284手目 猫山さんが辞める!?
※ここからは香子ちゃん視点です。
6月中旬――すっかり梅雨入りした駒桜は、今日も雨だった。
校庭の紫陽花にかたつむりが映える、そんな午後のできごと。
「裏見先輩、猫山さんがどこのだれかご存知ですか?」
そうたずねたのは福留さんだった。私は参考書から顔をあげた。
「いきなりどうしたの?」
「いえ、単なる質問なんですけど……ご存知ないです?」
私は参考書を閉じた。タメ息をひとつ。
「理由がないのにそういう質問するのって、変じゃない?」
「あう……すいません」
福留さんは白状した。猫山さんを好きなクラスメイトがいるらしい。
「また、ずいぶんと変わった片想いね」
「年の差も分かんないですしね……というわけで、どうなのかなぁ、と」
「悪いけど、猫山さんのプライベートなんて全然知らないわよ」
「ですよねぇ……葉山先輩に訊こうかな」
それもどうかしら。葉山さんが知ってる知らない以前に、他人のことをこそこそ嗅ぎまわるのは、よくないと思う。ガツンと言っておきましょう。
「猫山さんには彼氏がいるかもしれないでしょ。そういうのは告白したい本人に任せて、傍観したほうがいいわ」
「恋のキューピッドあずさちゃん……はムリか。いい暇つぶしだと思ったんですけど」
「私は暇じゃないの。受験勉強でいそがしいんだから」
「その本、将棋の参考書ですよね?」
他人の本をチェックしないでちょうだい!
○
。
.
「香子ちゃん、どうしたの?」
一杯のコーヒーが、金縁のお皿に乗って出てきた。
私は、うわの空だったことに気づく。マスターがほほえんでいた。
「受験疲れかな?」
「まあ、多少は……」
マスターは、カウンターの空いたお皿を回収した。
「僕は高校を卒業してこの業界に入ったから分からないけど、みんな大変そうだね。とりあえず、うちの常連さんだった学生は志望校に入れたみたいだし、おじさんはそれだけが救いかな」
なんだかしんみりしてきた。梅雨にはぴったりだけど、どうも違和感をおぼえる。普段のマスターは、よほどのことがない限り、さびしげな話はしない。
と、ここまで考えて、店内になにかが欠けていることに気づいた。
「猫山さんは、お休みですか?」
マスターは、お皿を拭く手をとめた。
「ん、ちょっとね……」
あやしい。けど、これ以上つっこんで訊くのもはばかられた。
さっき福留さんにああ言った手前、野次馬根性を出すわけにもいかなかった。
ところが、なにを思ったのか、マスターのほうから、
「香子ちゃんは昔からの馴染みだし、猫山さんとも親しいから、ちょっとだけ……」
と打ち明けてきた。
「じつはね、猫山さん、ここを辞めるみたいなんだよ」
「え? ……辞める?」
「はっきりは言ってないけど、おじさんの勘だとそうなんだ」
なんだ、びっくりした。予感の話か。
「あ、その顔は信じてないね」
「猫山さん、このまえも上機嫌でしたよ?」
「一昨日から、様子がおかしいんだ。シフトも入ってくれないし」
「大学のレポートか試験で、いそがしいんじゃないですか?」
私の質問に、マスターはなんとも言えない表情を返した。
その瞬間、私ははたと気づいた――猫山さんが大学生って、憶測なのよね。どこの大学に通ってるとかは、一度も聞いたことがない。ただ、状況証拠的にはそれっぽいのだ。まず、見た目が20歳くらい。バイトをしているから、定職にはついていない。フリーターやってるんですよねぇ、という話が本人や周囲から漏れたこともない。となると、大学生である可能性が非常に高いわけで……違う?
「今のはおじさんの勘だからね。あまりあてには……おっと、いらっしゃい」
べつのお客さんが来て、この話は取りやめになった。
私はコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓ガラスの雨筋を眺めた。
○
。
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「すっかり遅くなっちゃった」
私は夜の駒桜を自宅へと向かっていた。
あのあと、喫茶店でよっしーと出会い、すっかり話し込んでしまった。それから図書館に行って、閉館まで勉強。どうも時間のコントロールがうまくいっていない。
こんな夜中だし、裏道でショートカットするのもなぁ。
物騒な考えはやめて、大通りを選んだ。
「おーい、そこの将棋娘、待たんかい」
女の声――ふりかえると、白装束の女性が手を振っていた。
私は悲鳴をあげかける。
「こりゃ、わしの顔を見て悲鳴をあげるとは、なにごとじゃ」
「び、びっくりした……タマさん、こんばんは」
「ニャハハハ、ちゃんとわしの名前を覚えとるな」
タマさんは笑った。これだけでも怖い。だって、このひと、素性が不明なのだ。喫茶店八一にたまに現れて、マスターにお世辞を言ったりミルクを飲んだりしている。言い方は悪いけど、言動がかなり変なひとだ。学生のあいだでは、ちょっとアレなのではないかという噂になっていた。
私の警戒心をよそに、タマさんは猫招きみたいに手招きした。
「夜遊びか? どうじゃ、わしと一緒に遊ばんか?」
ひぃいいいい、怖い。
「あ、あの、私、急いでるんで……」
「ちょっとくらいええじゃろう。愛ちゃんも、おるぞい」
「ほんとに急いで……」
そこまで言いかけた私は、聞き覚えのある名前に固まった。
「猫山さんがいるんですか?」
「この先のレストランでディナーじゃ。香子ちゃんも一緒に食べるぞい」
「……ちょとだけなら」
私はお母さんにスマホで連絡を入れた。友だちの家に参考書を借りに云々。
タマさんに案内された場所は、将棋部でも使うファミレスだった。
一番奥の4人がけの席に向かう。猫山さんは――いないじゃないですか。
「あれ? 愛ちゃん、どこにおるんかの?」
「ここで待ち合わせなんですか?」
「うむ……そこのお兄さんに聞いてみようかいの」
タマさんは、店員の若い男性に声をかけた。
「このへんに、猫耳の髪型をした、かっこかわいいお姉さんはおらんかったか?」
「猫耳の髪型……ああ、いらっしゃいましたよ。どなたかお待ちだったみたいですが」
「ふむふむ、わしらを待ってくれたんじゃの。ならばトイレか」
私たちは座って待つことになった。とりあえず注文を済ませる。
「たらこスパゲティがおひとつ、ラザニアがおひとつですね。少々お待ちください」
店員さんはそのまま厨房に消えた。
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…………………
………………気まずい。
「遅いですね」
「ウ○コじゃろ」
きたない。ほいほいついてきたの、間違いだったかなぁ。
でも、猫山さんに会っておきたい気持ちもあった。マスターの話によれば、猫山さんはこの先のシフトをひとつも入れていないらしい。もうこのまま辞める可能性もあるということだ。猫山さんは駒桜市民だって言ってるけど、あれだけは嘘だと思う。だって、猫山さんが母校のOGだという知り合いはいないからだ。
そこまで推理したとき、足音が聞こえた。私は顔をあげる。
「お待たせしました。たらこスパゲティとラザニアです」
あれ? 料理が先に来た? 私は手洗いのドアを遠目に見た。出て来る気配はない。
「食べんと冷めるぞい」
タマさんは、箸でスパゲティをすすり始めた。
「ふぅむ、この魚の卵は、何度食べてもうまいのぉ」
私もお腹が空いていたから、ラザニアを口に運ぶ。あちちち。
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………………だから気まずいってば。
「猫山さんとタマさんって、昔からのお友だちなんですか?」
「うむ、子どもの頃から仲良しじゃ」
ほほぉ、ってことは、小学生か中学生くらいからってことか。
「こうやって、よくお会いになられるんですか?」
タマさんはパスタを箸でくるくるし始めた。ちょっとさみしそう。
「最近は、あんまり遊んでくれんのぉ」
「……大学がいそがしいとか?」
私はカマをかけてみた。ところが、全然予想しない反応が返ってくる。
「ダイガクとはなんじゃ? イモか?」
うぅむ、これでは情報を聞き出せない。そもそも本当だという保証がない。
「それにしても、猫山さん、全然出てきませんね」
「腹でも壊したんかのぉ……ちょいと見てくるぞい」
タマさんはトイレに消えた。あわてて飛び出してくる。
「た、たいへんじゃッ! 愛ちゃん、おらんぞいッ!」
「え? いない?」
タマさんは、顔を真っ赤にして怒った。
「あの腐れ男が連れて行ったに決まっておるッ! 救出じゃッ!」
タマさんは、そう言ってレストランを飛び出した。
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………………え、ちょっと待って。お会計は?




