500手目 5五角
※ここからは、香宗我部くん視点です。
「はあ……まさか時間を余して終わるとはな」
俺はメガネをなおしながら、タメ息をついた。
横で扇子をひらいていた葦原は、こちらをみた。
「あれはしかたがなかったと思います。私も詰みに気づくのに時間がかかりました」
横歩の中盤でいきなり13手詰めが発生して終わり、だった。
難解な詰みだったから、ワンチャン気づかないのを願ったが、いかんせん時間がありすぎた。葦原に冷静に対処されてしまった。
というわけで、持て余した時間で観戦をしているわけだが──
【先手:吉良義伸(K知県) 後手:囃子原礼音(O山県)】
難しいな……互角か?
「葦原は、どっちを持ちたい?」
「先手はしばらく受ける展開になりそうです。持つなら後手かと」
そうか……10秒将棋なら俺も後手を持つな。
後手玉はとうぶん捕まりそうにない。
だけど後手優勢ってほどでもない。
俺がそんなことを考えていると、吉良は8一角成とした。
4二玉、8二馬、9五飛、9七歩、同香成、同角、7五香。
痛いところに入った。角筋だからすぐには突っ込めないとはいえ。
吉良は背筋を伸ばして目をつむり、後頭部をかいた。
すこし苦しそうだ。
葦原は、
「馬をうまく引きつけていくしかありません」
と指摘した。
今のはギャグか? ギャグなのか?
葦原は笑いのツボがよくわからないから、なんともいえない。
触れないでおく。
「いっそ、6四馬~7五角で桂香を払うか? 6四馬は王手だ」
「6四馬に5三銀と打ち返せば、7五角ではなく7五馬とする必要があります。以下、同桂、同角は生角なので戦えません」
なるほど、そうなるか。
だが吉良はこの不安なルートに入った。
6四馬、5三銀──同馬。
切った。同玉に7三歩成。
と金で間に合うか? そもそも2筋のほうへ逃げられるから広いんだが。
パシリ
王手と金取り……だが、と金は抜けない。
5七桂、7三角は、7六歩で香車を取られてしまうからだ。
7三歩成は、7六歩を打てるようにする効果もあった。
吉良は5七桂、囃子原は……ん? 飛車に手をかけた?
そのまま9七飛成。
「切ったな」
「これは仕方がありません。切らないと7七香成はできないので」
吉良の手が止まった。
ペットボトルから水を飲む。くちもとを袖で拭いて、先を考え始めた。
俺は、
「同桂以下で即寄りがあるとは思えない」
とつぶやいた。
葦原も同意した。
「後手はいったん4二玉と逃げたほうがよいです。とはいえ、香車を殺される前に切らないといけなかったのですから、タイミングはここしかなかったように思います」
吉良は1分消費して、同桂。
7七香成、同金、4二玉、6三と、7六歩、同金、7八歩、同玉、3一玉。
「攻めるなら7五歩でした。囃子原くんは慎重ですね」
3一へ引いておかないと、飛車を打たれたときにもたないと思う。
いずれにせよ、4二玉~3一玉の2手で、吉良にも余裕ができた。
そろそろ反撃して欲しい。
葦原は扇子を閉じて、
「受けつつ攻めるなら5八桂がよろしいでしょう」
と言った。
なかなか良さそうな手だ。
しかし吉良はべつの手を選択した。2四歩。
7五歩、7七金、7六銀、2三歩成、同金。
ここで吉良は1分将棋になった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
飛車打ち。妥当だ。最悪の場合、7五飛成の上部脱出もある。
ただこうなると、3一玉が早逃げのかっこうにもなっている。
囃子原は5二歩と受けて、2四歩、同金、5二飛成で、最後の長考に入った。
ピッ……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
囃子原は7七銀成と突っ込んだ。
同玉、4二金。
当たり前だが受けた。俺はこれを見て、
「囃子原のほうが苦しいか?」
とつぶやいた。
「後手の攻めのほうが若干薄いです」
吉良は5四龍で、手順に銀を回収。
囃子原は7六金で上部脱出を阻止する。
吉良は7八玉と下がった。右へ逃げないんだな。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
角も切った──ん? 意外と先手も危ないか?
同金に6六桂。
葦原は、
「先手は思ったよりも狭いです。6八玉は7七角、7九玉と押しもどされます」
と言った。
後手は……さすがに詰まないか。詰めろも難しそうだ。
吉良はテーブルにひじをついて、瞬きもせずに桂馬をにらんでいた。
正念場だぞ。受け間違え禁止。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6六飛」
ぐッ、飛車切りか。これでまた分からなくなってきた。
同金でも良かったように思うが、おそらく金を渡すほうが危ないと読んだのだろう。
同歩、5一龍。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
飛車を使わせた。これは大きい。
「ヘタしたら5四龍くらいでも勝てないか?」
「それは危ないように思います。4六角と打って、同金、6七歩成、8九玉、4六歩が2手スキになってしまいます。かと言って取らずに5八金は5七歩で追撃されます」
寄せに行かないとダメか。
吉良もそう判断した。
4三桂で王手して、3二玉(同金は4一龍、同玉、5一飛で詰む)、5三と。
囃子原は「ふむ」と言って、6七歩成と成った。
まだまだ余裕が見える。先手がいいわけでもないのだろうか。
同金、5一飛、4二と、2二玉、5一桂成、6七金、同玉、7六角、7八玉。
先手は詰めろじゃない。後手は詰めろ。ここまでの数手で、葦原といっしょに検討してきた。3一銀、1三玉、2二銀打、同銀、同銀不成、1二玉、1三金、同桂、2一角、同角、同銀不成、2三玉、2二飛、同玉、3二銀成、2三玉、2二金まで。長手数だが、持ち駒は大量にあるから直観的にも詰むのは分かる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
囃子原は1二玉と寄った。
問題の局面だ。
さっきから両者1分将棋。
観戦者視点でも5分くらい、この局面について相談していた。
寄るのか、寄らないのか。
葦原は扇子で仰ぎながら、
「さきほどから考えていますが、3二銀も3一銀も微妙に寄らないように思います。3二銀を3二金に代えてもそうですし、3二飛と露骨に王手してもなにも起きません」
と判断した。
俺もそのあたりは読んであった。3二銀は詰めろじゃないっぽいから、2八飛、6八歩に8六歩が間に合ってしまう。3一銀は詰めろだ。放置なら2二金から詰む。だけど2二歩が単純ながら頑強な受けで、3二銀と打ったり2三歩と攻めたりしても寄らない。
「いっそ受けるか? 持ち駒は豊富だ」
「金銀を自陣に打つと、今度はそれを目標にされてしまうような……」
のこり時間がなくなる。チェスクロは50秒を指した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「賭けだッ! 5五角ッ!」
攻防? 俺と葦原の反応は、一致していた。
「受けになってるのか?」
「受かっているかどうか微妙に思えますが……」
囃子原は表情を変えず、じっと盤をにらんだ。
すぐに指さないところをみると、この手を予想していなかったのだろうか。
俺と葦原は詳細な検討に入った。
「受けるなら2二歩、攻めるなら6七金だと思う」
「同感です。ただ6七金、8九玉のあと、2二歩が必要な気もします」
合流するか。だとすればどこまでかたちを決めるか、だ。
囃子原のほうは持ち駒が少ない。金は手放しにくいかもしれなかった。
「2二歩のあとはどうする?」
「悩ましいですね……3二銀と打ちたいですが……」
3二銀は詰めろか? ……ん、どうだ? 読み切れんぞ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
囃子原は2二歩と打った。
義伸は59秒ぎりぎりまで考えて、銀を手にした。
3一銀。
これなら詰めろなのか?
判断がつきかねていると、となりで葦原が扇子をパチリを閉じた。
「ようやく分かりました。2二銀成、同銀、同角成、同玉、3一銀、1三玉に2五桂が効いて詰みです」
【参考図】
そうかッ! だったらこれも受けないといけない。
吉良、もうひと踏ん張りだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
囃子原は2三金と引いた。
俺なら2四歩当たりで叩きたいかたち。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2五香ッ!」
ん? 香車打ち? それは──
囃子原は6七金で王手した。
8九玉、2九飛、7九歩(?)、2五飛成。
香車を抜かれた。頼むから計算内であってくれ。
吉良は1七桂。龍を狙った。
「さっきのは7九香じゃなかったか? 2五飛成に7六香とできた」
「それは2九龍が王手になります。私は本譜のほうがいいと思います」
そうか、7九香、2五飛成、7六香だと後手番になるうえ、どこかで1七桂としても2九龍が王手になってしまう。俺だったら嬉々として7九香と打ってた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
囃子原は8八香、同玉と取らせてから、8六歩と伸ばした。
これは詰めろだ。
吉良は9八銀と受けた。
8七歩成、同銀、8六歩、同銀、5四歩。
角取りになった。
角の逃げ場はないし、そもそも逃げる場面でもない。
吉良はオールバックのひたいに手をあてて、敵陣をにらんだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2五桂」
囃子原は即座に8七歩と打って、9八玉に5五歩と手をもどした。
3二銀、8八歩成、同玉、6六角、8九玉、5六歩。
手順を尽くす囃子原と、それをしのぐ吉良。
ほかのギャラリーも集まり始めていたが、みんな黙って観戦していた。
注目の一戦は、まもなく終わろうとしている。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
吉良は6三飛と打った。
3二角、同と、8七歩。
吉良は持ち駒の香車を手にした。
「これで仕舞いだな……1三香」
さすがに詰んで……いるか。
囃子原は腕組みをしてほほえんだ。
「3一銀で互角だと思っていたが……5五角があったか。素晴らしい。僕の負けだ。投了する」
場所:第10回日日杯 3日目 男子の部 13回戦
先手:吉良 義伸
後手:囃子原 礼音
戦型:後手右玉
▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7六歩 △3二金
▲7七角 △3四歩 ▲6八銀 △7七角成 ▲同 銀 △2二銀
▲4八銀 △3三銀 ▲7八金 △6二銀 ▲4六歩 △1四歩
▲1六歩 △7四歩 ▲4七銀 △7三桂 ▲6八玉 △6四歩
▲3六歩 △6三銀 ▲9六歩 △9四歩 ▲3七桂 △6二金
▲4八金 △8一飛 ▲6六歩 △4二玉 ▲5六銀 △5四銀
▲2九飛 △5二玉 ▲7九玉 △4二玉 ▲4五桂 △2二銀
▲7五歩 △同 歩 ▲5三桂成 △同 玉 ▲7四歩 △4四歩
▲7三歩成 △同 金 ▲6五歩 △同 歩 ▲4五歩 △同 歩
▲6九飛 △8三角 ▲6七桂 △6四金 ▲7五桂 △同 金
▲9七角 △6三桂 ▲7六歩 △9五歩 ▲7五歩 △9六歩
▲8八角 △6四桂 ▲7四金 △5六桂 ▲同 歩 △3三銀
▲8三金 △同 飛 ▲7四歩 △9七歩成 ▲同 香 △9六歩
▲同 香 △同 香 ▲7二角 △9三飛 ▲8一角成 △4二玉
▲8二馬 △9五飛 ▲9七歩 △同香成 ▲同 角 △7五香
▲6四馬 △5三銀 ▲同 馬 △同 玉 ▲7三歩成 △4六角
▲5七桂 △9七飛成 ▲同 桂 △7七香成 ▲同 金 △4二玉
▲6三と △7六歩 ▲同 金 △7八歩 ▲同 玉 △3一玉
▲2四歩 △7五歩 ▲7七金 △7六銀 ▲2三歩成 △同 金
▲7二飛 △5二歩 ▲2四歩 △同 金 ▲5二飛成 △7七銀成
▲同 玉 △4二金 ▲5四龍 △7六金 ▲7八玉 △5七角成
▲同 金 △6六桂 ▲同 飛 △同 歩 ▲5一龍 △4一飛
▲4三桂 △3二玉 ▲5三と △6七歩成 ▲同 金 △5一飛
▲4二と △2二玉 ▲5一桂成 △6七金 ▲同 玉 △7六角
▲7八玉 △1二玉 ▲5五角 △2二歩 ▲3一銀 △2三金
▲2五香 △6七金 ▲8九玉 △2九飛 ▲7九歩 △2五飛成
▲1七桂 △8八香 ▲同 玉 △8六歩 ▲9八銀 △8七歩成
▲同 銀 △8六歩 ▲同 銀 △5四歩 ▲2五桂 △8七歩
▲9八玉 △5五歩 ▲3二銀 △8八歩成 ▲同 玉 △6六角
▲8九玉 △5六歩 ▲6三飛 △3二角 ▲同 と △8七歩
▲1三香
まで181手で吉良の勝ち




