509手目 帰って来た事務方
※ここからは、松陰くん視点です。女子第15局開始時点にもどります。
男子は終わって飯──というわけにもいかず、一般会場へ。
萌の将棋が始まるまで、菓子をひとくち食べていた。
「このバームクーヘン、うまいな」
俺がそう言うと、となりに立っていた嘉中は、
「マジ? 買えばよかったか」
と嘆息した。
「おごってやるって言っただろ。なんで拒否った?」
「いや、おごってもらうなら、もっと高いところにする」
おいおい、何千円分もおごるとは、言ってないんだが。
こいつと賭けをしたのは、よくなかったな。実力的にも分が悪かった。
俺は正直、将棋を指すタイプじゃない。ほんとうは観る将なんだ。H島の傍目さんみたいに。彼女はもう卒業してしまったが。
じゃあなんでこの大会にいるのかって? 妹が毛利のブレイン役でな。その縁で大会に出てたら、強豪のいない空白期間に優勝してしまった。
嘉中はバームクーヘンに未練があるらしく、
「さっきのメイド服のねーちゃん、交渉したらタダでくれないかな」
とつぶやいた。
「くれるわけないだろ」
「ま、それもそっか……っと、始まった」
【先手:萩尾萌(Y口県) 後手:早乙女素子(H島県)】
解説はH島の姫野さんと、Y口のキャシー。
嘉中は、
「なんかすごい組み合わせだな」
と言った。
俺はどちらかと言えば盤面のほうに目が向いて、
「矢倉か。萌の得意分野だ」
と判断した。
「萌はどれも得意じゃん」
それを言っちゃあおしまいだ。
6二銀、2六歩、4二銀、2五歩、3三銀。
飛車先が早い。
4八銀、3二金、5八金右、4一玉、3六歩。
嘉中は、
「速攻っぽい?」
と予想した。いやいや、ムリだろう。
解説もちがう意見で、姫野さんは、
《さすがにここから3五歩はできません。フェイントに見えます》
とコメントした。
キャシーは、
《姫野センパイは攻めるんじゃないデスカ?》
と、危ないことを言い出した。
これは華麗にスルーされた。
5二金、5六歩、5四歩、7九角、3一角。
やはり攻めなかった。
6六歩、7四歩、6七金、4四歩。
《先手は早囲いを狙っているようです》
《囲えマスカ?》
《この手順なら入れます。後手から速攻で潰すことはできません》
6八玉、6四角、3七桂、4三金右、7八玉、7三銀、5八金。
後手はオーソドックスに組んだ。
先手は変則形に。
《キングさん、萩尾さんはこのかたちをよく指されるのですか?》
《Ahaha、萌の考えてること、よくわかんないデース》
そこは同意する。
萌のふだんの言動も、いまいち理解しかねるところがあった。
藝術家だからか、それとも本人の個性なのか。
今回の日日杯だって、俺が事前に流した情報を、あまり活用していなかった。
べつに使ってくれとは言わない。
ただ、どうして使わないのか、ここが読み取れなかった。
8五歩、4六歩、3一玉、4七銀、1四歩、1六歩。
嘉中は頭をぽりぽりやりながら、
「後手から攻めそうか? 7五歩、イケるっしょ」
と言った。
「歩を交換して終わりだろ。先手からは6五歩がある」
「ま、そうとも言う」
解説もこの順を気にし始めた。
《姫野センパイ、攻めますか?》
《7五歩、同歩、同角、7六歩、6四角、あるいは7五歩、同歩、同角、2九飛はよく見る順ですが、本譜は後続手がありません。以下、先手の6五歩を待って、4二角~6四歩と反撃したいところです》
《そこで3五歩か4五歩ありマース》
《4五歩は放置して、6四歩、4四歩、同金、6四歩、同角、4六角が一案です》
【参考図】
《3五歩の場合は同歩、4五歩、6四歩でしょうか》
激しい。萌好みでもある。
早乙女も攻め好きだから、この順は蓋然性が高かった。
早乙女は1分ほど考えて、7五歩と開戦した。
同歩、同角、7六歩、6四角、6五歩、5三角、4五歩。
解説とはすこし異なるかたちで進む。
6四歩、4四歩、同金、6四歩、同角、4六角。
嘉中は、
「ほんとにぶつけたなあ。取らないだろうけど」
と言った。
カタチ的には取ると損だ。
脇システムと同じ理屈で、手損になる。
後手の継続手を考えていると、うしろから女性に声をかけられた。
ふりかえると、意外な人物が立っていた。
「傍目さん」
私服姿の傍目さんが立っていた。
三つ編みの髪型はそのままだったが、すこしおとなびて見えた。
「松陰さん、おひさしぶりです。高校のときは事務方で、いろいろお世話になりました」
「いえ、こちらこそ……解説で呼ばれたんですか?」
傍目さんは、いやいや、とメガネをなおした。
「私は県大会優勝経験者でもなんでもありません。解説する棋力もないので……あ、嘉中さん、おひさしぶりです」
「おひさでーす。今日はどうしたんですか?」
「昨日帰省しました。今はあいさつ回りです」
傍目さんはこちらに向きなおり、
「萩尾vs早乙女ですか。形勢はどうなっていますか?」
とたずねた。
局面は進んでいて、6五歩、1五歩、同歩、1三歩、同香、2四歩と、先手の本格的な攻撃が始まっていた。
俺は、
「持つなら先手ですね。攻めてるほうが有利です」
と答えた。
「たしかに、攻めるほうを持ちたがるひとは多いですね」
「それに、陣形差が出てきてます」
萌は自然にかたちをよくした。これは大きい。
傍目さんも同意して、
「早乙女さんは今日、2勝2敗ですか。調子が悪いのですかね」
と言った。
「大きく後退したのは事実です。梨元、出雲に負けたのは、ちょっと予想外でした。ここを勝っていれば、トップグループでしたから」
もっとも、それが不調を意味するのかどうか。俺は判断がつかなかった。
ヘルスケアアプリでも仕込んでないとわからない。
傍目さんは、
「彼女の脳内評価値が、おかしくなっているのかもしれません」
と言った。
俺はその点について、ちょっと訊いてみたいことがあった。
「ほんとうにそういうものが見えるんですか? オカルトだと思うんですが……」
「なるほど、早乙女さんの脳内を見ることはできませんね」
ここで嘉中が口をはさんできた。
「俺はありえると思いますね」
傍目さんは興味深そうに、
「嘉中さんが信じているというのは、やや意外です」
と言った。
「いや、人間の脳の仕組みで、説明がつきますよ。俺はものつくり高校でIT農業やってるんですけど、AIってようするに、データからの特徴量の抽出じゃないですか。人間の脳も同じことをしていて、過去のデータから予測を出してるんです」
傍目さんは、
「私は社会心理学を専攻したので、そこまで詳しくありません。が、学習用のデータセットというものは聞いたことがありますね。早乙女さんの場合は、過去の棋譜から学習し、それを脳内で数値化している、ということですか?」
とたずねた。
「数値化できるところに、彼女の特異性があるんだと思います。だったら、AIがおかしな出力をすることがあるように、脳がおかしな出力をすることもあるんじゃないですか」
ふむ、なんとなくわかったような、わからなかったような。
この談義のあいだにも、手は進んでいた。
2四同銀、1二歩、3三桂、1一歩成、4五桂だろうか。
俺は、
「ひと目、先手がいいです」
とコメントした。
嘉中も同意見だった。
4五桂は、苦しいところで手を作りにいった手だ。
解説は応手を議論し始めた。
《ここは悩ましいです。同桂、2五桂、6四角のいずれもありえます》
《2五桂、3七桂成は6四角が王手デスネ。王様の位置、悪いデス》
《おっしゃる通りです。ただ、2五桂を跳ねずに6四角、同銀、4五桂でもよいですし、角交換をせずに4五同桂もあります。この3択の比較は、むずかしいように思います》
《Rich variety》
萌は単に6四角を選択した。
同銀、4五桂、同金、6三角。
いいところに打てた。俺はそう考えたが、姫野さんは、
《思ったよりも後手は粘れそうです》
という評価だった。
《Why?》
《上から潰す選択をとらなかったからです。本譜はやや迂遠です》
単純な解答。しかし説得力があった。
キャシーは、
《4四金、7四角成なら、じわじわモードデスネ》
と返した。
《4三金もあると思います》
《But dangerous》
《飛車の横利きが通りますし、先手も攻めがむずかしくなります》
うむむ、このあたりはさすがにわからない。
パッと見、4四金と引きたいが。
早乙女もそちらを選択した。
4四金、7四角成、3七角、2九飛、7三歩。
ん、これは──思ったほど先手がよくないな。
先手優勢かと思っていたが、やや有利くらいか?
《7四角成ではなく、7四桂だったかもしれません。本局の萩尾さんは慎重です》
たしかに安全路線だ。萌、なにを考えてる?
最終局が近づいてきて、手が伸びなくなったか?
それとも……俺は観る将の立場で、対局を見守ることにした。




