読んでいたっぽい。
あっさりと雁木に組んだ。
ここからの構想が読まれていると、すこし困るけど──いくしかないか。
「7七桂」
チェスクロを押して、お茶を飲む。
吉良くんは背筋を伸ばして、オールバックのひたいに手をあてた。
本命としては、読んでいなかったっぽいね。
ただ、読み抜けではなさそう。そこまで驚いていない。
ということは、7七桂以外を本命で読んでたってことだ。
たぶん2五桂じゃないかな。2五桂、2四銀、4五歩、3三桂、4四歩、4六歩みたいな攻め合いは、ありえた。後手有利と読んだから切ったけど、差はわずかだと思う。
パシリ
吉良くんは5四歩。
6七銀、4二角、1八香。
吉良くんは手を止めた。
「1八香……」
そうつぶやいて、椅子に深く腰かけた。
これはけっこうな賭けだよ。
指された以上、狙いは見えたと思うけど。
吉良くんは口もとに手をあてて、それから天井を見上げた。
姿勢をもどして、こんこんと考え込む。
「……なるほどね。だけど、そう簡単には抜かせないぜ。6三金」
僕は1九飛と回った。
吉良くんは2四銀で、露骨に止めにきた。
6九飛、8二飛、2九飛。
おたがいに飛車の位置調整に入った。
3三銀、2五歩、6二飛、7九角。
うーん、なかなかきっかけがつかめないね。
千日手の可能性も、視野に入れたほうがいいかな。
べつに僕が優勢なわけじゃないし、指し直しは悪くない。
吉良くんも迷っているみたいだった。
いったん3一玉と引いたあと、1九飛に2二玉と上がった。
僕は2九飛ともどる。
このパターンで千日手? どうだろう?
パシリ
あ、攻めてきた。
ちょっと懸念していた筋ではある。同歩のあと、後手にはいくつかパターンがあって、同角と取ってくるか、6五歩と打ってくるのが有力。僕の対応としては、前者なら5七角と備えたい。以下、7四金、7六歩、4二角、4五歩で、僕のターン。吉良くんが選びそうな手じゃないね。
後者は、もっとめんどう。僕は6五同桂と6五同歩の選択を迫られる。同桂は当然に同桂、同歩の進行。6五同歩は、いったん7五角じゃないかな。
僕はそれぞれの筋を比較して、同歩と取った。
吉良くんは、やっぱり6五歩。
「了解、そっちだね。同歩」
7五角、5八玉。
5八玉では5七角、同角成、同玉、7四金、8三角の攻め合いもあった。
本譜は王様で支える。怖いけど、ここは耐えるよ。
4二角、5七角、7二飛。
よし、ここで反撃。
「1五歩」
攻められてばかりじゃ、ジリ貧。
まずは端から崩す。
吉良くんはここで時間を使った。
単に同歩、1四歩じゃない、って気づいてるね。
雰囲気で分かったのかな? それとも勘?
僕も続きを読んだ。
「……同歩」
僕はいったん7六歩と打った。
これが意外だったらしく、吉良くんはまた小考した。
1分30秒ほどして、7四金。
残り時間は、僕が11分、吉良くんが10分に。
「4五歩」
「攻め合いだ。6五桂」
4六角、7七桂成、同金、8五桂、7八金、6五金。
いったん4四歩、同銀左とかたちを崩してから、2四歩。
ようやく飛車先が入った。
放置で6六歩もなくはないけど、してこないと思う。
2四同歩は6六歩で、一回受ける。
吉良くんは、パチリと指を鳴らした。おそらく無意識の行動。
次の一手を、僕は静かに待った。
3年前に吉良くんと対局したときのことは、なにも記憶にない。
あのときは悪かったと思う。今さらながらに。
今回はちゃんと思い出に残る対局にするよ──できれば勝利で、ね。




