453手目 休憩スペース
※ここからは、香子ちゃん視点です。第8局開始時点にもどります。
ふぅ……疲れた。
私は17階の休憩スペースで、コーヒーを飲んでいた。
大きな楕円形のテーブルとソファー。観葉植物がひとつ。
大型テレビが備えつけで、壁際には自販機もあった。
テレビに向かって左とうしろのほうはガラス張り。
ドアを開けるとなかに入れる仕組みだ。防音対策でしょうね。
9回戦までは出番なし。ここでゆっくりしましょ。
猫山さんから買ったマーマレードケーキを開封して、ひとくちかじる。
レモンの爽快な風味。
「……あいかわらず美味しいわね」
もうひとくちかじって、コーヒーを飲む。
ハァ〜、高級ホテルでひとり午後を満喫する。この雰囲気いいわ。
顔見知りが多いからコミュニケーション疲れしてしまった。
ふかふかのソファーでくつろいでいると、見知った顔が通りかかった。
不破さんだ。不破さんもガラス越しに気づいて、なかに入って来た。
「よ、ポニテの姉ちゃん」
「不破さん、どうしたの? ここは立ち入り禁止じゃない?」
「安奈に用事があるんだけど、部屋知らない?」
「あんな?」
「正力安奈」
……ああ、あの子か。
「ずっと革手袋してる子?」
「そうそう、知らない?」
私は知らないと答えた。
「んー、やみくもに捜してもしょうがねぇしな……ここで待つか」
不破さんはそう言って、ソファーに勢いよく腰をおろした。
こらこら、スプリングが壊れちゃうでしょ。
不破さんは物珍しそうに休憩スペースを見回す。
「……このテレビ壊れてんの?」
「つけてないから、なんとも」
不破さんはテーブルのうえのリモコンを手にとった。
電源を入れて、適当にチャンネルを回す。
「……っと、日日杯のチャンネルあんじゃん」
あ、ほんとだ。
ホテルの設備だからかしら。
不破さんは画面の操作方法を見ながら、番号を入力した。
【先手:磯前好江(K知県) 後手:早乙女素子(H島県)】
「磯前vs早乙女戦?」
「ほかに観たいところある?」
「訊いてみただけ」
不破さん、なんだかんだで早乙女さんと仲いいわよね。
よく口喧嘩してるみたいだけど。
そうこうしているうちに、司会者が映った。
不破さんはギョッとして、
「げげッ、姫野のババァ」
と口走った。
「姫野さん、でしょ」
「こいつ勝ち逃げしやがったからなぁ。あとで見つけて再戦するか」
過去の対戦成績を、未だに根に持っているらしい。
単純に棋力差があるんじゃないかしら。
それにしても姫野先輩、あいかわらず綺麗ね。
となりに座っているのは、車椅子の淡路さんだった。H庫の解説者。
ふたりは一礼して、淡路さんから口をひらいた。
《さて、いよいよ折り返し地点ですが……ここまでを振り返って、いかがですか?》
《本日からの参加ですが、どの対局もレベルが高く、勉強になります》
《優勝予想などは?》
《この時点ではまだなんとも申し上げられません。鬼首さんは全勝ですが、後半に上位陣を残しているので、ほかの選手よりも優位とは言えないかと思います》
《なるほど……では、8回戦も、よろしくお願いいたします》
対局が始まった。
7六歩、3四歩、2六歩、4四歩、4八銀、9四歩。
ん? なんか出だしが変じゃない?
不破さんも不審に思ったらしく、
「早乙女、なにやってんだ? おまえ居飛車党だろ?」
と首をかしげた。
とはいえ、ムリヤリ矢倉の可能性もある。
磯前さんはすこし考えてから、6八玉と上がった。
3二銀、5八金右、4三銀、3六歩。
ここで淡路さんの解説。
《後手は振り飛車模様ですね》
《藤井システムに見えますが……どこか不穏です》
そうなのよね。
飛車を動かしていないところが妙。
これは隠し球がありそう。
不破さんはポケットから飴玉をとりだして、包み紙をはがした。
口にくわえながら、
「雁木じゃねぇかな。あいつの雁木は見たことある」
と言った。
「うーん……ありそう」
「いずれにせよ、これ研究っしょ」
そこは同意する。
なにか試したい構想があるんでしょうね。
それを日日杯の、しかも磯前戦にぶつけてくる度胸がすごい。
5四歩、2五歩、3三角、7八玉、7四歩、5六歩、3二金。
あッ、やっぱり振り飛車じゃない。
3七銀、7二飛。
袖飛車ッ!?
これには解説陣もびっくり。
淡路さんは《これは……》とすこし間を置いてから、
《準備してきたように見えますが、袖飛車に勝算があるのでしょうか?》
と疑問を呈した。
姫野先輩も数秒ほど沈黙した
《……後手がこの時点で悪いということはないはずです》
それはそうよね。
袖飛車だって立派な戦法だし。
ここは早乙女さんの力量を見せてもらいましょ。
先手は6六角と飛び出して、露骨に7五歩を止めた。
6二銀、3五歩。
解説陣も具体的な検討を始めた。
姫野先輩は、
《この急戦は、先手の意趣返しとでも言えましょうか。もっとも船囲いのままですと、後手が入城できたとき不利になる可能性があります》
と語った。
たしかに、私なら囲ったと思う。
そもそも7筋から攻められてもすぐには潰れない。
だからこそ袖飛車は人気がないのだ。
磯前さんもそのことを知らないはずがない。
だとすると──挑発に乗ってくる、というのが早乙女さんの読みだったわけか。
序盤から心理戦の様相を呈してきた。
5三銀、3四歩、同銀、3八飛、6四銀、2六銀。
典型的な急戦。
早乙女さんはいったん4三銀と逃げた。
磯前さんは8八銀で7筋を補強する。
早乙女さん、小考。
「攻めるだろうな」
不破さんの独り言に、私も同調した。
「明らかに攻めを考えてるわね。7五歩、同歩、5五歩、同歩、7五銀だと思う」
そのあと4八角、6四銀、7七歩、5二飛あたりかな。
先手は3五銀と出るのが案外に速い。
ここで早乙女さんの腕が伸びた。7五歩が指される。
磯前さんは10秒ほど考えて同歩。
続けざまに5五歩。磯前さんの応手は──
パシリ
ん? 3六飛?
「磯前も突っ張ってるな」
……そうよね、これはちょっと突っ張った指し方だ。
5六歩と取り込まれたら、同飛とするつもりでしょ。
先に後手から5二飛だと? ……ダメか。5五歩、同銀、4八角以下が続かない。逆に先手はどこかのタイミングで8六飛と回れる。おそらくはこれが狙い。
早乙女さんの手が止まる。
読みを外されたっぽい。
淡路さんはにこやかに、
《3六飛は姫野さん好みでは?》
とたずねた。
なかなか危ない質問をしますね。
姫野先輩はめちゃくちゃな攻め将棋。
《個人的には5五同歩が自然だったかと思います》
《なるほど、失礼いたしました。3六飛は決まれば大きい手だと思います》
それはそうだ。
このまま後手が動けなくなったら、完封コースになる。
パシリ
早乙女さんは5六歩と取り込んだ。
同飛、4一玉、4八角、4二角、8六飛。
予想通りの飛車回り。
パシリ
ッ!? え? 7四歩で……って、それは王手か。
びっくりした。
袖飛車ならではの突進。
磯前さんは3六飛と戻す。
7五銀、3七角、6四銀、7七歩、7二飛。
早乙女さんは態勢を立て直した。
けど、ここからがキツい。
パシリ
姫野先輩はタッチペンでタブレットを操作する。
《これは単純な3四銀ではなく、3四歩〜2四歩が狙いかと思います。以下、2四同歩で立ち往生するようにみえますが、2六銀〜1五銀〜2六飛と寄れば突破できます》
《さすがの攻め筋です。2四同歩には1五角もありますか?》
《そちらも考えられます。玉頭の駆け引きは先手に分がありそうです》
解説陣は先手持ちになったっぽい?
不破さんはポケットに手を突っ込んで、ソファーに踏ん反り返った。
「おーい、早乙女、気張れよぉ」
後手が気張っても、しばらくは受け身になりそう。
ここは姫野先輩と淡路さんの棋力を信用してもいいと思う。
早乙女さんは1分ほど考えて、5二飛と寄った。
磯前さんは5六歩と止める。
7三桂、3四歩、5四飛、2四歩、同歩。
ここで磯前さんは角を飛び出した。
《淡路さんがご指摘なさった順になりました》
《ただ、先手も怖いところです。飛車角が接近しているので、両取りに注意です》
私も画面を見ながら考える。
実際、2三金、2四銀、3四金でニョロニョロされると困りそうなのよね。
だから一回2六飛と溜めそう。
そして、本譜はその通りになった。
2三金、2六飛。
淡路さんは解説用のタブレットで、5七歩を打ち込んだ。
《このあたりかな、と思います》
《同金、6五桂、5八金、5七歩は藪蛇になるので、6八金寄の一手ですか》
淡路さんはうなずいて、
《その場合、後手は攻めもらいたいはずです。2四銀以下で銀を入手して5八銀。これが一番明快ではないでしょうか》
と、後手の攻め筋を指摘した。
《そうですね……2筋、3筋の攻防が複雑なので、そこ次第ですが……》
パシリ
5七歩が打たれた。
6八金寄に、早乙女さんは5二玉と上がる。
手待ちっぽい動き。
不破さんは飴玉のスティックをくわえたまま、
「先手玉のほうが戦場に近い。反動がキツイだろ」
と評価した。
んー、どうかしら。個人的に先手持ちなんだけど。
磯前さんはこれを読んでいたらしく、すぐに2四銀と出た。
3四金、3五歩、4五金、3四歩、2五歩、同飛、3四銀。
ふむ……飛車を逃げると攻めが頓挫する。
不破さんは、
「飛車は放置で3三銀成だろ」
と読んだ。同意。
そこで2五銀は後手ダメっぽいわね。さすがに4二成銀でもたないから。
3三同桂、2一飛成の一本道……じゃないわね。成るなら2二だ。
「3三銀成、同桂、2二飛成でいったん3三角成を見せて、後手に3二歩と打たせたほうがいいかも。そこで1一龍と入れば1手得になるわ」
不破さんはパチリと指を弾いた。
「ポニテの姉ちゃん、いい手知ってるな」
でしょ?
本譜も予想通りに進行。
3三銀成、同桂、2二飛成、3二歩、1一龍。
先手順調──だけど、後手の目的も達成された。
パシリ
滑り込むような打ち込み。
さあさあ磯前さん、ここは正念場よ。
どう受ける?




