475手目 評価値
※ここからは、早乙女さん視点です。
3三銀ですか……大谷先輩、かかりましたね。
この局面、すでに先手持ち。私の脳内評価値では先手+700近い差。
「2五桂」
4二玉、3三桂成、同桂、2二歩成。
大谷先輩は4五桂。
これで勝負になるとみているわけか。
横歩の常套手段ではある。
4六銀、5七桂成、同玉。
6九飛の余地が発生。一見するとこれで危ない。
でもじっさいに危ないのは後手玉だ。
先手から4五桂と打てば、その時点で寄りに近くなる。
ここで大谷先輩の手がストップ。
「……5二玉」
先逃げしましたか。
「1一とです」
ここからは窮屈な鬼ごっこ。後手は8二飛の壁までしか逃げられない。
6二玉、5六香、7一玉、3一角。
後手は持ち駒が悪い。
5三角成のときに弾く金駒がないから。
脳内評価値+1000超え。
大谷先輩は1分使って4一桂。
先輩、ここに打つようでは苦しいですね。
これは4二角成から取れるけど、それは織り込み済みのはず。
つまり4二角成~4一馬で、5三の地点を救済するのが目的。
4二角成、8四飛、4一馬。
大谷先輩は静かに6九飛。
私は手順に7七桂と逃げる。
2六歩、5八玉、8九飛成、7九金打。
さあ、龍を捕獲しました。どうしますか?
先輩の回答は8八飛成。
同金上、9九龍で龍を解放。
だけどこれは8筋の守りがなくなったことを意味する。
「8四桂」
挟撃。脳内評価値は+2200くらいかしら。
大谷先輩は長考へ。
「……」
「……」
私はその先の手順を確認する。
後手にはもう攻め手がない。2七歩成は間に合わない。
となれば、考えそうなことは──
大谷先輩は黙って3九角成。
そうですね。それが思いつきます。
私は同金、同龍まで決めさせてから7二桂成。
同金に4九銀打で龍をロックダウン。
2七歩成、8四桂。
詰めろ。7二桂成、同玉、6二金以下。
受ければ5三香成から一手一手。
大谷先輩は3分ほど考えて、両手を合わせた。
「拙僧の研究負けです……参りました」
「ありがとうございました」
おたがいに10分近く残しての終局。
大谷先輩は、
「申し訳ありませんが、別室で……」
と小声で言った。
席を立つ。
会場を出ると、太陽の光があたりに満ちた。
そのまま選手控え室へ、というところで、窓際にひとりの男性を発見。
「あら、将棋仮面さん」
将棋仮面はこちらを振り返った。
「おっと、途中退室は禁止だったはずだが?」
「これから感想戦……の予定でしたが、大谷先輩」
「はい、なんでしょうか」
「たいへんもうしわけないのですが、将棋仮面さんと指しかけの将棋があります*。せっかくですので、ここで指してもよろしいでしょうか?」
大谷先輩はすこしおどろいたようで、
「拙僧はかまいませんが、次の対局までに間に合いますか?」
とたずねた。
「ご安心を。20秒将棋で、すでに終盤です」
大谷先輩は、
「承知しました。では拙僧が秒読みをいたしましょう」
との回答。
「ありがとうございます……では将棋仮面さん、どうぞ」
将棋仮面は御面をすこしなおして、
「ふむ、しかたのない少女だ……8六飛成」
【先手:早乙女素子 後手:将棋仮面】
この局面ですね。
「おぼえていてくださって光栄です」
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8」
「7三歩成」
「同玉」
「正直なところ、指しかけにせず決着をつけたかったですね……7七銀」
この手に、将棋仮面は苦吟した。
「むぅ、狼少女はカラいな……」
「5、6、7、8、9」
将棋仮面は8九龍と入りなおした。
7五金、4五角、7四歩、6二玉。
「4二飛です」
将棋仮面はフゥとタメ息をついた。
「5二歩と打つしかないが……」
「打ちますか?」
「打つ。5二歩」
「4三飛成です」
将棋仮面は御面に手をあてて、
「まさに好手だな。詰めろ角取り……だがヒーローはあきらめない。5三桂」
さすがは将棋仮面。
ここで心が折れてもよさそうなものだけど。
「5、6、7、8、9」
「7三銀」
7一玉、8三歩。
同歩なら5二龍で終わる。
6七角打という強引な王手も、5八桂でどうということはない。
「5、6、7、8、9」
「同龍」
さて、どう仕上げようかしら。+3800ぐらいだけど。
「5、6、7、8、9」
「8四金」
シンプルに。
同龍、同銀成、6七角打。
「取ってもいいですが……3九玉です」
「4九金と打っても、2九玉、5九金、7三歩成までか……投了だ」
「ありがとうございました。161手ですね」
賞味3分ほどの戦い。
将棋仮面は腕組みをして、
「やはり指しかけの時点で私が悪かったな」
と言った。
「そうかもしれません。その前の粘りは強烈でしたが……」
「いずれにせよ、これでもやもやは晴れた。指しかけのままは後味が悪い」
「では、また機会があればのちほど」
将棋仮面はエレベータのほうへ消えた。
私は大谷先輩に、
「秒読み、ありがとうございました」
とお礼を述べた。
大谷先輩は、
「どちらでお指しになられていたのですか?」
とたずねた。
「日日杯の説明会の日です」
「そうでしたか……では、拙僧たちも感想戦を済ませましょう」
控え室に入ると、コーヒーの香り。
私は1杯淹れて、てきとうな席へ。
大谷先輩は局面をととのえてから、
「どこが悪かったのでしょうか? とちゅうからどうしようもなくなってしまった印象があり……」
と言った。
「4六銀に対して1九角成を拒まれた理由は何ですか?」
【検討図】
「それも考えていたのですが、4五銀と単に取られて悪いと思いました」
「たしかに4五銀と取りますが、5二玉、1一と、2六桂が成立するかもしれません。桂馬を捨てて王様が逃げている点では本譜と同じでも、香車を手に入れただけマシです」
「では5七桂成で先手玉を露出させたのは意味がなかった、と?」
私はうなずいた。
そのあと57手目まで局面を進める。
【検討図】
「ここでも1九角成があったと思います」
私の指摘に大谷先輩は、
「本譜の8四飛、4一馬の次の手で1九角成を検討しました」
と答えた。
「それでもいいと思います。本譜は8四飛、4一馬、6九飛でしたが、飛車単騎で先手を崩すのは難しいと思います」
大谷先輩はくちびるに指をあてて、
「なるほど……拙僧の形勢判断がおかしかったやも……」
とつぶやいた。
「私の形勢判断が正しいわけでもないので、研究の価値はあります」
そのあと初手から検討していると、那賀さんが入ってきた。
入り口のお菓子コーナーに目をむける。
「あ、今日もあるですじょ。いただきますじょ」
チョコレートをひとつあけて、それから私たちの対局をのぞきこむ。
私は、
「那賀さん、終わったの?」
とたずねた。
「萩尾先輩に負けてしまいましたじょ」
すると萩尾先輩は10-1か。
鬼首さんが全勝維持なら、私はまだ3番手ね。
「ところで素子ちゃん、ひとつ質問がありますじょ」
「なにかしら?」
「素子ちゃん、ソフトの評価値が見えるってほんとですかじょ?」
私はうしろがみを手で流しながら、
「脳内で局面を計算しているだけよ。カンニングはしてないわ」
と答えた。
「ほんとですかじょ? じゃあすみれのこの局面の評価値わかりますかじょ?」
【先手:萩尾萌(Y口県) 後手:那賀すみれ(T島県)】
私は5秒ほど盤面をみつめた。
「……先手+2500」
「す、すごいですじょ」
ウソをついているつもりはないのだけれど、一発で信じるのもどうかと思うわね。
楓さんなんか未だに疑ってくるのに。
「数学の力をもってすれば、カァプの優勝確率も計算できるのよ」
「じゃあ今日カァプが勝つ確率はおいくらですじょ?」
「……限りなくゼロね」
那賀さんはびっくりした。
「カァプってそんなに弱いんですかじょ?」
「いや、弱いとかじゃなくて……」
みなさんはどうやって計算したのか、お分かりいただけましたね?
数学は関係ありませんよ。
*242手目 数学少女と将棋仮面
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場所:第10回日日杯 3日目 女子の部 11回戦
先手:早乙女 素子
後手:大谷 雛
戦型:横歩取り
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲5八玉 △4二銀
▲3六歩 △4一玉 ▲3七桂 △2二歩 ▲3八銀 △7二銀
▲9六歩 △8二飛 ▲8四歩 △8八角成 ▲同 銀 △2八角
▲2三歩 △同 歩 ▲2四歩 △3三歩 ▲2三歩成 △3四歩
▲3二と △同 玉 ▲2三歩 △3三銀 ▲2五桂 △4二玉
▲3三桂成 △同 桂 ▲2二歩成 △4五桂 ▲4六銀 △5七桂成
▲同 玉 △5二玉 ▲1一と △6二玉 ▲5六香 △7一玉
▲3一角 △4一桂 ▲4二角成 △8四飛 ▲4一馬 △6九飛
▲7七桂 △2六歩 ▲5八玉 △8九飛成 ▲7九金打 △8八飛成
▲同金上 △9九龍 ▲8四桂 △3九角成 ▲同 金 △同 龍
▲7二桂成 △同 金 ▲4九銀打 △2七歩成 ▲8四桂
まで77手で早乙女の勝ち




