454手目 疲労
※ここからは、辻くん視点です。
いやあ、さすがに日曜だけあって、ひとが多いですね……あ、辻龍馬です。
H島市内の予備校で模試を受けたあと、ついでに見に来ました。
知り合いもちらほらいますね。
あそこにいるのは箕辺くんたちですか。
2年生で固まってるみたいなので、声かけは控えておきましょう。
藤女のいつもの3人組もいます……あ、剣ちゃんを発見。
モニタ前のひとだかりの端っこにいました。
さすがに席は空いてないみたいですね。立ち見。
「剣ちゃん、こんにちは」
僕が呼びかけると、剣ちゃんはふりかえりました。
「っと、つじーん、来てたのか」
「ええ、模試のついでに」
「くららんとサーヤは?」
「蔵持くんと鞘谷さんは推薦組ですから、模試は受けてませんよ」
剣ちゃんは大きくタメ息。
「チェッ、受験の苦しみを共有してもらいたいもんだ」
まあまあ、いいじゃないですか。
僕たちは剣道部の苦しみを共有してないですし。
さてさて、ちらりとモニタを確認。
【先手:磯前好江(K知県) 後手:早乙女素子(H島県)】
「……剣ちゃん、どっちかに興味があるんですか?」
「俺が興味津々なのは裏見だけだ」
いや、そういう話じゃなくてですね、はい。
僕はこの対局を観ている理由をたずねました。
「裏見がよく磯前の解説をしてるんだ。もしかしたら、って思ったんだけどな」
「解説は……あ、姫野さんなんですね。裏見さんのモニタを探してみては?」
「見て回ったがどこにもいなかった」
そうですか。たぶん休憩中なんでしょう。
剣ちゃんはグッとこぶしをにぎって、プルプル。
「松平といっしょに休憩したいな、って言って欲しかったぜ」
そういうところが嫌厭されてるんじゃないですか。
彼女のいない僕が推測してもしょうがないですが。
とりあえず観戦しましょう。好カードです。
「……むずかしいですね。パッと見、どっちを持ちたいとも言えず……」
「俺は先手を持ちたい。攻め潰すチャンスはある」
なるほど、それは一理あります。アマなら攻めたほうが有利かも。
それに、よく見ると後手は次の手がないような──
解説の姫野さんは、
《個人的には5九香を予想します。後手は5六金でいかがでしょうか。以下、5八香、同歩成、同金寄、5七歩、6八金寄、6五香と打つのが厳しいです。じつのところ、5八銀と打たずに最初から5六金の圧殺コースもあったかもしれません》
と、一回溜める手を推奨しました。
相方の車椅子のお姉さんは、
《6五香に7九銀ですと?》
とたずねました。
《6七香成、同金、同金、同玉に6六金と捨てます》
【参考図】
《同金ならば5八歩成が詰めろです》
剣ちゃんは解説を聞きながら、
「姫野先輩好みだなあ」
とつぶやきました。
ですね。徹底的な攻め将棋なので。
ところが、この解説の予想は外れました。
先手の選択は7九銀。
以下、6九銀不成、同金、5六飛の飛び出しで、まったく違う局面に。
先手は4一銀、4三玉を決めてから5九歩の受け。
うーん、どうなんでしょう。
姫野さんの解説していた5六金のほうが、厳しかったような。
後手は手がないように見えますよ。
早乙女さんは1分ほど考えて、7六歩。
同歩、7七歩、8八玉、6五銀で、むりやり手を作りに。
ここで磯前さんの手がしなりました。
えッ……よく分かんないです。
最初に気づいたのは姫野さんでした。
《これは見た目より厳しい手です。次に3二龍があるので3一金と受けることになりますが、そこで3二銀不成と王手し、同金に6一龍と入ることができます》
あ、なるほど、そのための龍寄りですか。
後手悪くなったのでは。
早乙女さんも強いですが、磯前さんの指し回しが巧みです。
本譜も姫野さんの解説通りに。
3一金、3二銀不成、同金、6一龍、3五銀。
剣ちゃんはこの手をみて、
「後手は入玉に切り替えたな」
と言いました。そのようです。
3七角、7六銀、7三角成、5八歩成、同歩、3四玉。
「本格的に入玉模様ですね。でも入れなくないですか?」
剣ちゃんは「うーん」と唸って小考。
「……途中で止まる気がするな」
「ですよね。入りに行く地点が狭いです」
3六歩、同金、6三馬。
ここで早乙女さんは長考。
「8七銀成とします?」
「同玉、8六飛、7七玉は捕まらないっぽいぞ」
「じゃあ7八銀と打ちますか? いちおう詰めろですよ?」
車椅子のお姉さんも、その順を解説し始めました。
ここは傾聴。
《7八銀と打ち込んで、同金、同歩成、同銀、7七歩ならば後手が有望だと思います。同桂に同銀成、同銀、6五桂、6六銀、5八飛成と成り込んで、どうでしょうか。7八歩に後手は7七歩で詰めろを掛け直すことができます。以下、7九香と打っても7八歩成、同香、7七歩からのおかわりがありますし、7九香と打たずに7七同銀は同桂成、同玉に7五歩と詰めろを掛けるのが厳しいように思います》
【参考図】
姫野さんもうなずいて、
《飛車を成り込まれると先手は厳しそうです》
と答えました。
解説を聞いていた剣ちゃんは、
「ん、待てよ……7八銀に同銀だと互角じゃないか?」
とつぶやきました。
「そうですか?」
「7八銀、同銀、同歩成、同玉なら、飛車を成り込む余地がない」
……なるほど、早乙女さんの長考は、こっちを読んでいそうです。
早乙女さんは残り5分を切るまで考えて、6八歩と打ちました。
姫野さんによると、
《これは6八金とうわずらせて、のちのちの6六歩を厳しくする手です》
とのこと。
なるほど、一瞬意味が分かりませんでしたが、6六歩の布石なんですね。
磯前さんはすぐに同金。
以下、7八銀、同銀、同歩成、同玉、6六歩。
んー、なんとも言えなくなってきました。
切れてるような、切れてないような。
「剣ちゃんならどうします?」
「……5九香と打ちたい」
「6筋に利いてませんよ?」
「6七歩成からでも大丈夫……な気がする」
解説の姫野さんも5九香推しで、
《6七歩成、同金、6九銀、6八玉、6七銀成、同玉でギリギリ耐えているかと》
という意見。
うーん、玉のスライドから顔面受けがあるんですか。
たしかにその局面で詰めろをかけ続けるのは難しいかもしれません。
どこかで5二馬として龍筋を通されたら、なおさらです。
後手の切れ筋の可能性も──あ、でも、4七金とか4五桂の追撃もありますね。
磯前さん、最後の長考。のこり3分。
パシリ
解説陣、やや驚きの表情。
車椅子のお姉さんは、
《なるほど、この手もありますか……6七歩成、同金上、同銀成、同玉が飛車に当たるという寸法です。6六金ともできないので、こちらのほうがよいかもしれません》
とコメントしました。
一方、姫野さんは目を閉じて小考。
《……やや疑問手に見えます》
《もしかして寄りますか?》
《完全に寄るかどうかは分かりませんが、6六金ではなく7六銀が痛打です》
【参考図】
……あッ、5六玉だと6五金で詰みますね。
車椅子のお姉さんも小考。
《……引いても詰みますか?》
《詰みはありませんが、6八玉、6七歩、7八玉に7七歩、同桂、6八金、8八玉、5七飛成、同歩、7八金打、9八玉、7七銀成の詰めろがあります。角が利いているので9六歩は詰めろ逃れになっていません》
僕は今の順を脳内で再生──たしかに寄りですね。
剣ちゃんは遠目にモニタを凝視しました。
「……6七歩成、同金上、同銀成に同金なら5八飛成か。これも寄りそうだ」
「もしかして磯前さんの見落としですか?」
「いや、後手玉のほうに、なにかあるのかもしれんぞ」
あ、それを考えてませんでした。
後手玉のほうが先に寄るなら、なにも問題はありません。
ただ、寄りますかね、これ?
パシリ
早乙女さんは1分だけ残して6七歩成。
以下、同金上、同銀成、同玉、7六銀、6八玉、6七歩、5九玉。
右に逃げるんですか。こっちだとどうなんでしょう。
パシリ
早乙女さん、決めに出ました。
「同歩に4七金ですか?」
「いや、待て……それはちょっと危ない」
「そうですか? ほぼ必至に近くありません?」
「4七の金は王手金取りになる可能性がある。例えば2三銀、同玉、2七飛だ」
あ、そういう……ってことは後手良しでもない、と?
磯前さんは30秒ほど考えて同歩。
早乙女さん、ここで残り時間を消化し、1分将棋に。
ピッ ピッ ピッ ピーッ! パシリ
あ、これは取れないです。取ると詰みます。
4八玉、5八金、3九玉、3八歩、同玉、3七歩。
ギリギリの攻防ですね。後手の持ち駒も若干心細いです。
ここで磯前さんも1分将棋に。
同桂、2七金打、2九玉。
早乙女さんは3七金上。ふたたび詰めろ。
2七馬、同金。
寄りました? 寄ったように見えますよ?
ここで姫野さんは、
《2七の金は抜けますが……》
とつぶやきました。
え? 抜けます?
パシリ
2四金、同玉、1五銀、同玉、1六銀。
あ、ほんとに抜けました……が、しかし……。
1四玉、1五飛、2三玉、2七銀、3七角。
詰めろ飛車取り……決まったくさいです。
2八金は同角成、同玉、4五桂から即詰みですし、3九金も2八金以下です。
磯前さんは2一龍と王手して、2二金打に持ち駒をそろえました。
帽子を脱ぐ仕草が、モニタの天井カメラから見えます。
後頭部が映って投了。
車椅子のお姉さんは軽く拍手しながら、
《以上、146手まで、早乙女選手の勝ちとなりました……姫野さん、ご感想は?》
とたずねました。
《白熱した戦いで、参考になる指し回しも多かったです。終盤、磯前さんに誤算があったのかもしれません。後手の攻めはギリギリでしたので、寄らないと判断しても不思議ではありませんでした》
《そのあたりは、のちほどのインタビューで確認いたしましょう》
感想戦が終わるまでの雑談タイムに入りました。
「剣ちゃんは4日とも来るつもりなんですか?」
「せっかくだから全部観たいな」
「僕も決勝トーナメントは観たいですね。ちなみにだれが残ると思います?」
「んー、マジで分からん……本局を観た限り、早乙女は抜けそうか」
たしかに、磯前さんを倒したのは立派です。
それから10分ほどして、インタビューが始まりました。
勝者の早乙女さんから。
《もしもし、早乙女です》
《淡路です。おつかれさまでした。本局の袖飛車は予定の作戦ですか?》
《はい、前局、前々局が矢倉でしたので、変化球が必要と判断しました》
なんか野球っぽいコメントですね。
そういえば熱狂的なカァプファンでしたか。
《勝利のご感想は?》
《運が良かったという印象です。最後、歩が一枚でも足りなければ負けでした》
《承知しました……姫野さん、なにかありますか?》
《姫野です。中盤、5八銀ではなく5六金からの攻めはありませんでしたか?》
【検討図】
《それも読みましたが、入玉との天秤で、金は中段に置いておくことにしました》
そこは棋風ですね。
5六金は攻め将棋です。
《承知しました。わたくしからは以上です》
次に磯前さんのインタビュー。
《もしもし磯前です》
《淡路です。おつかれさまでした。終盤の5七金で5九香はありませんでしたか?》
【検討図】
《はい、そっちのほうが良かったですね。右へ逃げれば駒を抜けるかと思ったんですが、うまく抜くタイミングがなかったです。じぶんからコケた結果になりました。もうすこし正確に読もうとしたんですが、考えがまとまらなかったです》
さすがに8回戦ともなると、疲労の色を隠せませんね。
頭がすっきりしなくなっている時間帯なのかもしれません。
《承知しました……姫野さん、なにか?》
《姫野です。おつかれさまでした。終盤、6七銀成のところで同玉とせず、同金はいかがでしたか?》
【検討図】
《それもあったと思います。さっきも言ったことですが、右に逃げたのは王手で駒を抜くのが目的でした。それができなかった以上、左に活路があったかもしれません》
《承知しました。まだ折り返し地点ですので、ご健闘を期待しております》
《ありがとうございます》
こうして中継は終了。
画面が一時的に暗転しました。
剣ちゃんは大きく背伸び。
「んー……俺も疲れて来た。つじーん、来たばっかで悪いが、コーヒーでもどうだ?」
「あ、いいですね……ただ、1階の喫茶店は値段が心配です」
「じゃあ一回ホテル出るか。どのみち席取りできてないしな」
了解です。
僕も模試のあとですから、リフレッシュしたかったところです。
それでは、また夕方にでも。
場所:第10回日日杯 2日目 女子の部 8回戦
先手:磯前 好江
後手:早乙女 素子
戦型:後手袖飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △9四歩
▲6八玉 △3二銀 ▲5八金右 △4三銀 ▲3六歩 △5四歩
▲2五歩 △3三角 ▲7八玉 △7四歩 ▲5六歩 △3二金
▲3七銀 △7二飛 ▲6六角 △6二銀 ▲3五歩 △5三銀
▲3四歩 △同 銀 ▲3八飛 △6四銀 ▲2六銀 △4三銀
▲8八銀 △7五歩 ▲同 歩 △5五歩 ▲3六飛 △5六歩
▲同 飛 △4一玉 ▲4八角 △4二角 ▲8六飛 △7三飛
▲3六飛 △7五銀 ▲3七角 △6四銀 ▲7七歩 △7二飛
▲3五銀 △5二飛 ▲5六歩 △7三桂 ▲3四歩 △5四飛
▲2四歩 △同 歩 ▲1五角 △2三金 ▲2六飛 △5七歩
▲6八金寄 △5二玉 ▲2四銀 △3四金 ▲3五歩 △4五金
▲3四歩 △2五歩 ▲同 飛 △3四銀 ▲3三銀成 △同 桂
▲2二飛成 △3二歩 ▲1一龍 △5八銀 ▲7九銀 △6九銀不成
▲同 金 △5六飛 ▲4一銀 △4三玉 ▲5九歩 △7六歩
▲同 歩 △7七歩 ▲8八玉 △6五銀 ▲2一龍 △3一金
▲3二銀不成△同 金 ▲6一龍 △3五銀 ▲3七角 △7六銀
▲7三角成 △5八歩成 ▲同 歩 △3四玉 ▲3六歩 △同 金
▲6三馬 △6八歩 ▲同 金 △7八銀 ▲同 銀 △同歩成
▲同 玉 △6六歩 ▲5七金打 △6七歩成 ▲同金上 △同銀成
▲同 玉 △7六銀 ▲6八玉 △6七歩 ▲5九玉 △5七飛成
▲同 歩 △6八歩成 ▲4八玉 △5八金 ▲3九玉 △3八歩
▲同 玉 △3七歩 ▲同 桂 △2七金打 ▲2九玉 △3七金上
▲2七馬 △同 金 ▲2四金 △同 玉 ▲1五銀 △同 玉
▲1六銀 △1四玉 ▲1五飛 △2三玉 ▲2七銀 △3七角
▲2一龍 △2二金打
まで146手で早乙女の勝ち




