362手目 ぼくたちの不安
敵の手を逆用するとは、不破さん、やるね。
これは香車をひろいながら自陣に馬をとおす作戦だ。
なにか応手は――
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
一石二鳥の香上がり。
この手をみて、不破さんは飴玉のスティックをかみしめた。
「くッ、1九角成〜1八馬だと自陣に利かなくなるか……」
不破さんも30秒を使いきって6四角上と出た。
どうやら、香車の入手よりも馬の利きを重視してるみたいだね。
だったら、この角は取らない。
7六銀直、5三飛、6三歩、7二金寄、5六歩、1九角成。
さすがに成ってきたか。こっちはもう動かす駒がない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6四銀」
「待ってたぜ。同馬だ」
このタイミングなら消せる。
「4六角」
「チッ、飛車が邪魔か……同馬」
同歩、6四銀。
不破さんは、馬の利きをあきらめたらしい。銀で受けてきた。
「7七桂」
「4七角」
そこに角か……3六角成とされても、後手の防御力はそんなにあがらないね。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「3一角」
打ち返す。
「おっと、そいつは4七角の狙いが読めてないぜ。9七歩ッ!」
歩打ち? ……もちろん取る。同香。
僕がチェスクロを押すと、不破さんは即座に7五銀と出た。
同銀に5六飛と走られる。
あッ……そうか、飛車は切る予定だったのか。
同金……いや、ちがう。それは同角成がめんどうだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5七歩」
「いい受け知ってるな……同飛成」
同金、同香成、6二銀。
反撃。後手は生角のままだからおそい。
不破さんもそこは理解しているから受けに転じた。
7一金打、7三歩成、同金、7一銀不成、同金、5二飛。
「成香救ってもしょうがねぇッ! 7六歩ッ!」
桂馬を逃げる……余裕はないか。どのみち7六歩がのこると困る。
僕は5七飛成と予定どおり取って、7七歩成に同龍とまわった。
不破さんは29秒ぎりぎりまで考えて、6九角成と入った。
次に6五歩としてきそうだ。
僕は先手をうって6五香と置く。
「ぐッ……さすがに不利か」
そこを認めるなんて、不破さんらしくないよ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
不破さんは6一歩と受けた。
6八金打、3六馬と撤退させてから7四桂と追撃。
放置できないから同金、同銀で金桂交換になる。
7六歩、同銀、5六桂、6七金直、6八銀。
ていねいに対応。
同金引、同桂成、同金。
「こいつに賭けるぜッ! 8四桂ッ!」
これも丁寧に対応……したほうがいいのかな。
とりあえず、飛車を渡さなければいいと思うんだよね。
この桂馬は銀当たりになってるだけだ。
僕は攻めるほうを選んだ。7二歩と打って、同金に5二飛とおろす。
「7一歩だと6四角成に7三歩と打てなくなるか……」
でも、それしかないんじゃないかな。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
そっち? 読んでなかったけど……意味はわかる。
金を捨てて6四角成の阻止だ。
だけど、これは踏み込むだろう。
僕は7二飛成として、7一歩に8三龍と切った。
「飛車が手に入ればなんとかなるッ! 同銀ッ!」
同銀成、8二歩、8四成銀、1九飛。
ん? この位置は……香車をひろいに来てるね。でも――
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7九歩と受ける。
不破さんは7二桂で、金を温存しつつ成銀を狙ってきた。
「成銀はあげるよ。7四桂」
「マジか?」
マジというか、そう指しちゃったからね。
僕はチェスクロを押す。
不破さんは腕組みをしてなやんだ。
そして青ざめる。
「あ、う……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「は、8四桂ッ!」
この手で終わり――パシリ
以下、同歩、8二銀、同馬、同桂成、同玉、6四角成で王手龍。
僕のほうは詰まない。
「くぅ、飛車の打ち間違えか……負けました」
「ありがとうございました」
これには新巻くんが外野席から、
「先輩、やりますねッ!」
とほめてくれた。
不破さんはあんまり納得がいかないらしく、
「くそぉ、もう一局ッ!」
と駒をならべはじめた。
新巻くんが抗議する。
「あッ! 負け抜けだろッ!」
「いいじゃねぇか、もう一局くらい」
順番は守ろうね。
そのあと、僕たちはけっこうな数の将棋を指して、夕方になった。
顧問の先生が下校をうながす。
僕たちは荷物をまとめて下校。あたりは暗くなり始めていた。
新巻くんと古谷くんは、校門を出てひだりへ。
僕は捨神くんと右の方向へ。
「遅くまでつきあってもらって、悪かったね」
僕がそう言うと、捨神くんは、
「アハッ、べつにいいよ。古谷くん、かなり仕上げてきてるね」
と答えた。何勝何敗だったんだろう。
僕が確認するよりもはやく、捨神くんは話題をかえた。
「ところで、ずいぶんと念入りに準備してるんだね」
「せっかくのチャンスだから……でも、これでいいのかな、って思うことがある」
捨神くんは僕のセリフをいぶかしんだ。
「まだ練習量が足りないとか?」
「逆かな……いや、逆っていうか、もっと根本的なところ」
「どういう意味? プライベートなことだったら聞かないけど……」
べつにプライベートというわけじゃない。
ただ、将棋と直接関連してるかといわれると、そうでもない気がする。
「ここまで練習する必要あるのかな、って」
「アハッ、佐伯くん、みかけによらず大胆だね。楽勝宣言かな?」
「……けっきょくさ、どんなに練習しても全国優勝はムリだと思うんだ」
捨神くんの顔から笑みがきえた。
とても真摯な表情になる。
「なるほどね……将棋に人生賭けることない、って言いたいわけだね」
「捨神くんのまえでこういうことを言うのは、失礼かもしれないけど」
「いや、むしろ僕だから言ったんじゃない?」
本心を見抜かれてしまって、僕はすこしばかりおどろいた。
「捨神くんは、将棋に人生賭けてる?」
「そんなことないよ」
「じゃあ、ピアノは?」
捨神くんはすぐには答えなかった。
むずかしい質問だね、と間合いを持たせた。
「世界的なピアニストになるとか、そういうレベルの話なら、僕はピアノにも人生は賭けてないよね。そうなれるように努力してないから。佐伯くんのマジックは?」
「僕も世界的なマジシャンになる努力はしてないかな。でも、目標の問題だよね」
そこまで答えて、僕は捨神くんが言いたかったことを察した。
そして、じぶんのセリフをくりかえした。
「うん、そうだね、目標次第だね」
「ようはバランスの問題だと思う。ほら、人生って有限だから」
捨神くんに言われると、ちょっと深刻になってしまう。
なんの病気かは知らないけど、彼は先天的に体が弱いらしかった。
とはいえ、そこに遠慮して議論を打ちきる気もなかった。
僕はつづけた。
「でもさ、バランスをぜんぶとったら、ぜんぶそこそこになるよね」
捨神くんは苦笑した。
「そうだね、僕みたいな感じになるかな」
「いや、そういう意味じゃないよ。捨神くんは将棋もピアノも平均超えだし」
「そういうふうになぐさめあいになるから、本音で語ろうよ。ようするに、なにをやっても大部分のプレイヤーは中途半端な位置についちゃうわけだろう。だったら、自分がどこで納得するか、っていう話でしかないよ」
「目標設定をどんどんさげていけば、いくらでも満足がえられるよね」
捨神くんは、それでいいんじゃないの、と答えた。
この答えは、僕には意外だった。
「捨神くんらしくないな」
「え? そう?」
「捨神くん、いろんなところで平均以上を目指してるよね」
色素のうすい彼の顔を、街灯のあかりが照らした。
なにか昔のことを思い出しているような雰囲気だった。
「僕はそうしてないと不安なんだよ……」
ふぅん……あんまり深く訊かないほうがいいかな。
プライバシーは大事だからね。
「捨神くんとはすこしちがうかもしれないけど、僕はじぶんよりずっと強いライバルがいると、どうしても不安になることがある」
「将棋の?」
「うーん、将棋も多少はあるけど……飛瀬さんのマジックをみているときが、一番不安になるよ。なんていうのかな、飛瀬さんのはセンスとかを超えてると思う」
「アハッ、だってあれはマジックじゃなくて地球外テクノロジーでしょ」
……………………
……………………
…………………
………………
「捨神くん、飛瀬さんが宇宙人だって信じてるの?」
捨神くんはきょとんとした。
「え? 信じてるもなにも、事実だよ?」
だいじょうぶかな……捨神くん、変な宗教にハマちゃダメだよ。
宗教はずばり王道、カトリック。これ。
「事実っていうのは証拠がないとダメだと思う」
「証拠ならみせてもらったよ」
「月の石だよね。あれなら僕ももらったよ」
「ちがうよ。身体的特……あッ」
捨神くんは口もとをおさえた。急に頭をかきはじめる。
「僕、こっちのほうが近道だから、ここでお別れかな。じゃあ、県大会がんばろうね」
え、ちょっと、どういうこと?
捨神くんは、そのまま細い道へ折れて消えてしまった。
……………………
……………………
…………………
………………身体的?
僕の信仰心がざわつく。神よ、捨神くんを守りたまえ。
場所:清心高校将棋部
先手:佐伯 宗三
後手:不破 楓
戦型:相穴熊
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5二飛
▲4八銀 △5五歩 ▲6八玉 △3三角 ▲7八玉 △6二玉
▲5八金右 △4二銀 ▲7七角 △7二玉 ▲8八玉 △8二玉
▲7八金 △9二香 ▲6六歩 △9一玉 ▲6七金右 △8二銀
▲9八香 △5四飛 ▲3六歩 △7四歩 ▲9九玉 △9四歩
▲8八銀 △9五歩 ▲3七銀 △4四歩 ▲4六銀 △4三銀
▲3七桂 △5二飛 ▲1六歩 △5一角 ▲2六飛 △6四歩
▲2四歩 △同 歩 ▲6五歩 △同 歩 ▲5五銀 △5四銀
▲同 銀 △同 飛 ▲5五銀 △5三飛 ▲6四歩 △5二金左
▲3五歩 △7五歩 ▲同 歩 △4二角 ▲7四歩 △7五銀
▲2二歩 △2五歩 ▲4六飛 △7六歩 ▲同 金 △同 銀
▲同 飛 △6六歩 ▲同 飛 △7五金 ▲6八飛 △7六歩
▲6六角 △同 金 ▲同 銀 △5九角 ▲2一歩成 △9六歩
▲同 歩 △3七角成 ▲1一と △6二金寄 ▲6五香 △5九馬
▲6九金 △6八馬 ▲同金上 △7七桂 ▲同銀引 △同歩成
▲同 銀 △5四銀 ▲3二角 △3九飛 ▲6六桂 △6五銀
▲同角成 △3五飛成 ▲5四銀 △2三飛 ▲3六歩 △同 龍
▲7五桂 △3九龍 ▲8六歩 △6七歩 ▲同金直 △5一香
▲8七銀 △3五龍 ▲3六歩 △6五龍 ▲同 銀 △3七角
▲1八香 △6四角上 ▲7六銀直 △5三飛 ▲6三歩 △7二金寄
▲5六歩 △1九角成 ▲6四銀 △同 馬 ▲4六角 △同 馬
▲同 歩 △6四銀 ▲7七桂 △4七角 ▲3一角 △9七歩
▲同 香 △7五銀 ▲同 銀 △5六飛 ▲5七歩 △同飛成
▲同 金 △同香成 ▲6二銀 △7一金打 ▲7三歩成 △同 金
▲7一銀不成△同 金 ▲5二飛 △7六歩 ▲5七飛成 △7七歩成
▲同 龍 △6九角成 ▲6五香 △6一歩 ▲6八金打 △3六馬
▲7四桂 △同 金 ▲同 銀 △7六歩 ▲同 銀 △5六桂
▲6七金直 △6八銀 ▲同金引 △同桂成 ▲同 金 △8四桂
▲7二歩 △同 金 ▲5二飛 △4六馬 ▲7二飛成 △7一歩
▲8三龍 △同 銀 ▲同銀成 △8二歩 ▲8四成銀 △1九飛
▲7九歩 △7二桂 ▲7四桂 △8四桂 ▲8三桂
まで185手で佐伯の勝ち




