341手目 地獄のフェアネス
チーン
35階についた。これまでよりずっと緊張する。
ここでほかのメンバーに会えなかったら、おそらくゲームは終了している。
覚悟は決めた。ドアがひらいて、予想だにしなかった空間がひろがった。
「な、なにこれ……?」
うだるような熱気が、エレベータのなかへ吹き込む。そのむこうには、石灰岩におおわれた大地と、真っ赤なマグマ溜まりがみえた。それとも、血の池地獄だろうか。針の山や得体のしれない黒い洋館もみえた。いずれにせよ、マトモな場所じゃない。
「地獄のアトラクション、というわけか。最上階にふさわしくないな」
「ええ、どうせなら天国にしてくれればよかったのに」
「華々しいアイドル業界の舞台裏、という皮肉かもしれん。さて……」
将棋仮面はあたりを見渡した。地平線の果てまで、特に人影はない。
「異様に広い空間だな。コンサートホールくらいあるぞ」
「ホログラムでしょ。じっさいは壁にぶつかるんじゃない?」
私たちはエレベータを降りて、正面に気をつけながら歩いた。
ところが、数メートル歩いても、ぶつかる気配がなかった。
「見た目どおりの広さなのか?」
どんどん歩みを進める。とうとう、血の池地獄の手前まで来てしまった。
桟橋に、錆びたボートがくくりつけてある。
「なるほど、三途の川の渡し舟という趣向か……」
「これ、乗る必要あるの?」
ホログラムでしょ。血の池地獄だって、ほんとは目の錯覚に決まっている。
私は水面にそのまま足を乗せた。
ドボーン
あわてて助けを求めた。将棋仮面に引き上げられる。
「ゲホッ! ゲホッ! なによこれ、本物じゃないッ!」
「思い出したぞ。ここは屋内プールだ。35階は接待用リゾートルームのはずだ」
そういうことは早く思い出しなさーい。
全身ずぶ濡れになってしまった。
「でも、泳いで渡れなくはないのよね……ん?」
将棋仮面は、じっと私を見つめた。口紅が溶けて広がったとか?
「どうしたの? なんかついてる?」
「いや、その……ブラが透けてるぞ」
腎臓打ちッ!
「ぬおおぉ……それは反則……」
「今回セクハラしすぎでしょッ! あとで囃子原先輩に訴えるわよッ!」
もうこいつは放置。
私は血の池地獄に手をつけた。
「生ぬるいけど、ただの水よね……これなら泳いで……」
「あーッ、やめといたほうがええでぇ」
え……この声はッ!
私は立ち上がってあたりをみた。
近くにあった枯れた木のうえから、人影が姿をあらわす。
「な、難波先輩ッ!」
「ちょいとばかし、ひとを待たせ過ぎとちゃう?」
難波先輩は枝を蹴って、地面に着地した。
「ど、どうしてここに?」
「どうもこうも、フェアが第一、やろ?」
「フェア?」
難波先輩は、将棋仮面に視線をむけた。
これまでの疑問が氷解する。
「せ、先輩、天城さんたちを手伝ってましたねッ!?」
「そら、レモンちゃんだけ助っ人がおるのは卑怯やさかいな」
難波先輩はそう言って左肩をまわした。
「で、でも、先輩は審査員なんですよ?」
「最終課題は審査ないから関係あらへん。それに、レモンちゃんの助っ人も審査員や」
私は頭がはてなマークになった。
将棋仮面は、審査なんかしていない。
それとも、ウラ審査でもあったのだろうか。
「どういう意味ですか?」
「ふふふ、聞いておどろいたらあかんよ」
難波先輩はもったいぶったポーズをとる。そして、将棋仮面をゆびさした。
「将棋仮面の正体は、人気アイドルグループ、テンペストの葉隠秋丈やッ!」
……………………
……………………
…………………
………………はい?
「難波先輩、部屋が暑いから熱中症になってませんか?」
「ま、さすがに信じられへんか……せやけど、よーく見てみ。身長、体格、股下、腕の筋肉のつき方、指のかたち、髪型、ぜーんぶ葉隠秋丈とクリソツやッ!」
私は将棋仮面を観察する。ジーッ――うッ、言われてみれば。
とはいえ、まったく信じられない。将棋仮面も、
「昼間から特撮のお面をかぶってる男が、葉隠秋丈だと思うか?」
と、逆に質問をしてきた。自分で言うな。
「茶番はそこまでや。いずれにせよ、ここで正体を突きとめたるでぇ。我孫子ッ!」
「はいはーい、でやんす」
木の背後から、我孫子先輩も姿をあらわした。
暑いのか、先輩は扇子をパタパタさせる。
まさかのダブル府代表の登場に、私は困惑した。
「というわけで、ペア将棋、リベンジ編でやんすぅ」
「負けたらお面を脱いでもらうでぇ」
ちょっと、なに勝手に賭けてるの。私は抗議した。
「そういうの、先輩たちに決定権ないですよね?」
「あらへんけど、そっちは拒否できんで。そこを見てみ」
難波先輩は、ボートのそばの立て看板を示した。
カチヌケ
「カチヌケ……勝ち抜き戦?」
私は看板の意味をそう解釈した。
その証拠に、将棋盤を模した黒い石盤がそばにあった。
「せや。このボートは、そこの石盤で将棋を指して勝ったひとだけが乗れるんや」
「そんなのどうでもいいです。泳いで渡りますから」
難波先輩は、肩をすくめた。
「ひとが親切で忠告しとるんやで……な、我孫子?」
「そうでやんす。さっき天城さんと花咲さんが泳いで渡ったら、途中で怪物に攫われてしまったでやんす」
はい? 私は驚愕する。
「そ、それって水難事故じゃないですかッ!」
「もちろん、そういうアトラクションでやんす。天井に引き上げられたから、今頃はリタイアして別の部屋にいるはずでやんす」
「ちゅーわけで、指すかリタイアするか、2つに1つや」
私は将棋仮面を見た。将棋仮面は腕組みをしたまま、しばらく沈黙した。
「……よし、指すぞ」
「ちょっと、飛んで火に入る夏の虫になる必要はないわ。べつの方法を探しましょ」
「ヒーローに二言はない。最後までサポートする」
いや、ありがたい……ありがたいけど、そんな悲壮なオーラを出されたら、正体は葉隠ですって雰囲気になるじゃない。まさか、ほんとに葉隠くん? ありえないでしょ?
「30秒将棋で、ええな。ほな、じゃんけんや」
将棋仮面はグー、難波先輩はパー。こっちが後手だ。
順番は難波先輩→私→我孫子先輩→将棋仮面になった。
「その美顔、拝ませてもらうでぇ。7六歩ッ!」
8四歩、2六歩、8五歩、7七角、3二金、2五歩、3四歩。
角換わりだ。
みんな指し手が早い。私と将棋仮面が指し慣れているのはいいとして、難波先輩と我孫子先輩の息も合っている。さすがに近畿ブロック同士だけのことはある。
8八銀、7七角成、同銀、2二銀、7八金、3三銀、4八銀、6二銀、4六歩。
ここで私の番だ。腰掛け銀にするか、それとも別の方針にするか。
ピッ
くッ、この石盤、秒読み機能付きか。
ピッ、ピッ、ピーッ!
「7四歩ッ!」
「棒銀でやんすか? 銀は6二にいるでやんすね」
我孫子先輩は扇子であおぎながら、小考した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4七銀でやんす」
7三桂、6八玉、6四歩、3六歩、4二玉、3七桂。
私は悩んだ。将棋仮面は、オーソドックスな腰掛け銀を要求してる気がする。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6三銀ッ!」
「けっきょく普通でやんすか。2九飛」
8一飛、4八金、6二金、9六歩。
突き返しの一手でしょ。と思いきや、将棋仮面は違う手を指した。
「1四歩」
あ……先手に突き越しの権利が。
9五歩、1五歩で伸ばし合うつもり? それはあんまり後手がよくないと思う。
「うちの選択かいな。どないしよ」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「1六歩や」
難波先輩は、いったん1筋のほうを受けた。
私の手番。
将棋仮面の狙いは、端歩の突き合いじゃないはず。
仮にそうなら、9六歩に9四歩と受けておけばよかっただけだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ご、5四銀」
よくわかんなかった。とりあえず端を放置してみる。
「どうしても9五歩として欲しいんでやんすかねぇ……9五歩」
4四歩、7九玉、3一玉、8八玉。
うーん、どうしよう。
将棋仮面の狙いは、速攻だと思う。9五歩と突き越させたのは、その手とバーターして先に攻めるのが目的。多分。いや、ちがうのかなぁ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6五桂だ」
将棋仮面が方針を明らかにした。っていうか態度決めすぎ。
これで引けなくなった。
「過激やねぇ。6六銀」
2二玉、5八金、3一玉、5六歩、2二玉。
3一玉にする意味ないでしょ。だいじなところでちぐはぐになってる。
「夫婦ゲンカしてるでやんす」
「アイドル同士、仲良くしぃやぁ」
対局中にからかうなぁ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「こっちから行くでやんす。5五歩」
くぅ、けっきょく先攻された。
「さすがに予定と違うんじゃないでやんすか」
「ヒーローにこれくらいのピンチはつきものだ。4三銀」
後手は銀矢倉になった。
やっぱり予定と……ん? よくみたら先手のほうが陣形が悪い?
難波先輩は、困ったような顔をしている。
「あかん、発展性ゼロや……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7七桂ッ!」
「だ、大丈夫でやんすか?」
我孫子先輩、じゃっかん困惑。
これはチャンス。
私は慎重に読む。7七桂成……のまえに、ひと工夫。
「8六歩です」
「これは手抜けないでやんす。同歩」
同飛、8七金、8一飛、8六歩。
これでよし。
「お膳立ては整ったな。7七桂成」
難波先輩と我孫子先輩は、一気にようすが変わった。
公式大会のように真剣に読んでいる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同玉や」
これは成桂を取るのに30秒使ったんじゃないわね。
我孫子先輩のサポートだ。
私も時間を使う。
ここまで崩せたなら、攻勢をゆるめないほうがいい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5四歩」
ちょっと前のめりかなぁ。でも、4三の銀はもともと攻め駒だ。
我孫子先輩も小考。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2四歩」
攻め合いになった。
同銀、5四歩、同銀。
「桂交換は無駄にせん。2六桂」
「追撃します。6五歩」
「ここを耐えたら、なんとかなりそうでやんす。5七銀」
三味線なのか、なんなのか。
将棋仮面に攻めをつないでもらう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「小技が効くな。5六歩」
ん……うまいッ!
同銀直は5五歩で銀が死ぬ。かと言って同銀右は3八角だ。
「さて、怪人に応手がなければ、CM前に勝ちだが」
「あかん、あのクールビューティーな葉隠はんが、『怪人に応手がなければ、CM前に勝ちだが』とか言うとる。いろんな意味でくらくらするわ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでやんすッ! マジメに指しておくれやすッ!」
「そう焦らんといてや。頭は働いとるで」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同銀右」
難波先輩は、一番すなおな手を指した。まあ、それしかないわよね。
「3八角ッ!」
これで馬が確定。
2八飛、4九角成と進んで、私は手応えを感じる。
「あー、そないドヤ顔せんといてやぁ。まだ馬ができただけや」
「それプラス、玉形の差もあります」
難波先輩は、ひとさしゆびをひたいに当てた。やれやれという表情。
「将棋っちゅーのは、囲いの美しさを競うゲームでも馬を作るゲームでもあらへん。最後に王様を詰ませたほうが勝ちや。ほな、いこか。5五歩」




