519手目 ボーダーライン
※ここからは、香子ちゃん視点です。女子第16局開始時点にもどります。
心地よい晴天の朝。私はレストランで、ゆっくりと食事を楽しんでいた。
スクランブルエッグにベーコン、ブロッコリー中心の野菜の盛り合わせ。
高級ホテルでの朝食も、今日で最後。
大きな窓から見える通行人の姿も、見納め。
味わって食べ終えた私は、コーヒーでホッとひと息。
同じ席には、桐野さんと西野辺さんがいた。H島グループ。
桐野さんは目玉焼きを食べていた。口の周りが黄身だらけ。
「お花おねぇさあ、もうちょっとキレイに食べられないの?」
「ふえ? お花はお残ししてませぇん」
西野辺さんは、ハァとため息をついた。
そういえば、西野辺さん、テーブルマナーがやたらいいのよね。
口調はがさつなんだけど、じつはけっこうお嬢様とか?
西野辺さんとの接点は、ほとんどない。食事で同席も初めて。
まあ、あんまり深入りしてもしょうがないか。
私がそんなことを考えていると、不破さんが入り口に現れた。
「あ~、寝み」
不破さんは頭をかきながら、そばを通過しかけた。
けど、私たちに気づいて、2歩ほどもどった。
「ポニテの姉ちゃんじゃん」
「おはよ……今日も捨神くんのつきそい?」
「師匠は今朝は来ないってさ」
そっか……理由は分かる。
今日のレストラン、上位の選手があんまりいないのよね。
いても、そそくさと帰っちゃうパターン。
不破さんはきょろきょろして、
「姫野のババアは来てないのか」
と言った。こらこら。
私は、
「姫野先輩は、ホテルに部屋を取ってないらしいわよ。実家から」
と答えた。
不破さんは、チェッと舌打ちをして、
「リムジンでご送迎か、いい身分だなあ」
と、これまた悪態をついた。
んー、そういう問題じゃないような。
「大学生だから、帰省も兼ねてるんじゃない?」
「そんなもん?」
そんなもんじゃないかしら。
私も大学生になって帰省したら、ホテルには泊まらないと思う。
いくら高級ホテルでも、さすがに実家のほうがいい。
不破さんは納得したのかしなかったのか、そのままトレイを取りに行った。
トーストに目玉焼きを乗せて、すぐにもどって来た。
そのあとは、みんなで雑談。
10分ほどしたところで、西野辺さんのスマホが振動した。
「あ、ごめん、私はお先に」
西野辺さんは席を立ち、そそくさとレストランを出て行った。
桐野さんは、
「茉白ちゃん、なんかぴょんぴょんしてたのですぅ」
と言った。ぴょ、ぴょんぴょんってどういうこと?
一方、不破さんはワケ知り顔で、
「あれは男だぜ、まちがいない」
と断言した。あのさあ、そういう勘繰りをしない。
「うにゅ? 男ってなんですかぁ?」
「カレピのことだよ、カレピ」
「なんでカレピってわかるんですかぁ?」
「あたしくらいになれば、一発でわかるぜ」
「楓ちゃん、カレピいるんですかぁ?」
「……」
朝から険悪にならないでください。
とりま、このへんで離席。
部屋へもどって歯を磨いて、服装をチェック。
解説者のほうが、集合時間は早いのよね。
会場へつくと、スタッフのひとは準備を終えていた。
「えー、本日で最後となりますが、よろしくお願い致します」
予選最終日だけあって、解説者たちも気合十分。
申し訳ないけど、昨日は若干ダレてた感じがする。
順番に名前を呼ばれて、私の番になった。
「裏見香子さん」
「はい」
「姫野咲耶さんとお願いします」
おっと、噂をすればなんとやら。
姫野先輩は、黒のカジュアルドレスを着ていた。
「先輩、よろしくお願いしまーす」
「よろしくお願い致します」
着席して、タブレットをセット。
もう手慣れたもの。
「先輩、どこか観戦希望はありますか?」
「ボーダーラインの選手の対局は、いかがでしょうか」
ボーラーライン──いくつかある。
磯前vs温田、桐野vs剣、早乙女vs鬼首、西野辺vs大谷。
磯前vs温田は3位と6位の対戦。ほんとにボーダー対決。
桐野vs剣は3位と8位の対戦。剣さんは位置的にキツイかなあ。
早乙女vs鬼首は6位と1位の対戦。早乙女さんは負けるとキツイ。
西野辺vs大谷は11位と3位の対戦。西野辺さんは決勝の芽がない。
「……磯前vs温田はどうですか?」
「では、そこで」
桐野さんの応援もしたいなあ。
とちゅうで切り替えるのも、ありか。
《間もなく開始です。ご準備ください》
了解。
……ピポ
7六歩、3四歩、2六歩、4四歩、4八銀、9四歩。
ん? 端が早い。
6八玉、9五歩、5六歩、4二飛。
【先手:磯前好江(K知県) 後手:温田みかん(E媛県)】
後手はオーソドックスな四間飛車。
しかも藤井システムっぽい。
これはちょっと意外だった。
私は、
「最終盤は奇をてらわずに……ってことですかね?」
とたずねた。
姫野先輩は、
「そうかもしれません」
と返した。けど、そこまで自信があるわけじゃないみたい。
とりあえず成り行きを見守る。
5八金右、3二銀、7八玉、4三銀、7七角。
温田さんは5二金左を選択。
やっぱり藤井システムみたい。
だとすれば、先手は穴熊に組めるかどうかが焦点になる。
画面の向こうでは、小考する磯前さんの姿があった。
椅子に深く座り、腕組みをして盤をにらんでいた。
パシリ
8八玉、6二玉、5七銀──穴熊を目指すようだ。
7二玉、6六歩、6四歩、6七金、7四歩、9八香。
姫野先輩は、
「先手としても、やや警戒したいところではあります。後手の藤井システムに対して、一直線に穴熊を組むのは、やはり怖いので。だからと言って、穴熊を避けるのは消極的に過ぎます」
と解説した。
「組めるなら組みたいですよね」
「はい、温田さんの対策が見ものです」
7三桂、9九玉、5四銀、2五歩、3三角。
左銀が進出した。
8八銀、6二金上(?)、3六歩、4五歩、7八金。
「6二金上と締まったのは、なにかあるんですか?」
私の質問に、姫野先輩は、
「上部を固くしたのだと思います」
と答えた。
まあ、それはそうか。
と思ったけど、次の手が意表をついた。
パシリ
……………………
……………………
…………………
………………地下鉄飛車?
ここから地下鉄飛車にするの?
オーソドックスに行くのかと思ったら、トリッキーだった。
姫野先輩は、
「間に合わないように思いますが……」
とつぶやいた。
そうよね。先手はふつうに穴熊に組めた。
不満があるとしたら、3枚穴熊や4枚穴熊じゃない、ってことだけ。
もちろん、藤井システムの出だしの時点で、そうはならない。
温田さん、考え過ぎだったのでは。
ここから9二香~4一飛~9一飛は、ちょっときついわよ。
とはいえ、対局者心理は別だ。
磯前さんの手も止まった。
姫野先輩は、
「挑発されていると感じて、開戦するかもしれません」
とコメントした。
「3五歩ですか?」
「はい、3五歩、同歩、2四歩、同歩と仕掛ける順はあります」
「後手が本格的な地下鉄飛車に入る前に……って感じですね。でも、そんなに焦る必要もないような……」
私は言葉を濁した。
姫野先輩が攻め将棋だから、そう見えるだけなんじゃないですかね、という印象。先手はまだ指したい手がある。例えば1六歩とか6八角とか。角を展開するなら5九角もあるし、8六角と前に出てもいい。3八飛と構える手もあった。
私はいろいろ読みながら、お茶を一服。
……………………
……………………
…………………
………………ん? 指さないわね。
私は湯呑みを置いた。
もしかして、ほんとに攻めるっぽい?
もう3分も投入してる。このようすだと、姫野先輩の説が濃厚に──
パシリ
うわぁ……ほんとに攻めるのか……。
磯前さん、前のめりになってないわよね?
それともチャンスと踏んだ?
同歩、2四歩、同歩、6五歩。
すごい。かなり過激な順で攻めた。
温田さんも予期していなかったようで、細かく時間を使った。
同桂、3三角成、同桂、2四飛、5七桂成。
一気に殴り合いへ突入。
姫野先輩は、
「激しくなりました。個人的には先手を持ちたい局面です。以下、同金、4六歩、同歩、4八角と攻めは続くものの、6七金寄が冷静で、いなせます」
と解説した。
あれですか、先輩、攻め将棋になってテンション上がってきました?
盤面は、姫野先輩の予想通りに進んだ。
同金、4六歩、同歩、4八角、6七金寄。
後手は4六飛と走り、先手は2一飛成と成り込んだ。
「受けないとマズいですよね……4一歩とか……」
このつぶやきの直後に、4一歩。
よしよし、予想が当たった。
解説者としては、1局に1回くらいは当てておきたい。
磯前さんは3四歩。
これは桂馬を逃げられない。4五桂には4一龍がある。5七桂成と突っ込むのは、8一角、7三玉と決めてから4六龍が激痛になる。次に8五桂と打たれれば終わりだ。
温田さんも、さすがにそんなヘマはしなかった。
5九角成と攻め込んだ。
以下、6八角、6九馬、4六角、7八馬、7七金。
飛車金交換かあ。
駒割りは、先手の桂得。
でも、穴熊の先手としては心細い。金銀が枯渇した。
ちょっと後手の調子がいいかも。
私は、
「姫野先輩は、どちらを持たれますか?」
とたずねた。
「今は、やや後手持ちです……裏見さんは?」
「私も後手持ちかな……と」
先手、どこかで間違えたっぽい?
さっきまでは互角だったと思う。姫野先輩も手のひら返しをしている。
とはいえ、一直線だったような、そうでもないような──あ、指す。
第一感の手。
いきなり切る順は、成立しなかったと思う。
「4七歩ですか?」
姫野先輩は、扇子を握り締めたまま、画面をしばらく見つめた。
怖い。
「……わたくしなら、6四角と出ます」
えぇ、これまたスゴイ突撃。
ただ指摘されてみると、なるほどな、と思うところもあった。
後手からは、6八銀と絡むくらいでいい。
先手はもっと速い手が必要だ。
「でも、6三銀で受かりませんか?」
「そこで8六角と引きます。これが守りの手になります」
なるほど、そういうからくりか。
どこかで6四歩も入りそう。
磯前さんはスポーツキャップを脱いで、ひたいをぬぐい、長考に入った。




