275手目 2回戦 不破〔天堂〕vs新巻〔清心〕(1)
※ここからは不破さん視点です。
さぁて、一回戦はちょちょいと片付けたわけだが――
「不破さん、お疲れさま」
顔をあげると、師匠がペットボトルを持って立っていた。
「お疲れさまです。ほかはどんな感じですか?」
「どこも順当かな。次は新巻くんとだよ」
虎野郎か。いおりんには荷が重かったらしい。
あたしがバターにしてやるぜ。
「これ、さしいれだから対局中に飲んでね」
ポイと手渡されたペットボトルを、あたしは空中でキャッチした。
ショッキングピンクの色合いからして、ジュースみたいだな。
「ありがとうございます。さくっと優勝してきますよ」
「アハッ、次はまだ2回戦だからね」
それくらい気合がないと、優勝はできないぜ。出陣。
虎向は先に座って、後ろ髪の輪ゴムをなおしていた。
「なんだなんだ、あたしのために、おめかししてくれてんのか」
「楓、このまえ貸した200円返せよ」
あたしは舌打ちした。
「それがひとにものを頼む態度かよ」
「いや、借りたものは返さないとダメだろ」
あたしは椅子を引いて、どかりと腰をおろした。
ペットボトルで、手のひらをペチペチする。
「あたしが勝ったら200円はチャラにする、ってのはどうだ? 負けたら倍払い」
「賭け将棋はダメだ」
ちぇっ、お堅いやつだな。
「あいにく手持ちがないんでね」
「そのジュースはどうやって買った?」
「師匠からのさしいれ」
虎向は輪ゴムを締めなおして、ペットボトルを物珍しそうに観察した。
「見たことない銘柄だな。なんて読むんだ?」
「おまえ日本語も読めねぇのかよ」
「それ日本語じゃないだろ」
あたしはラベルを確認した。象形文字みたいなものが並んでいた。
「ん……外国の製品か。どこのだろうな?」
あたしはがんばって読もうとした。が、一文字も読めなかった。
「ピアノコンクールでゲットした商品、とか?」
虎向の推理に、あたしは首をかしげた。
「コンクールの商品でジュースはないだろ」
「協賛が飲料メーカーならありえる」
「どうかね。師匠がコンクールに出たって話も全然……」
「それでは、2回戦を始めます。準備はいいですか?」
おっと、もう始まるじゃねぇか。
あたしは振り駒をした。表が5枚で、あたしの先手だ。
「始めてください」
「よし、ぎりぎり間に合ったな。虎野郎、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
あたしたちは一礼して、対局開始。
「5六歩」
「3四歩」
「5八飛」
「ほれ、どうする? 居飛車の対抗形にしてみるか?」
とりあえず挑発してみる。
「ちゃんと用意してきてあるぞ。3二飛だ」
虎向は相振りを選択した。
「へへっ、そうこなくっちゃな。受けて立つぜ」
7六歩、4二銀、5五歩、3五歩。
あたしは王様に指をかけた。
「6八玉」
左穴熊だ。あたしの得意戦法。
「それも想定済みだッ! 6二玉ッ!」
「虎のくせに生意気だな。バターになるなよ。7八玉」
「虎だと思ってるならもっとリスペクトしろッ!」
虎は虎でも、兎に飼われてる虎だからな。ほんとに怖いのは兎さんだ。
7二玉、7七角、8二玉、8八玉、7二銀。
虎向は美濃囲いを選んだ。あたしは9八香とする。
3四飛、7八金、5一銀、9九玉、5二銀、8八銀。
ハッチを閉めた。後手は7四飛かと思ったが、杞憂だったようだ。9九玉のまえに7八金を入れたのは、この7四飛を警戒したからだ。7八金を入れずに9九玉だと、7四飛、8八銀、7六飛、5四歩と反発したときに、7七角成、同銀、7四飛、5三歩成、4四角の打ち返しがある。4二とは7七角成、同桂、同飛成みたいな展開が考えられる。先手即負けってわけじゃないが、気持ち悪いから避けておいた。研究手順かもしれないしな。
虎向のやつ、ほんとに準備してきた感がある。指し手が速いぜ。
「6四歩」
虎向は7四飛を放棄した。高美濃への組み替えか。
あたしは10秒ほど考えて、5九金と寄った。
ほとんど入れ違いに次の手が指された。
パシリ
「んー、そうきたか」
あたしは右ひじをテーブルに乗せた。斜めに構えて長考する。
この手は機敏だな。
3六同歩、同飛に手抜けない。5九金と寄ってるから、3九飛成がある。
かと言って、3七歩、3四飛と収めるのは、あんまり面白くない。
ってことは……3八銀、3七歩成、同銀か。
(※図は不破さんの脳内イメージです。)
これが本命だな。
しかし、後手は手がないようにもみえるが……?
有力なのは、6三銀から固めていく順かね。
あたしは、とりあえず3八銀と指した。
虎向はノータイムで3七歩成。
「同銀」
「4四角」
あ、ふーん……そういうことか。端攻めだな。
放置なら1四歩〜1五歩と伸ばす気だ。
あたしは口のなかで飴玉をころがした。
「これが研究手順ってか?」
「さあな」
ずいぶんと冷たいね。まじめに指してるのは分かるが。
高校の新人戦は人生で1回しかない。名前もけっこう残る。
「手損だけど、もどらせてもらうぜ。4九金」
あたしは金を右にもどった。狙いは4六銀だ。
4九金としておけば、4六銀とあがっても3九飛成がない。
後手は4五銀とされたら両取りだ。端攻めのヒマはないだろう。
「なるほど、そうきたか」
虎向は背筋を伸ばして、もういちど後ろ髪を結びなおし始めた。
真剣に読んでるときの癖だ。同期だから分かる。
まあ、2二角と撤退するだろうな。3三は飛車が微妙に窮屈だ。
「……1四歩」
んー、端攻めを強行……ってわけじゃなさそうだ。
2二角のあとに1三角と覗く順をみてるな、これ。
いずれにせよ、ほっとくと1五歩と伸ばされるから対応する。
「4六銀」
虎向は黙って2二角と撤退した。
さて、1三角をどう防ぐかがポイントだ。
一番単純なのは6八角。以下、1三角、3五歩でなんとかなる。
むしろ後手のほうが困ってんじゃないのかね。
「6八角」
あたしは角を引いて打診した。
「放置だと押し切られるか……1三角」
3五歩、2四飛、2八飛。
飛車を封じ込めることができた。が、殺せてはいないな。
逃げ道は多い。6五歩から横に逃げるのが、ひとつ。もうひとつは2二角〜1三桂。
「2二角」
虎向は桂馬で受けるようだ。
「ま、それでも2六歩かね。2六歩」
「1三桂」
ここからが勝負だな。中盤の駒組みにもどった。
こういうときは、おおまかな方針を決めるのが得策。
とりあえず……囲いの薄さが気になるな。後手は美濃だが、あたしは2枚穴熊だ。
これじゃ勝負にならない。
「固めるよ。5九金」
虎向に手番が渡った。
後手も固めようと思えば固められるんだよね。
6三銀からの高美濃か、さらに5二金左を加えてのダイヤモンド美濃か。
残り時間は、先手が22分、後手が25分。まだまだ。
……………………
……………………
…………………
………………
ずいぶん長考するな。もしかして攻める気か?
そう読んだ瞬間、虎向も動いた。
パシリ
チェスクロが押される。
これは大きく動くぞ。
さっきまでのジャブみたいなやりとりとはちがう。同歩、同飛と仮定して、この局面がちょっと不気味というか、8八角成、同金、7九銀、同角、5九飛成みたいな強硬手段もある。まあ、8八角成に同玉と取れば解決するんだが……なるべく安全策でいくかねぇ。
「同歩」
「同飛」
あたしは6九金と寄った。
虎向は5六歩と垂らす。
「そこに垂らされると取れないんだよなぁ……7九金寄」
「6五歩」
なるほどね、押さえ込みに来たか。
だけど、それはこっちもできるわけで……っと、飴がなくなった。
あたしはスティックを包み紙にくるんで捨てた。ポケットをまさぐる。
「ん、そういやジュースがあったな」
「さっきから目のまえに思いっきりあるだろ」
「いちいち突っ込むなっつーの。いつ飲もうが、あたしの勝手だろ」
師匠からのもらいもんだ。ありがたくいただくぜ。
キャップを開けて、口にふくむ。
「ぶはッ!? まっずッ!」
なんだこれ。芳香剤を飲んでるみたいな味がするぞ。げろげろ。
「それ、ほんとにジュースなのか?」
虎向は、ラベルを怪訝そうに見つめた。
「甘いっちゃ甘いんだが……変なもん飲んじまったかなぁ」
「海外製だから、日本人の口に合わないんだろ」
師匠、ちゃんと試飲して欲しかったぜ……っと、続きを考えるか。
「こっちも押さえ込む。5五歩」
飛車が撤退してくれたら、よし。同角、同銀、同飛でも、まあよし。
虎向は息をついた。
「思ったよりうまくいってないな……」
「不破さま相手に良くしようなんて、100年早いぜ」
「飛車を逃げるとジリ貧か……同角」
ん、切るほうを選んだか。
あたしは口直しに、飴玉をほおばる。やっぱこっちのほうが美味いな。
さてさて、同銀、同飛、7七角打までは確定。
虎向の狙いは、4五飛、1一角成、4七飛成の次に5七歩成だろう。5七歩成〜6七とが決まると、こっちが勝てない。防ぐには、5九香くらいか。ここで5七銀とゴリ押しされたときに、どうか。
(※図は不破さんの脳内イメージです。)
同香は同歩成〜6七とが成立するから却下。とはいえ、取れないのもつらいな。
やっぱり飛車を撤退して欲しかった感がある。けど、愚痴ってもしょうがない。
あたしは真剣に考えた。
……………………
……………………
…………………
………………
5七銀に8六角とあがって、3四歩〜3三歩成〜4二とが着実かね。
後手からの攻めもおそらく3八歩〜3九歩成だから、速度負けはしていない。
「同銀」
あたしは角を取った。
同飛、7七角打、4五飛、1一角成、4七飛成、5九香、5七銀。
「8六角」
「そっちか……3八歩」
んー、完全にさっきの順か。
3四歩、3九歩成、3三歩成、2九とってことだよな。
後手は桂馬を拾えるから、虎向的には歓迎なんだろう。
じっさい、同飛、3八龍で飛車が死ぬ――が、あたしは悪いと思っていない。
4二と、2九龍、4一とは、むしろ穴熊好みの展開だ。
「3四歩」
この手をみて、虎向は姿勢をただした。
「楓はそれでいいって読みなのか」
「攻め合いなら自信があるぜ」
「俺もある。3九歩成」
3三歩成、2九と、同飛、3八龍。
あたしはお構いなしに4二とと入った。
虎向のやつ、ちょっとずつ手が遅くなってるな。
龍を見捨てて攻め合う順を軽視してたんじゃないのか。
2枚龍でも簡単に崩れないぜ、こっちは。
「このままだと先手のほうが速いなぁ」
「投了は24時間365日受け付けてるぜ」
「するわけないだろ。決勝で兎丸が待ってるからな」
虎向は持ち駒の桂馬を手にした――なるほど、その手があったか。
パシリ




