初 手 従兄弟襲来、四国から来た少年
※これは、香子ちゃんがまだ2年生のときのお話です。
夏休みも終わりに近づきつつある、8月中旬の昼下がり。
私は自宅の縁側で、ごろごろしていた。庭の木や花をぼんやり眺めたり、真っ白な雲がただよう空を見上げたり、なんとなく燃え尽き症候群な日々。それもそのはずで、歩美先輩たちと一緒に出た県大会が一段落してから、私は目標を見失っていた。羽生さんと比べるのはおこがましいけれど、七冠を取ったあとは迷いのなかにあったって言うし、大きなことを成し遂げたら、なんだか空しくなってしまうようだ。
「オーイ、香子姉ちゃん」
居間のほうで、溌剌とした少年の声が聞こえた。
「香子姉ちゃんってば」
私はうちわで扇ぐのをやめて、顔だけ居間にむけた。
畳敷きの、ずいぶんと年季の入った部屋だ。裏見家は、ずっと駒桜市に住んでいる。この家も、戦前に建てられたものらしい。リフォームしているとはいえ、やっぱり古い。
そして、居間の丸いテーブルの向こうに、よく日焼けした男の子が座っていた。いかにも体育会系という感じだけど、背はそこまで高くない。160前半だろうか。紺の半ズボンに白いTシャツで、鼻頭には絆創膏が貼ってあった。
「香子姉ちゃん、将棋指そうよ」
「いま、そういう気分じゃないから」
少年はエーと言って、つまらなさそうな顔をした。
両腕を後頭部で組み、ちょっとばかりのけぞる。
「せっかくK知から来たのに、そりゃないよ」
いや、K知からH島に来て、なんで将棋を指すかな。
私はあきれてしまう。
「外で遊びなさいよ」
「知り合いがいないじゃん」
「公園へ行って、てきとうに声かければいいでしょ」
「あのさ、俺、中3なんだけど……香子姉ちゃんが紹介してよ」
紹介って言われましてもね。
「だれを紹介するのよ?」
「姫野っていうひと、駒桜じゃなかったっけ?」
「姫野さんなら、受験勉強が忙しくて、会ってくれないわよ」
「千駄っていう男のひと、いない?」
「千駄先輩も高3」
少年は、チェッと舌打ちして、畳のうえにごろりとなった。
視線の高さが、おなじになる。
「従兄弟がわざわざ来てるのに、この仕打ちはない」
そう、こいつは私、裏見香子の従兄弟……裏見桂太だ。おじいちゃんの弟の家系で、駒桜を出たあと、四国のK知に落ちついたらしい。桂太自身は、生粋のK知っ子だ。
「あのね、いきなり来るのが悪いんでしょ」
「じいちゃんたちが決めたんだから、しょうがないだろ」
おじいちゃんから聞いた話だと、H島の裏見家とK知の裏見家で交流がないから、おたがいに孫の顔をみせることになったらしい。勝手に決まっていた話で、私も寝耳に水だった。とはいえ、四国には1、2回しか行ったことないし、ま、いっかな、って感じ。県大会前に言われたことだから、半分聞き流していたところもある。
というわけで、先に桂太のほうが私の家に来て、1週間ほど過ごしているのだ。明日からは、私がK知に行くことになっている。荷物の準備は、もう済ませていた。
「っていうか、桂太、よくOKしたわね。高校受験じゃないの?」
「残念、スポーツ推薦なんだよねえ」
くッ、見た目どおりか。私も推薦で、大学受験パスできないかしら。
今から陸上じゃ遅いだろうし、将棋は推薦受けるほど個人で成績を残していない。部活を頑張っていた冴島先輩が苦労してるから、心配してしまう。
私がネガティブになっていると、桂太は、ふたたび起き上がった。
「だからさあ、将棋指そうよ」
「どれくらい強いの?」
私が尋ねると、桂太はニヤリと笑って、
「結構、強いよ」
と言った。どうだか。
「公式大会は、さすがに出てないんでしょ?」
「出てるよ」
え? 完全に初耳で、私も上半身を起こす。
「公式大会の意味、分かってる? 町内会の将棋祭りじゃないわよ?」
「分かってるよ。春と秋の団体戦、個人戦だろ?」
意外。サッカーをしていると聞いたから。
「なにがどうなったら、サッカー部員が将棋を指すようになるわけ?」
「それはこっちの台詞。香子姉ちゃん、中学は陸上やってなかった?」
うむむ……ブーメラン……。
「陸上は、うえの層が厚過ぎて、なんだか疲れちゃったのよ」
桂太は両腕を組んで、じっとりとこちらを見た。
「エー? そんなこと言えるくらい、将棋で成績残してるの?」
ぐさっ。私は悶えた。言ってはならないことを。あったまきた。
「いいわよ、ボコボコにしてあげる」
桂太は、人差し指で鼻の下をこすった。
「へへへ、そうこなくっちゃね」
私は部屋のすみから木製の将棋盤を持ち出して、テーブルのうえにおく。
おじいちゃんと指している盤だ。
駒をならべて、振り駒。
「よっし、私が先手よッ! 7六歩ッ!」
パシリと、角道を開けた。相手の棋風なんて、気にしない。
居飛車だろうが振り飛車だろうが、ぶっつぶす方針で。
「チェスクロないの?」
そんなものあるわけないでしょ。高いんだから。
おじいちゃんと指すときは、そもそも持ち時間を設定しない。
「体感で30秒将棋にすれば、いっか……3四歩、と」
2六歩、4四歩、4八銀、4二飛。
このご時世に、ノーマル四間とは……なかなか度胸が据わってるじゃない。
「5六歩よ」
「言っとくけど、俺、ほんとに強いからね」
ああん?
「ぐだぐだ言ってないで、さっさと指す」
「はいはい、3二銀」
6八玉、6二玉、7八玉、7二玉、5七銀、8二玉、7七角、4三銀。
桂太は、7二銀を入れてこない。穴熊の可能性があるわね。
2五歩、3三角、8八玉。
「9二香」
ほんとに穴熊なのか。我が従兄弟ながら、けしからん。
「こっちも9八香よッ!」
「そうこなくっちゃ。5四銀」
6六歩、6四歩、9九玉、9一玉、8八銀、8二銀。
ハッチを閉めて、本格的な相穴熊。
7九金、7一金、5九金。
「6二飛」
桂太は、すこしばかり攻勢をとった。
私はちょっとだけ考えて、6九金右と寄せる。
「さすがに、ここじゃ仕掛けられないか……5一金」
7八金右、6一金左。
囲いは、だいたい完成かしら。
桂太のほうも、7二金左とは、やりにくいでしょう。バランスが悪い。
私は3六歩と突いて、攻めの準備を始めた。
桂太は、4五歩と反発してくる。6八銀、7四歩、3七桂。
ここで、桂太の手がとまった。
「だらだら考えるのは、なしよ」
「分かってるって」
桂太を両手をひたいにあてて、じっと考え込む。なかなか様になってるわね。
強いっていうのも、ホラじゃないかもしれない。私は慎重になった。
「……3五歩」
うッ……後手から攻めてきた?
同歩に……3二飛か。これは読める。
「おどかそうったってムダよッ! 同歩ッ!」
3二飛(予想通り)、2四歩、同角、6五歩、3五飛。
後手の飛車が飛び出してきた。このままだと、一方的に攻められてしまう。
「2四飛ッ!」
私は飛車角交換に持ち込んだ。桂太は、ちょっと顔をしかめる。
「ん……それ、成立してるの?」
「見てのお楽しみ」
「ま、とりあえず同歩」
私はすかさず、2六角と打った。
桂太は、ツンと立った髪の毛に手をあてて、それを芝生みたいに押さえつけた。
右目を閉じて、首をかしげる。
「なに、それ?」
「ほらほら、さっさと指しなさいよ」
「うーん、ちょっと待って」
さすがに、手拍子で3六飛とはしないようだ。それは5三角成、3七飛成、5四馬で、私がいい。これに気づいた以上は、飛車を引くんじゃないかしら。
結局、桂太は1分近く考えて、3一飛と引いた。私は予定通り、1一角成。
桂太はかるくうなずいて、3五歩と置いた。
ん? なにこれ? 角道止め?
「香子姉ちゃん、長考禁止」
シャラップ。私は扇子でコツンとやった。
「いたた……角筋止めてるだけなのに」
ウーン……あやしい……ほんとに5三角成を防いでるだけ?
私は席を立つ。
「どこ行くの?」
「お茶、取ってくる」
キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。キンキンに冷えた麦茶を取り出し、棚からコップをふたつ。それぞれに注いで、私は先に一口飲んだ。
3五歩……3五歩……あッ!
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これか。1五角、1四歩で角が死ぬ。
私はコップを両手に持って、居間へもどり、桂太にひとつあげた。
「サンキュ」
感謝されてるそばから、3三歩と置く。
麦茶に口をつけていた桂太は、右目を細めた。
やっぱり、2七飛が狙いだったわね。
桂太はコップをおいて、持ち駒の飛車を手にする。
「キッチンで考えるのは、ズルいと思うんだけどね……2七飛」
3五角、6二金直、2二馬、3七飛成。
「5三角成ッ!」
「それはさすがに読み切りだよッ! 同金ッ!」
3一馬、3三龍。
龍を撤退したか。不利を認識してるわね。
「2一馬」
「6六桂」
これは……追撃の心配がないから、7七金?
わざわざ取らせる必要はない。
そう判断して金に指を添えた私は、ふとべつの手に気づいた。
「……1一馬」
今度は、桂太が悩む。庭のほうで、蝉が鳴き始めた。
桂太はあぐらをかいて、うんうんと背筋を伸ばしたり曲げたり。
「香子姉ちゃん、マジで強い」
でしょ?
「しょうがないや。2二角ね」
同馬、同龍。桂太の龍は、3九に入れなくなった。
「7七金」
どうですか、この華麗な手筋。単に7七金より、ずっといい。
「こっちがかなり損したなあ」
桂太は渋々、5八桂成。
これも6七銀と逃げて、5七歩に5五歩、6五銀。私の手が止まる。
「6五銀?」
「そうだよ」
見れば分かるだろうと、そんな感じで返された。
6六歩で、どうするつもりなの?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これで銀が死んでいる。見落とし? それとも、罠?
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正確には分からないけど、6六歩、5九成桂、6五歩、5八歩成が狙い?
後手の穴熊は手つかずだから、と金を作られると厄介。
私は麦茶を半分飲み干して、持ち駒の角に手を伸ばした。
「2六角」
5九成桂の筋を消す。成桂を抹殺する方針だ。
「チェッ、また面倒なのがきた」
桂太はガリガリと頭を掻いて、座り直した。
「こうなったら徹底抗戦ッ! 3五歩ッ!」