286手目 ビール好きの客人
おどろいて息もできない私の目の前を、青年は通り過ぎようとした。
背中が見えかけた瞬間、タマさんは茂みから飛び出した。
「こりゃ、待たんかいッ!」
青年は、冷めた目でタマさんのほうを振り返った。
「Vous encore?」
鼻にかかったような言い方に、タマさんはいきどおる。
「日本では日本語を話さんかッ!」
青年は、つまらなさそうに夕日を眺めた。
「またおまえか、って言ったんだ」
「それはこっちのセリフじゃ。さっさと駒桜を出ていかんかい」
青年はタマさんを無視して、先へ行こうとした。
「出て行かんと酷い目にあうぞい」
青年はふりかえった。ネックレスと青い目に夕日が映える。
「俺とアイの仲は、おまえに関係ないだろ」
「勝手にぶち壊して出て行った男に、そんなことを言う資格はない」
タマさんは鼻息を荒くして、茂みに隠れる私を指差した。
「よいか、今日は助っ人を呼んであるのじゃ」
いつのまに助っ人になってるの。
隠れているわけにもいかなくなり、私は茂みから出た。
「あの……こんにちは……」
「おまえは?」
「えーと……猫山さんの知り合いです」
「そうじゃ。ガツンと言ってもらうために呼んだのじゃ」
なんで私にガツンと言う権限があることになってるんですか。
ほんとうに勘弁して欲しい。
「タマさん、ここは出直して……住宅街ですし……」
「そうだな。さっさと俺のまえから消えろ」
キツイなぁ。クールっていうよりは冷淡な感じがする。
「わしは引き下がらんぞ。何度でも現れてやるわい」
「……Faites-le à votre façon」
青年は外国語をつぶやき、近場のコンクリート壁を軽々と飛び越えた。
あっという間に視界から消える。
「こりゃ、待たんかいッ!」
「タマさん、落ち着いて。他人の敷地に入ったらダメです」
私はタマさんをなだめた。
青年が消えた方向は、どうみても住宅の中庭だった。
「むふぅ、これは愛ちゃんを護衛せんといかんわい」
いやいやいや、完全におせっかいでしょ。
「タマさん、こういうのは他人があんまり首をつっこまないほうがいいです」
「あの男、愛ちゃんとヨリをもどすつもりかもしれん。断固阻止じゃ」
だからですね、ヨリをもどすかどうかの判断は猫山さんがするわけで。
私は呆れかえった。
「ともかく、愛ちゃんのアパートへ先回りじゃ」
○
。
.
というわけで、猫山さんのアパートに案内されたわけですが――
「ここ……ですか……?」
私は建物を見上げた。外壁はボロボロで、錆びた排水管と割れた窓がみえる。
ひとが住んでいる気配はない。というか、住めるの、これ?
水道も電気もガスも通ってなさそうな雰囲気だ。あたりには廃工場や空き家が並んでいて、私が一度も来たことのない地域だった。だんだん薄暗くなっていく。
タマさんに騙された気がして、私は一歩あとずさりした。
「どうした、会いに来たんじゃろ?」
「いえ、その……ほんとにここに住んでるんですか?」
私の質問に、タマさんはニカッと笑った。
「もちろんじゃ。ここは安くて手頃で仲間も多い」
えぇ……怖い。なにそれ。いや、お金がなくてオンボロアパートに住んでるひとはたくさんいると思うけど、猫山さんは全然そんな感じにみえない。
「あの、またこんどの機会に……」
「なにを言うておるんじゃ。入り口はこっちじゃぞ」
タマさんは、いきなり私の制服のすそを引っ張った。
これは悲鳴をあげざるをえない――と思った瞬間、2階から声がした。
「裏見さん、なにしてるんですか?」
窓から猫山さんが覗き込んでいた。
「ほ、ほんとに住んでたんですか?」
「わしがそう説明したじゃろうが……おーい、愛ちゃん、慰めに来たぞい」
猫山さんの窓から、缶ビールの空き缶が飛んできた。タマさんのひたいに命中する。
「いたたた……なにをするんじゃ!」
「すみません、手が滑りました。行子さんも来てますから、どうぞ」
どうも知り合いが来ているらしい。私は遠慮しかけた。
「裏見さんもどうぞ。狭いですけど」
「ほらほら、腹をくくるのじゃ」
私はタマさんに引っ張られるかたちで、アパートに入った。すると、外観よりはマシな建てつけで、階段も綺麗に掃除されていた。ちょっと意外。2階に上がり、猫山という表札のある部屋に入った。
……せっま。ひとが何人も入れるスペースじゃない。
「ささ、どうぞ」
猫山さんは、座布団を2枚出してくれた。穴が空いて中身の綿が飛び出している。
ダニとかついてそうで、いやだなぁ。帰ったら念入りに洗濯しましょ。
「お、お邪魔します」
私は正座して腰をおろした。ちっちゃいちゃぶ台に、先客が1人いた。
「あれぇ? お客さんですかぁ?」
長い髪をした薄着のお姉さん。汗かきなのか、肌がぬらぬらしていた。
それとも、酔っ払ってるからかしら。ビールの缶が、ちゃぶ台の上に何本もあった。
「すみません、もしかして宴会の途中でした……?」
「行子ちゃんがひとりで飲んでるだけです。問題ありません」
という猫山さんの返事。良かったのかなぁ。
っていうか、ナメコさんって本名? 変わった名前だ。キノコみたい。
「かわいい子ですねぇ。どこの女の子ですかぁ?」
「行きつけの喫茶店でよく会う娘ぞい」
タマさんの記憶力の悪さ、こういうときは助かる。
初対面の酔っ払いに個人情報は教えて欲しくない。
けど、ナメコさんは私に興味津々みたいで、
「ん〜、雰囲気的に犬っぽいですねぇ。ルールにうるさそう」
と、わけのわからない人物評を始めた。これにはタマさんが笑って、
「ニャハハハ、香子ちゃんは人間じゃぞい」
と、これまた当たり前のツッコミをいれた。
「あれぇ? 人間さんなんですかぁ?」
なんですか? 人間に見えないんですか? さすがに怒るわよ。
「そうじゃ、将棋が強い人間じゃ」
「えぇ? 将棋が強いんですかぁ? 私も強いですよぉ?」
い、いきなりの強者宣言。これが酔っ払いの自信。
「あ、信じてないですねぇ……」
ナメコさんは、じっとりとした目つきで私を睨んだ。
「そういうわけでは……」
「行子ちゃんは、ほんとに強いですよ」
猫山さんの評価に、私はびっくりした。ってことは、普通に有段者なのでは。
4人も若い女性が集まって将棋が全員指せるシチュエーション、なんか不気味。
「一局指しましょ〜」
ナメコさんは、部屋の隅から将棋盤を持ち出してきた。
古びた木の盤に、これまた使い古した木の駒だ。
っていうか、指す流れなの?
「負けたほうがビール一杯おごるっていうのは、どうですかぁ?」
「すみません、未成年なので」
ナメコさんは、目を閉じて口を尖らせた。
「ぶぅ〜」
なんかなぁ。猫山さんを慰め(?)に来たはずなのに、変なひとに捕まっちゃった。
「ニャハハハ、ナメちゃん、飲み過ぎじゃぞ」
タマさんが仲裁してくれた。なんだかんだで、一番年長っぽい対応。
「ん〜、景品はあとで考えましょう〜」
ナメコさんは駒を並べ始めた。賭け将棋かぁ。ちょっと嫌だけど、酔っ払ってるから、そのうち忘れてそう。最後はタマさんに助けてもらいましょう。
私のほうはササッと駒を並べた。ナメコさんはすこし時間がかかる。
「じゃ〜んけ〜ん」
ぽん。私の勝ち。
「時間はどうしますか?」
「10秒でぇ」
「じゅ、10秒で大丈夫ですか?」
「ナメちゃんの早指しは強烈じゃぞ」
ぐっ、ここでタマさんが脅してくるのか。よーし、受けて立とうじゃない。
アルコールが入って10秒は、さすがにキツイでしょ。反則勝ちすらありうる。
「時間はわしが計ってやろう」
タマさんが秒読みを申し出て、対局準備がととのった。
「よろしくお願いしま〜す」
「よろしくお願いします」
私は7六歩と角道を開けた。
「8四歩ぅ」
居飛車党っぽい。どうしましょ……角換わりにしますか。
「2六歩」
8五歩、7七角、5四歩(?)、8八銀、6二銀。
??? 力戦っぽい?
「5、6、7、8」
「ご、5六歩」
10秒将棋で力戦を選んだということは、かなり自信がありそう。
しばらくはついていく。
3二金、5八金右、5三銀、2五歩、4一玉。
角道を開けないのか。力戦模様なら開けそうなものだけど。
4八銀、7四歩、7八金、4二銀上、6九玉。
「6四ぎぃん」
アグレッシブな陣形。この瞬間、私はナメコさんの棋風を悟った。
力戦好きの超攻撃型だ。
「どうしましたぁ? 時間がありませんよぉ?」
「5、6、7、8、9」
私はギリギリで5七銀と指した。
「5三銀上」
「3六歩」
「まだまだ前に出ますよぉ。4四ぎぃん」




