289手目 ポールと名乗った少年
「で、その少年はどうなったんだ?」
松平は肩にカバンをぶらさげた格好で、そうたずねた。
ここは駒桜市の商店街。昨日の出来事から丸1日。私は用心のため、松平に帰宅のエスコートを頼んだ。男子高校生と一緒なら大丈夫でしょ。多分。
「分からないわ。八一を出て、そのまま姿を消しちゃったから」
「アデューはフランス語らしいな。フランス帰りかもしれない」
と松平の推測。私もそんな気がした。あの少年が住宅街で話してた言葉、ひとつも聞き取れなかった。英語じゃないと思うのよね。リスニングに自信があるわけじゃないけど。
「つまり、こういうこと? 猫山さんとあの少年は、何年か前につきあっていた。でも、少年は外国へ旅立って、音信不通になってしまった。そして、今頃になって帰国した?」
「どうだろうな。猫山さんとそいつがつきあってたっていうのは、タマさんから聞いただけなんだろ? あのタマってお姉さん、ちょっと信用できないと思うが」
松平の言うことにも、一理あった。でも、ここまでの猫山さんの反応からして、やっぱりなにかあったんじゃないかなあ、と思う。アパートでタマさんに空き缶を投げたのも、オタマで叩いて追い出したのも、いつもの猫山さんらしくなかった。
「裏見は、猫山さんのために、なにかしたいことがあるのか?」
「ううん……とりあえず、ふたりのあいだで解決したほうが……」
「あら、このまえのお姉さ〜ん」
私たちは振り返った。すると、ピンク色のひらひらした服を着た女性が、おもちゃ屋のまえに立っていた。手には風船を持っていた。頭には変な触角型のヘアバンド。
「あ、こんにちは……えっと……」
「久慈行子です」
そうだ。ナメコさんだった。
「先日は、突然おじゃまして失礼しました」
「いえいえ、こちらこそ、晩酌につきあっていただいて、ありがとうございました」
この会話に、松平はスゴイ目をした。
「う、裏見、担任には黙ってるから、早く更生ごほぉッ!」
「ちがうっちゅーねん。将棋につきあってただけよ」
「ええ、1局ほど……もしかして、デートの最中でしたか?」
「さすがは行子さん、お目が高いげふぅ!」
ドゴッ!(腹撃) ズゴッ!(胸撃) ガゴッ!(顎撃) 裏見流三連撃ッ!
「……」
「お亡くなりになられましたね。チーン」
ナメコさんは手を合わせた。
「ところで、香子ちゃんは、なぜ私たちのアパートに?」
「えーと……それは……」
マズいわね。突然の訪問で、さすがに怪しまれていたようだ。
アルコールで記憶喪失になってくれてたら、良かったんだけど。
「私のほうは用事がなかったんですけど、タマさんに誘われて……」
「そうですか。老人はいたわらないと、ダメですものね」
えぇ……なにこのコメント。
ナメコさん、じつはタマさんと仲が悪いのでは。
私は話題を変えることにした。
「ナメコさんがここでアルバイトしてるの、初めて見ました」
「今日は臨時です。いつもは、この裏の古物屋でアルバイトをしてます」
古物屋? ……そんなのあったんだ。知らなかった。
「ここのおもちゃ屋さんのお父さんがやってらっしゃるんですよ」
なるほど、なんとなく分かった。父親は古物商だったけど、それじゃ経営がむずかしいと思って、息子さんのほうはおもちゃ屋さんに転身したパターンか。そういえば昔、おじいちゃんに将棋盤を買ってもらったとき、この近くだった記憶がある。あれが古物屋さんだったのかもしれない。
「古物屋さんのアルバイトって、めずらしいような気がします」
「いろいろ恩義があるもので」
はぁ……そういう言い方をされると、つっこみの入れようがない。
とかなんとか言って、時給がいいとか、そういうオチなんじゃないかなぁ。
「裏見さんこそ、デートじゃないなら、なにをしてるんですか?」
「なんと言いますか……外国人っぽい少年が、猫山さんのことを……それで私も若干巻き込まれてまして……身の安全が……」
「ああ、あの件ですか」
「……ご存知でした?」
「部屋がべつとは言え、同居してますからね」
そうよね。明らかに様子が変だったし。
「愛ちゃんがゴキゲンななめだと、いろいろ困るんですけどねぇ」
ナメコさんはそう言って、近くを通った子に風船をくばった。
最後の1個だった。
「さて、お仕事は終わりです……どうですか、すこし休憩しませんか?」
「休憩? そういうのは、私じゃなくて店長さんと相談したほうが……」
「いえいえ、店長からは『配り終わったらおしまい』と言われてます。香子ちゃんたちも休んで行ってください。そこの古物屋で、おいしいジュースが飲めますよ」
いきなりお茶に誘われてしまった。
これには、復活した松平が食いつく。
「裏見、せっかくだからお言葉に甘えないか?」
「松平、初対面なのに図々しいわね」
「いや、そこの裏手の古物屋さんなら、俺の親父の知り合いだ」
なんだ、それを早く言いなさいよ。
「じゃあ、ナメコさんとは顔見知りだったの?」
「ああ。近所のガキの子守を任されたとき、ちょくちょく。あいつら、ここのおもちゃ屋でカードゲームとかいろいろ買うからな。話をしたのは今日が初めてだが」
んー、なんか意外なところでつながりがあるのね。
「松平くん、けっこうムキになって、小学生とカードバトルしてますよね?」
「しーッ、そういう顧客の情報は流さないでください」
やれやれ。私はあきれつつ、古物屋さんへ移動した。
おもちゃ屋のそばにある路地を進んで、反対側の道に出た。すると、おもちゃ屋を背にして、古い平屋が建っていた。なるほど、敷地を共有しているわけか。表の商店街からは建物の高さの関係で見えないわけだ。
「ごめんくださーい」
ナメコさんは、立て付けの悪いガラス戸を開けた。返事はなかった。
「留守みたいですねぇ」
ナメコさんは勝手に店へ入った。入り口のすぐそばは土間になっていて、そこから脛の高さくらいの段差で床に続いていた。畳敷きのうえに、古びた商品が並べてある。火鉢とか、壺とか、扇風機とか、店の備品なのか売り物なのか分からないものもあった。
ナメコさんは、右手にあるクーラーボックスを開けた。ビール瓶を取り出す。
「おふたりは、なにがいいですか?」
「え、あの……勝手に飲んじゃっていいんですか?」
「大丈夫です」
いや、大丈夫って、どういう理屈で保証されてるのよ。
私がためらっていると、松平は、
「コーラで」
と返事をした。私は小声で、
「ちょっと、ほんとに大丈夫なの?」
と確認を入れた。
「ここのおやじさん、テキトーだから問題ないと思うぞ。請求されたら払えばいい」
「……じゃあ、私はオレンジジュースをお願いします」
ナメコさんは古い栓抜きで、瓶のふたを開けてくれた。一本ずつ受け取る。
私たちがお礼を言うよりも早く、ナメコさんはビール瓶をぐびぐびやり始めた。
昼間から飲酒とか、すごいわね。
「ぷはぁ、仕事あがりの一杯はおいしいですね」
ナメコさんは口元を袖でぬぐった。畳のうえに腰をおろす。
「さあさあ、一局指しましょう」
ナメコさんは、売り物とおぼしき将棋盤を引っ張り出した。
なんだか雰囲気が微妙。私は、
「すみません、受験生なので、また今度……」
と、ことわった。松平も空気を読んで、おなじようにことわった。
「ぶぅ、せっかくおごったのに、それはないでしょう〜」
いやいやいや、アルハラおじさんですか。
「お代はちゃんと払いますから」
「お代はいらないです。指しましょう。最近、愛ちゃんが相手してくれないんです」
ナメコさんはビール瓶を片手に、畳のうえでバタバタやり始めた。
うーん、まいった。私は松平に耳打ちする。
「ちょっと、どういうことなのよ」
「俺が聞きたいぜ。まさかこんなひとだとは思わなかった」
松平は頭をかいた。そして、説得にかかる。
「行子さん、将棋はまた今度に」
「ダメです。今今今今今今今今」
あのさぁ……小学生じゃないんだから。猫山さんの友だち、精神年齢が低すぎる。
「この穴埋めはしますから」
「今今今今今今今今」
「それなら、俺が今指してやろう」
私たちは、一斉に入口をみやった。逆光で影になった若々しい顔に、私は喫驚する。
「あ、あのときのッ!?」
なんと、猫山さんをストーカーしている少年だった。
少年は戸を半分閉めて、私たちのまえに一歩進み出た。
「俺が指す。その代わり賭けてもらおう。俺が勝ったら、アイの住みかを教えろ」
なに言ってるの? 賭け?
呆然とする私のよこで、ナメコさんはガバリと起き上がった。
「ほほぉ……あなたがケツまくって逃げた、愛ちゃんの元カレですか。いかにも去勢されてそうな顔してますね。タ○タマちゃんとついてますか?」
ちょっとッ!? なにワケわかんない下品な挑発してるんですかッ!?
「俺が去勢済みかどうかなんて、どうでもいいだろう。賭けるのか?」
「もちろん」
ナメコさんは、畳に座った体勢からジャンプで立ち上がった。信じられない脚力。
「うふふふ、ナメクジっていうのはですねぇ、動物の死体も食べるんですよぉ。猫ちゃんは、どういうお味がするのかなぁ」
やめてぇ。意味が分かんないうえに怖いよぉ。私は松平の腕に抱きついた。
ふたりは私たちの存在を無視して、畳に座った。盤を挟んで対峙する。
「10秒でいいか?」
「ほぉ、自信があるみたいですね。では、10秒で」
少年はポケットからスマホを取り出した。ナメコさんはそれを見咎める。
「なにしてるんですかぁ? カンニングはダメですよぉ?」
「時間を計る。スマホのアプリなら公正だ」
「ダメです。スマホはかたづけてください」
少年はポケットにもどそうとした。
「ポケットからも出してください。振動したらすぐ分かるようなものの上に」
「用心深い女だな」
少年は肩をすくめて、スマホをストーブのうえに置いた。
「で、だれが時間を計る?」
「香子ちゃんに頼みましょう」
ナメコさんは、いきなり私を指名してきた。
少年は考えるようなそぶりを見せたけど、
「分かった」
と答えた。これには私が動揺する。
「あ、あの……」
「俺が代わりに計る」
松平が代行を申し出てくれた。
「私はかまいませんが」
「俺もかまわん」
ふたりはそう言って、駒を並べた。振り駒で少年の先手と決まった。
「7六歩」
少年は、角道を開けた。手つきが微妙。
ナメコさんはビール瓶を畳に置いて、あぐらをかく。
「それじゃ、行きますよぉ。8四歩」
2六歩、8五歩、7七角、3四歩、8八銀、3二金、7八金。
「7七角成」
ふ、普通に角換わりになってる。この少年、日本の将棋に通じてるの?
「同銀だ」
2二銀、3八銀、6二銀、4六歩。
「4二玉……そういえば、まだお名前をうかがっていませんでしたね」
ナメコさんは、いきなり相手の名前をたずねた。
少年は黙って4七銀とあがった。着手を終えてから答える。
「アイから聞いていないのか?」
ナメコさんは小馬鹿にしたように笑った。
「愛ちゃんは、あなたの話を一度もしたことがありません」
「そうか……おい、秒読みは?」
松平はハッとなって、秒を読み始める。
「5、6、7」
「3三銀。で、お名前は?」
少年は目つき鋭く銀を持ち上げた。
「ポールだ。5六銀」




