512手目 3日目終了
※ここからは、磯前さん視点です。
そっちかぁ。
あたしは後頭部をぽんぽんと叩いた。
同銀で読んでたんだけど。
まあ3九玉を読んでなかったわけじゃない。微妙に寄らないのも分かっている。
「……5三歩」
とりあえず受けた。不本意。
お互いに腰の引けた感じになった。
ドラグを緩めるしかないか。
この局を釣り上げないと、あたしのほうが終わっちゃう。
6二銀、同金、同桂成、同玉、7八飛。
厳しい。飛車を消して馬を抜くしかない。
4九龍、同玉、5八銀打、同飛、同銀成、同玉、8八飛。
王手馬──だけど、先手がよくなってきた気がする。
6八銀、8一飛成、7四角、6四金、8三飛。
うーん……こうなったら、もう一回抜くか。
「同龍」
同角成に6七香成と捨てる。
「くッ、捨て身か。同銀」
もういっちょ8八飛。2度目の王手馬。
7八香、8三飛成、8四歩、同龍、7三銀。
こんどはこっちが王手龍。
めちゃくちゃアクロバットな将棋になってしまった。
観戦者は喜んでそう。
同龍、同香成、同玉。
落ち着いたか?
だけど剣は落ち着かせるつもりがないらしく、
「8一飛だ」
と打ち込んできた。
あたしは手を止める。
先手は飛車をもう一枚持っている。金もある。
ようするに詰めろ。8三飛打以下で詰む。
ってことは8三を受けるか、王様を逃げないといけない。
一番単純なのは8三歩。
だけどそれで止まる? 詰めろを受けてるだけなんだよね。
攻めるなら……3八角。これも詰めろの回避にはなっている。
あたしは持ち時間を確認した。先手11分、後手10分。
そんなにない。ちょこちょこ使ってしまった。
2、3分考えて、あとは運任せか。
……………………
……………………
…………………
………………よし、決めた。
敵陣に遠投する。
「3八角」
剣は「ふむ」とうなった。
「それが釣り針のつもりか?」
「んー、食いついてみる?」
剣は小考した。
さすがに冷静だね。
「7一飛成」
イヤな手がきた。
7二歩と受ける。
「8二飛」
また詰めろ。仕留めるつもりか。
あたしは4九角打で、いったん反撃に出た。
5九玉と引かせてから、8三銀。
これで先手も受けるんじゃないかな。6七角成とされたら、もたないでしょ。
案の定、剣は5八銀と引いた。
さて……お茶を飲む。
残り時間は5分──決めに行きたい。
5八角成と切れば決戦。
(※図は磯前さんの脳内イメージです。)
同玉に6六桂と打ちたい。
6九玉は6七銀で詰めろがかかる。
6八玉は6七歩と打って、同玉なら4九角成……ん? 詰むか、これ?
あたしは考え込んだ。
……………………
……………………
…………………
………………詰むな。
4九角成以下、6六玉に6五金といきなり捨てて、同玉、7六銀、7五玉、7四銀、8六玉、8五香、同飛成、同銀上、9七玉、7七飛。
(※図は磯前さんの脳内イメージです。)
続きは簡単。
手数的には長いから、見逃してくれないかな? ダメか。
とちゅうが並べ詰みだもんな。
いずれにせよ、6六桂に6八玉とも逃げられない。
だったら4八玉と逃げるしかない。
でもこれは4七銀、3九玉、5八桂成で包囲できる。
あとはあたしの王様が詰まなければいいだけ。
詰む? 詰まない?
あたしは続きを読んだ。時間がどんどん溶けていく。
ピッ
1分将棋に。もうちょっと欲しい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5八角成」
同玉、6六桂、4八玉、4七銀、3九玉、5八桂成。
剣も角切りを予想していたらしい。
ここまでは速かった。
そして、ここから長考。
先手玉は詰めろだけど、必至じゃないんだよね。
まあでも3五銀なんかはジリ貧でしょ。
剣は1分残して、5一角と打った。
6三玉、8三飛成、5四玉、4五銀打、6五玉、5六銀。
くぅ、その手があったか。攻めの銀が消える。
同銀不成、8五龍、6六玉、8四角成、7七玉。
すり抜けた。
剣もすでに1分将棋。
盤面を見つめて、身じろぎもしない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
3八玉。
あたしは髪をがしがしやった。
当初の予定とちがうんだよ、これは。
先手玉が解放されてしまった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
4七銀不成。
5六で生き残っていた銀を、前に出す。
同銀なら2七銀で詰む。
2八玉、3六銀成。
ふたたび詰めろ。網をしぼった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
入玉できるか?
なんともいえない。詰んだら負け。
「7五歩」
とりあえず堰き止める。
剣は同龍引で切ってきた。
同金、同龍、7六香、6七金、8八玉、8五龍、7九玉。
これじゃあたしが逃げてる魚だね。
7六龍、7八歩、9七角、6九玉、6八金打、同成桂、同金、同玉。
あたしたちふたりの表情が変わった──逃げ切った気がする。
龍と馬と角の筋が、絶妙に悪い。しかも先手は金銀がなくなった。
剣の顔に、うっすらと苦しげな気配がただよう。
とはいえ気は抜けない。絶対に寄らないという保証がなかった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6五龍」
大丈夫だよね……6七銀。予選なのに手が震える。
剣は59秒まで考えて、同龍と切った。
同玉、7九桂、6八玉、8六角、7九玉、9七角、8九玉。
剣は目を閉じて、しばらくうつむいていた。
無念そう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「投了だ」
「ありがとうございました」
ふぅ……あたしは帽子を脱いで、汗をぬぐった。
いやはや、首の皮一枚つながった。
剣はしばらくのあいだ、ああでもないこうでもないと言っていた。
「5六玉と上へ逃げたほうが、よかったか?」
「上でも捕まえる自信はあったよ」
そこそこね。
あたしたちは4七同銀、同桂成、同玉、4九龍、5六玉の順を検討した。
【検討図】
あたしは、
「とりあえず5三銀で押さえるかな」
と言った。
「5五銀で?」
「4四金、同銀、同歩……7三角って打つ?」
「6二金打、9一角成か……入玉できればよいのだが……」
あたしは率直に、
「先手は6五玉から入りに行くと、たぶん急に悪くなるよ。8九龍とか7三金とか、逆に包囲網を狭める手があるからね。だから5六玉は広いように見えて、そんなに広くない」
と返した。これは本音。
例えば5三銀にいきなり6五玉としたら、8九龍、4二桂成、同玉のあと、受けないといけなくなる。
「5六玉に5三銀じゃなくて、6二歩も有力かな」
【検討図】
この場合も、先手は6五玉とできない。7二銀、5二金上、6五玉の瞬間、7三金で即座に縛れる。7二銀に同金、同馬、5三銀、6五玉は即詰み。6四金、7六玉、7五銀、8五玉、8九龍、9六玉、8六龍まで。
というわけで、5六玉対策はしていた。
剣は納得したようで、
「ならばどこが悪かったのだ?」
と首をひねっていた。
「あたしも、どこで良くなったのか、イマイチわかんないんだよね」
これはもう外野に訊いたほうがいいか。
あたしは疲れていることもあって、感想戦の切り上げを申し出た。
一礼して終了。最後だから駒は駒箱へ。
席を立ち、背伸びをしてからインタビューへ向かった。
「もしもーし」
《もしもし、お疲れさま》
やっぱり香子ちゃんか。
半分くらい香子ちゃんに解説されてる。
「おつかれ。こっちから先に訊きたいんだけど、どこで後手良くなった?」
《一之宮さんとの検討では、8二飛が良くなかったんじゃないかな、って》
【参考図】
ん? そこは考えなかった。
「理由は?」
《これ自体は詰めろなんだけど、8三銀で止まっちゃうのよね。6一飛のほうが継続性があるんじゃないかしら》
「……ああ、なるほど、8四金、同玉、6四飛成があるのか。これだと先手有利かも」
《本局は、有利不利の評価が難しかったと思う。一之宮さんとも意見が合わないことが多かったし。ただ8二飛が疑問だった点では、一致してる》
「了解。ありがと。解説から、なにか質問ある?」
《私からはないわ。今日はゆっくり休んで……一之宮さんは?》
《わたくしからもございません。ゆっくりお休みください》
インタビューは終了。
最後だから、だいぶ気を遣われたっぽいな。
ほかのところも、さくさくと終わっていた。
もう6時。食事にしよう。
会場を見渡すと、ひよこの姿が見えた。
「おーい、ひよこ」
ひよこはふりむいた。
両手を合わせてあいさつしてくる。
「磯前さん、おつかれさまです」
「どうだった?」
「勝ちました。磯前さんもお勝ちになられたようですね」
「他はどうかな? だれか決まった?」
「いえ、まだ決まっていないようです」
そっか、意外だな。萩尾あたりは今日中に決まるかと思ったけど。
こうなってくると、あたしたちにもチャンスがある。
「夕食、どうする? 今日は完全フリーだよ」
「拙僧は立ち食いそばにします。気分転換をしたいので」
それはあたしにはキツイ。もっと食べたい。
「プレイオフと決勝の芽もあるし、ここはライバル同席せず、にしよっか」
「承知しました。では、また明日」
あたしは会場を出た。
夏の夕方。まだ空は青く、窓から見える人通りは多かった。
11勝4敗──ギリギリだな。
なんだかんだで、予定通りではあると思う。
ぶっちぎりで予選抜け、なんてうぬぼれてたわけじゃない。
逃がした魚は大きいって言うし、明日はきっちり捕まえよっか。
場所:第10回日日杯 3日目 女子の部 15回戦
先手:剣 桃子
後手:磯前 好江
戦型:後手3三金型角換わり
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3二金
▲2五歩 △3四歩 ▲6八銀 △3三角 ▲同角成 △同 金
▲7七銀 △6二銀 ▲7八金 △7四歩 ▲4八銀 △7三銀
▲4六歩 △6四銀 ▲4七銀 △9四歩 ▲1六歩 △7五歩
▲同 歩 △同 銀 ▲2四歩 △同 歩 ▲2五歩 △8六歩
▲同 歩 △同 銀 ▲同 銀 △同 飛 ▲8八歩 △7七歩
▲同 桂 △7六歩 ▲6五桂 △9五角 ▲4八玉 △7七歩成
▲9六歩 △7八と ▲9五歩 △8八飛成 ▲9七角 △9九龍
▲5三角成 △4二金 ▲6三馬 △6二香 ▲8一馬 △6五香
▲5四桂 △3五桂 ▲3六銀 △4七銀 ▲3九玉 △5三歩
▲6二銀 △同 金 ▲同桂成 △同 玉 ▲7八飛 △4九龍
▲同 玉 △5八銀打 ▲同 飛 △同銀成 ▲同 玉 △8八飛
▲6八銀 △8一飛成 ▲7四角 △6四金 ▲8三飛 △同 龍
▲同角成 △6七香成 ▲同 銀 △8八飛 ▲7八香 △8三飛成
▲8四歩 △同 龍 ▲7三銀 △同 龍 ▲同香成 △同 玉
▲8一飛 △3八角 ▲7一飛成 △7二歩 ▲8二飛 △4九角打
▲5九玉 △8三銀 ▲5八銀 △同角成 ▲同 玉 △6六桂
▲4八玉 △4七銀 ▲3九玉 △5八桂成 ▲5一角 △6三玉
▲8三飛成 △5四玉 ▲4五銀打 △6五玉 ▲5六銀 △同銀不成
▲8五龍 △6六玉 ▲8四角成 △7七玉 ▲3八玉 △4七銀不成
▲2八玉 △3六銀成 ▲7二龍 △7五歩 ▲同龍引 △同 金
▲同 龍 △7六香 ▲6七金 △8八玉 ▲8五龍 △7九玉
▲7六龍 △7八歩 ▲9七角 △6九玉 ▲6八金打 △同成桂
▲同 金 △同 玉 ▲6五龍 △6七銀 ▲同 龍 △同 玉
▲7九桂 △6八玉 ▲8六角 △7九玉 ▲9七角 △8九玉
まで150手で磯前の勝ち




