518手目 指運
※ここからは、剣さん視点で桐野vs剣にもどります。
2五歩、同桂、2四香。
踏み込む。ここで躊躇してもしかたがない。
桐野は上半身をゆらゆら揺らしながら、
「うにゅ~、正念場になったのですぅ」
と言った。
すでに後手がいいはず──なのだが、20手ほどまえも後手がよかった。
いったん押し戻された感はある。私のほうにミスがあった。
桐野は1四銀と打った。
反撃してくるのは読みの範疇。
「2三銀」
同銀成、同玉、3七玉、2五香、2六歩。
ん? 1七銀で間接的な2手スキだぞ? 2五歩なら2六角、2七玉、6七とで詰めろだ。3七金上、1八銀打、3八玉とすれば逃げられるが、桐野はこれを選ばないだろう。先手玉があまりにも危ない。1七銀に、2五歩と取らないほうがありうる。
もしや、そこでいったん2八香と支えるつもりか。
2六香と突っ込んで? 同香、同銀不成、同玉の瞬間、先手玉は露出する。が、簡単に捕まるわけでもない。2五歩、3七玉で同じ位置にもどし……こんどは銀がない。角桂香で寄るかどうか。6七に質駒がいる以上、寄ると思うのだが。
私はのこり7分から2分使って、1七銀と打った。
2八香、2六香、同香、同銀不成、同玉、2五歩、3七玉。
「こんどこそ仕留める。2六角」
桐野は2八玉と後退した。
6七とで銀を回収し、私は持ち駒を補充。今のところは1六桂もあった。1六桂、1九玉、6七との順だ。しかし、1六には銀を打ちたい。
「2七に金を打ちまぁす」
1六銀、3七銀。
手順が重要な局面になった。
べつに切らなくてもいい。取られたら、歩を進めればいいだけだ。
……………………
……………………
…………………
………………4一金と手をもどすか?
(※図は剣さんの脳内イメージです。)
これは……あると思う。先手は角を逃げるヒマがない。
取っ掛かりがなくなって、後手の完封ペースになるからだ。
やるなら2六銀、同歩、1六金、同歩で精算して、2五銀と上から押さえ込みにかかる順。入玉狙いだ。これなら5一の角も援護に回れる。
私はチェスクロを確認した。残り2分。
桐野は7分残している。
私はここに来て迷った。4一金でも勝ちだと思う。わずかに先手入玉のチャンスが出てくる点だけが気になった。とはいえ、2七銀成、同金、3七角成と単純に切っても、後手は続かない。代替案があるとすれば──
「……2七銀成」
桐野は、この手に反応した。
べつの手を読んでいたようだ。
おそらく4一金だろう。
「同きぃん」
「1六金だ」
金銀の組み替え──というより、手渡し。
先手は動きにくいことを利用する。
「ふええ……指す手がめちゃんこむずかしいのですぅ……」
迷え。
桐野は1分使って、同金とした。
同歩、2六銀、同歩、2四歩。
桐野は攻めに転じた。
「同銀」
4二角成とはできないぞ。
2七香以下で詰む。
「3二ぎぃん」
「!」
これは読んでいなかった。
意味があるのか? 同金、2四角成の狙いはわかるが、同玉で?
同玉でなにも問題はないように思えるが──はたしてそうか?
桐野ははったりをしないタイプだ。手がなくなれば投了するはず。
残り1分を切った。集中して読む。
……………………
……………………
…………………
………………ピッ
いかん、1分将棋になった。
私は桐野の狙いをさぐった。30秒が経過したところで、ハッとなった。
もしや角を切って5二金か?
(※図は剣さんの脳内イメージです。)
取ると詰む? 金が足りないように思うが……5二同玉、5三金、4一玉……ん? 1四角がある? 1四角、3一玉、3二銀、2二玉、2三角成、1一玉、1二香は詰む。では、5三金に6一玉だと?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同金ッ!」
読み切れなかった。詰んだのか詰まなかったのかわからない。
寄るような気はしたのだが……それも曖昧だ。
桐野はまた考え始めた。
同玉で寄っていなかったなら、同金は悪手。
残り3分になったところで、2四角成が指された。
59秒ギリギリまで考えて、同玉。
2五歩、3三玉、1一角、2二桂、2四銀、4二玉。
うッ……予想以上に手狭になった。
しかし持ち駒はふんだん。先手玉は簡単に寄る。
ピッ
桐野も1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
5三銀、4三玉、4四銀成、同玉。
5三金、3一玉と閉じ込められる順も気になったが、桐野はこれを選択しなかった。
「よ、4五歩ぅ」
5五玉、5六金、6四玉。
ひとまず逃げ切った。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
桐野は3七玉で、脱出を図った。
「逃がさん。4九龍」
会心の龍切り。
同飛なら2八角で詰む。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
2八香。
敵の打ちたいところに打て、か。
「3九龍」
「2六玉ぅ」
2二に桂馬がいるから、寄るはずだ。
バラして詰みまであるのではないか。
角や銀を渡す順だけ警戒すればいい。
……ピッ、ピッ、ピッ
よし、詰む。
ピーッ!
「1七銀」
簡単だった。
自玉を気にしすぎて、余計なことを考えてしまったな。
「ふえぇ……負けましたぁ」
「ありがとうございました」
桐野の第一声は、
「3二銀に同玉として欲しかったのですぅ」
だった。
「後手が寄るのか? 読み切れなかった」
「たぶん詰みまぁす」
私たちは局面をもどした。
【検討図】
「4一玉は詰む。6一玉を読み始めたが、そこで時間が切れた」
「6一玉は6二銀、7二玉、7三桂成、8一玉に8八香があるのですぅ」
「4八の飛車で紐づけしているわけか。しかし合駒が打てる」
「合駒が悪いのですぅ。歩、香、桂、銀、角はお尻が利いていないので、7二角以下で詰んじゃうのですぅ」
「そうか……それを防ぐには8四金しかないが、同香、同龍、7二角、9二玉、8三金とごり押しして詰みだ」
「というわけで、本譜が最善でぇす」
間一髪だった。指運だな。
いずれにせよ、これで鬼首の決勝進出は確定した。
私のプレーオフの芽も残った。
桐野は、
「とちゅうで、一回押し戻した気がするのですぅ」
と言った。
「あれは私のミスだ。3三銀のところで、1七銀と即打ちしたほうがよかった」
【検討図】
「お花も、これ打たれたら困ったと思いまぁす」
「バラして寄るか?」
「こっちの4二角成より速いのですぅ」
やはりそうだったか。
その後の感想戦は中盤を調べて、簡潔に終わった。
次は最終局だ。体力を温存したい。
「では、これまでとしよう」
「はぁい」
インタビューへ。
出たのはH庫の淡路と、H島OGの小早川だった。
淡路は、
《おつかれさまです。全体の感想は、いかがでしたか?》
と、定番のコメントから始めた。
「中終盤、迷う局面もあったが、おおかた満足のいく将棋だったと思う。終盤は読み切っていなかった。頓死しなかったのは幸運だった」
《対局中も、悩ましそうなお顔をなさっていましたね。頓死というのは、3二銀のところでしょうか?》
「そうだ。同玉と指しかけていた」
《まさに紙一重でしたか……小早川さん、なにかありますか?》
《小早川です。感想戦で出たかもしれませんが、5一角に3三銀と受けたところでは、1七銀と突っ込んだ方が良かったのではないでしょうか》
「うむ、あれは私の見落としだった」
《なるほど、その後の軌道修正はお見事でした。1七歩成のところ、慌てて1七角と打ち込まなかったのは、さすがです。1七角、2九玉で互角にもどるところでした》
【参考図】
これは対局中に読んであった。
6七と、2四歩、2八歩、3九玉で、こちらの陣に火がつく。
「1七同香なら後手良しになるが、さすがに僥倖は期待していなかった」
最後は淡路が、
《コメントありがとうございました。次は最終局です。プレーオフの可能性も残っていますので、ぜひがんばってください》
としめくくった。
「承知した」
インタビューも終わり、鬼首を探す──ん? いないではないか。
私は、手近にいた亜紀に話しかけた。
「あざみを知らんか?」
「あざみちゃんなら、だいぶ前に負けて出て行ったよ」
「なに……いつだ?」
「始まってから30分くらいかなあ。となりで急に投了したから、びっくりしちゃった」
まずい……早乙女との相性が、まさかここまでとは。
早乙女にもプレーオフの芽がある。
私は、あざみを探しに会場を出た。
すると、犬井と出くわした。
「あ、終わった?」
「あざみは?」
「控え室から出たあと、どっか行った」
私はスマホを──スマホは持ち込み禁止だった。持っていない。
宿泊室か? 手洗いか?
「桃子ちゃん、べつに追っかけなくてもいいんじゃないの」
「しかし、早乙女の……」
「予選はあと1局、決勝トーナメントは2局、修正する時間はないよ」
そう言って、犬井は壁面ガラスから、H島の街並みを見た。
「……」
「……」
犬井のやつ、あざみに話しかけて、なにか言われたな。
そう勘繰った矢先、左手のほうから足音が聞こえた。
記者の葉山が、小走りに駆けて来た。
「あ、剣さん、終わった? 取材、いい?」
横槍が入ってしまったか──まあいい。
子守りではないからな。
葉山はメモ帳をとりだした。
「次は温田さんとですよね。けっこう大勝負だと思うんですが」
「ふっ、刀の錆にしてくれる」
「あの……もうちょっと穏健に……」
場所:第10回日日杯 4日目 女子の部 16回戦
先手:桐野 花
後手:剣 桃子
戦型:先手ダイレクト向かい飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2二角成 △同 銀 ▲8八銀 △3三銀
▲7七銀 △8四歩 ▲8八飛 △1四歩 ▲1六歩 △6二銀
▲3八金 △4二玉 ▲4八銀 △7四歩 ▲3六歩 △5二金右
▲4六歩 △3二玉 ▲4七銀 △7三銀 ▲4八玉 △6四銀
▲6六歩 △8五歩 ▲5六銀 △7三桂 ▲5八金 △8四飛
▲4七金左 △5四歩 ▲3九玉 △4四歩 ▲2八玉 △2二玉
▲3七桂 △4二金上 ▲2六歩 △2四歩 ▲9六歩 △9四歩
▲6七銀 △3二金 ▲4八飛 △4二銀 ▲6五歩 △同 桂
▲6六銀左 △8六歩 ▲6五銀 △同 銀 ▲7七桂 △8七歩成
▲6五桂 △7七と ▲4一銀 △8九飛成 ▲5二銀成 △1五歩
▲4九桂 △1六歩 ▲4二成銀 △同 金 ▲5一角 △3三銀
▲2五歩 △1七歩成 ▲同 香 △同香成 ▲同 玉 △1六歩
▲同 玉 △1五歩 ▲2六玉 △2五歩 ▲同 桂 △2四香
▲1四銀 △2三銀 ▲同銀成 △同 玉 ▲3七玉 △2五香
▲2六歩 △1七銀 ▲2八香 △2六香 ▲同 香 △同銀不成
▲同 玉 △2五歩 ▲3七玉 △2六角 ▲2八玉 △6七と
▲2七金打 △1六銀 ▲3七銀 △2七銀成 ▲同 金 △1六金
▲同 金 △同 歩 ▲2六銀 △同 歩 ▲2四歩 △同 銀
▲3二銀 △同 金 ▲2四角成 △同 玉 ▲2五歩 △3三玉
▲1一角 △2二桂 ▲2四銀 △4二玉 ▲5三銀 △4三玉
▲4四銀成 △同 玉 ▲4五歩 △5五玉 ▲5六金 △6四玉
▲3七玉 △4九龍 ▲2八香 △3九龍 ▲2六玉 △1七銀
まで132手で剣の勝ち




