474手目 シャンプーの香り
※ここからは、不破さん視点です。
ああ、食った食った。
ここのバイキングはうまいな。
あたしは食後のコーヒーを飲みながら、レストランでくつろいでいた。
窓際の席で、朝の光がまぶしい。
あたしの正面に座っていた早乙女は、
「まさか楓さんに夜這いをかけられてしまうなんてね」
とつぶやいた。
「夜這いじゃありませーん」
「ほんとうに変なことしなかったでしょうね?」
「してませーん」
早乙女は紅茶を飲み干し、紙ナプキンで口もとをふいた。
「それじゃ、私はいったん部屋へもどるわ。またあとで」
「ういーす」
早乙女はレストランを出て行った。
あたしは左どなりの安奈に話しかける。
「おまえ、さっきからひとこともしゃべんないけど、体調不良か?」
なんか顔が赤いしな。
過労で熱でもあるんじゃないだろうな。
安奈はまわりをちらちら見て、
「これはだれにも話さないで欲しいんだけど……」
と小声で返した。
「なんだ? アレがひどいのか?」
「並木くんとキスしちゃった」
「ブーッ!」
あたしはむせかえった。
「いいいいい、いつだ?」
「昨日の夜」
あたしはわなわなと震えた。
「おまえ抜け駆けしやがって……コクったのか?」
「告白はまだしてないわ」
おかしーだろッ!
なんでやってることがいっつも逆からなんだよ。検算じゃねーんだぞ。
で、でも気になる。
「ど、どういうシチュだったんだ? 教えろ」
「なんかこう……すごく盛り上がっちゃった」
なにごまかしてんだ。根掘り葉掘り訊くからなぁ。
「もっと具体的に」
「並木くんに『責任を取る』とか言われて、クラっときたの」
……………………
……………………
…………………
………………
「お、おまえ、キスのまえにヤッちゃってたのか……学校どうするんだ……」
あたしはひたいにチョップを食らった。
「その責任じゃないわよ。私が七日市高校に通うことになった責任」
ハァ、くだんね。あたしは椅子にもたれかかる。
「そのネタいつまでうだうだやってんだよ。だいたい七日市高校に失礼だろ」
「たしかに七日市高校はいい高校よ、それは認めるわ」
「で、もうちょっと詳しく」
安奈は窓ガラスからさしこむ朝日にほほを染めて、
「ファーストキスはチョコレートの味がしたわね」
と答えた。
ま、マジでチョコの味がするのか。あたしの読んでる少女漫画は正しかったんだな。
「っと、そろそろ時間よ。詳細はまたあとで話すわ」
安奈は役員の仕事があるらしく、席を立った。
あたしだけここにいるとマズいから、あたしも移動。
安奈はエレベータのまえで、
「それじゃ、楓さんもがんばってね」
と言って、先に乗った。
なんだなんだあ、それは経験者のマウンティングかあ。
ドアが閉まったところで、あたしは廊下を蹴った。
「チェッ、だいたいキスしたのにコクってないってなんだよ」
そのとき、いきなりあたしにあいさつしてきたやつがいた。
ふりかえると、歩夢が立っていた。
「おおおおお、おまえなんでここにいるんだよッ!?」
「なんでって、観戦に来たんだけど」
ぐッ、そういうことか──よりによってこのタイミングで。
あたしはポケットに手をつっこんで、
「一般会場なら4階だぞ」
と教えた。
「あれ? 不破さん、誘導係やってるの?」
「ちげーよ、あたしの担当は前日の準備と最終日のあとかたづけだけ」
なんか不公平じゃないか。
おかげであたしはスタッフなのに宿泊権がないからな。
まあホテル内でタバコ吸われると困るからって言われると反論できないんだが──
歩夢は、
「そっか、自主観戦なんだね。いっしょに観る?」
とたずねてきた。
「……観る」
「じゃ4階へ」
あたしたちはエレベータで4階へ移動した。
スーッとすぐに到着。今日は月曜だから、昨日ほどの混雑ぶりじゃなかった。
あたしはモニタを眺めながら、
「なんで3日目を土曜、4日目を日曜にやらないんだろうな?」
と、だれとはなしにたずねた。
「土日はふつうに宿泊客がいるからじゃない? ホテルのほうが負担になるよね」
「ああ、そういう……で、どこ観る?」
「不破さんはどこ観たい?」
なんか主体性ねぇな──まあいいや。
「早乙女vs大谷」
「了解」
モニタは11番だった。あたしと歩夢は一番前の席に座った。
歩夢が右であたしが左。
……………………
……………………
…………………
………………なんかドキドキする。
くそぉ、安奈がわけわかんねぇノロケ話するからだぞ。
「不破さん、さっきからどうしたの? 体調不良?」
「なんでもねーよ……おい、始まるぞ」
モニタがブルースクリーンから反転した。
三和と筒井が映る。
筒井がこっちに手をふって、
《はいはい、おはようございまーす。今日もよろしくね》
とあいさつした。
《ほら、三和っちもあいさつする》
《おはようございます。本日の初戦は早乙女vs大谷です。早乙女さんが8勝2敗、大谷さんが9勝1敗、2番手と3番手の争いです》
《戦型予想は?》
《うーん、わかんない》
テンション低い系の解説。
しばらくして、画面に天井カメラが映った。
デジタル時計が9:00へと向かう。57、58、59──
ピポ
7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩。
【先手:早乙女素子(H島県) 後手;大谷雛(T島県)】
あたしはポケットから飴玉をとりだして、ほおばった。
「横歩か……早乙女相手に命知らずだな」
あたしのひとことに、歩夢は、
「早乙女さんって横歩が強いの?」
とたずねた。
「横歩の鬼だぜ。あいつが負けたの見たことねぇ。すくなくとも県内では、な」
「ふぅん、ただ大谷先輩も調べてるだろうし、研究勝負かな」
7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛。
さすがは横歩の序盤、手が速い。
8六歩、同歩、同飛、3四飛、3三角、5八玉、4二銀。
ここで3六歩が指された。
解説の筒井は、
《んー、横歩かぁ。三和っちも得意じゃない?》
と話をふった。
《得意ってわけじゃないけど、好きではあるよ。切った張ったの勝負だし》
《じゃあ解説よろ》
《まあまあ、まだ序盤だし、ゆっくりいこうか》
4一玉、3七桂、2二歩、3八銀。
ようやく三和の解説が始まる。
《これはかなり新しい指し方かな。2四飛とぶつけたり、8六歩と合わせたりするのがよくあるけど、それを避けてるね。後手の大谷さんが研究してきたかたちだと思う》
《2四飛なら8四飛~7二銀~5二玉型だもんね。たださ、これって先手もけっこう過激なかたちしてるじゃん。ってことは素子ちゃんが誘導したんじゃないの?》
《その可能性もあるか……でもひよこっちの指し手が速いから、仮に素子ちゃんの誘導だとしても、ネット対局で前例があるんじゃない? 素子ちゃんの過去の棋譜から調べたのかも》
ありうるな。
早乙女はネット将棋やってるし、IDはわりとみんな知ってる。
RedWolf@カァプ女子、だぜ。
過去の対局は調べ放題だ。
7二銀、9六歩、8二飛。
筒井はこの手をみて、
《8五飛じゃなかったね。まあ8五飛は下火だけどさ》
と言った。
《んー、これだと8四歩と封鎖したくなるかな……ただ後手からは8八角成、同銀、2八角の打ち込みがあるか……》
三和が悩む中、8四歩はすぐに指された。
歩夢は、
「両者研究済みみたいだね」
と言った。
8八角成、同銀、2八角。
早乙女、小考。
筒井は、
《研究からはずれたっぽい?》
とたずねた。
《いや、これは読みなおしだと思うな。さすがにここで研究から外れてるってことはないよ。候補手がいくつかあって、一番過激なのは3二飛成と切る順》
《あー、同玉に2九金?》
《そうそう、で、3七角成、同銀、3三歩と打たれたとき、どうするか》
【参考図】
筒井は、
《これだと8四歩が負担になってない? 6六角って支える必要があるっしょ》
と指摘した。
《そうだね。6六角と打って……それが目標にされちゃうか。6四歩、7七桂?》
《桂馬を手順に跳ねてるから、悪くはないね》
ふたりともマジメに解説している。
3日目ともあって、さすがにヤル気を出してきたか。
パシリ
早乙女は飛車を切らずに2三歩だった。
同歩、2四歩、3三歩。
飛車当たり。早乙女はこれを無視して2三歩成と成り込んだ。
3四歩、3二と、同玉、2三歩。
執拗に2筋へ喰らいつく。
解説の三和は、
《先手は飛車捨てが成立してるね。打ち込まれる心配がない》
とコメントした。
たしかに、振り飛車党のあたしでも分かる。
先手陣にはスキがない。
筒井は、
《ただ、先手の攻めが続くかな、って気もするんだけど》
と、若干疑問を呈した。
《そうだね。ここで後手の受けに注目》
受けねぇ。こういう局面の受け、よくわかんねぇな──ん?
右をみると、歩夢がじっとこちらを見つめていた。
「な、なんだよ」
「不破さん、シャンプー変えた?」
……………………
……………………
…………………
………………へ?
「なんかいつもの香りと違う気がする」
あたしは早乙女の部屋をこっそり借りたことを伝えた。
「え、それってダメなんじゃ……」
「シーッ、だれにも言うなよ」
あたしはあたりを見回す。ちらほらと観戦者が増えていた。
「それにしても、よく気づいたな」
「不破さんとは長い付き合いだし」
シャンプーの香りが分かる仲か──うひゃひゃひゃ、いいんじゃなーい。
「不破さん、くねくねしてどうしたの? トイレ?」
「ちげーよ、察せ」
パシリ
と、指した。




