258手目 違いの分かる男
「そこまでだ」
ふりかえると、狩衣を着た少年がこちらを見ていた。
あれは……葦原だったか。出雲が紹介してくれたS根の2年生だ。
ところが、出雲と少名の姿は見えなかった。俺は、裏見の犬の件を問いただした。
「それについては謝罪させていただきます」
葦原はそう言って、ていねいに頭をさげた。
「いや、謝罪とかじゃなくて、今すぐここに連れて来てくれ」
若干きつめに言うと、葦原は俺の背後を扇子で指し示した。
「すでにお返ししてあります」
「おいおい、冗談は……ん?」
うしろに気配を感じた俺は、顔をそちらにむけた。
すると、ふさふさした物体にいきなり飛びかかられた。
「ワン! ワン!」
「こらッ! 鼻先を舐めるなッ!」
俺はナルを引き離して、ハンカチで顔を拭いた。
「くそぉ、なんで俺ばっかり……」
「とはいえ、これで一件落着しましたね」
つじーんはそう言って、ホッとした表情だった。
「まだ落着してないぞ。ナルと裏見の関係をだな……あれ?」
俺は、あたりをキョロキョロした。
「ナルは?」
「ワン! ワン!」
「おまえじゃない。人間のほうだ。つじーん、ナルはどこへ行った?」
「おかしいですね。さっきまでそこにいましたけど」
なんだなんだ、犬が見つかったら、いきなりとんずらか。あやしい奴だな。
ほんとは少名と組んで、俺たちをからかってたんじゃないのか。
いぶかしがる俺とつじーんに、葦原はもういちど声をかけた。
「少名がご迷惑をおかけしました。これで満足していただけましたか?」
「まあ、金をよこせと言うつもりはないが……」
本人に謝って欲しかったけどなぁ。
俺がそんなことを思っていると、犬のナルはタマさんに駆け寄った。
「ワン! ワン!」
「シッ、シッ、わんころが吠えるでない」
「ワン! ワン!」
「んにゃー、アイちゃん、助けてくれぞな」
タマさんはよっぽど犬が嫌いなのか、猫山さんのうしろに隠れた。
ナルは、猫山さんに吠え掛かった。
「うるさいですね。しっぽを掴んで『キャン』と言わせますよ」
「そこのふたり、吠え掛かられる理由があるのだろう?」
葦原は、いきなり猫山さんたちに食ってかかった。
高校生が年上にタメ口はダメだろ。
タマさんと猫山さんの年齢は知らないが、すくなくとも高校生じゃないはずだ。
猫山さんは微笑むような表情をやめて、真顔になった。
「はて……なんのことでしょうか」
「とぼけても無駄だ」
葦原は扇子をひらいて、口もとをおおった。
「おまえにはS根の高校もずいぶんやられている。ここいらで反省してもらおう」
俺は状況が掴めなかった。つじーんも、
「剣ちゃん、なにが起きてるんですか、これ?」
と質問してきた。俺が知りたいくらいだ。
葦原と猫山さんのあいだに、なにかトラブルでもあったのか。
「反省、と言いますと?」
猫山さんも、とぼけたような感じで問い返した。
「ひとまず、備品は全部返してもらう」
葦原は断固とした口調で、そう答えた。
猫山さんは口の端をゆがめて、不気味な表情をつくった。
「将棋の負けは将棋で返さないといけないと思いますよ。ねぇ、タマさん?」
「そうじゃ。将棋の負けは将棋で取り返す以外にないぞい」
ふたりはそう言って、ニャハハハと笑った。
コミカルな雰囲気とはうらはらに、不穏な空気が流れ始める。
「なるほど、そう来るか……では、お望み通り」
葦原はふところから古銭をとりだして、猫山さんに表か裏かとたずねた。
「表で」
チャリーンと、古銭は宙を舞った。
葦原は、扇子の先で器用に受け止めた。
「裏。私の先手だ。7六歩」
ちょ、ちょっと待て、この流れはッ!
タマさんはメイド服のまま、戦隊モノの怪人のようなポーズをとった。
「受けて立ちますよ。3四歩」
将棋で決着をつけるのかよ。そりゃないだろ。
2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金。
「け、剣ちゃん、2局目が始まっちゃいましたよ。しかも横歩です」
目隠しでも横歩なのは分かる。問題は、この勝負の目的がなんなのかってことだ。
S根の高校は猫山さんに借りがあるみたいだが、中身がさっぱり分からなかった。
2四歩、同歩、同飛、8六歩、同歩、同飛、3四飛。
「剣ちゃん、止めないんですか?」
「……ほうっておこう」
「なんだか険悪な雰囲気ですよ? 放置はマズくありませんか?」
俺は、つじーんの耳元に口を寄せた。
「S根の実力をみる、いい機会だ。あとで比呂の月代に教えてやったらよろこぶ」
「剣ちゃん、なかなかワルですね」
「それに、裏見も解説で呼ばれてるから、裏見に教えてもよろこばれる」
「そっちがメインな気もしますが……ま、いいです」
メインだろうがサブだろうが、良かろうものは良かろうだ。
局面はどんどん進む。
3三角、3六飛、8四飛、2六飛、2二銀、8七歩、5二玉。
「後手は流行りの5二玉〜7二銀型っぽいですね」
つじーんも、将棋の内容に集中し始めた。
「5八玉」
葦原は扇子で顔をあおぎながら、王様をあがった。
先手はオーソドックスに組みそうだな。
7二銀、3八金、9四歩、4八銀。
「ほほぉ、手堅いですね。もっと遊ばれるかと思いました」
猫山さんはそう言って、くちびるに指をそえた。
「おまえの実力は分かっている」
「ニャルほど……では、9五歩で」
猫山さんは端を詰めた。
この手を見て、つじーんは、
「そういえば、猫山さんって強いんですか?」
と尋ねた。
「市内の名人戦で姫野先輩に負けてなかったか」
俺は昔の対局を思い出した。
3六歩、7四飛、3五歩。
「姫野先輩に負けですか……なんとも言えませんね。姫野さんも県竜王経験者ですし」
そうなんだよな。
姫野先輩に負けたからと言って、弱いとは言えない。
それに、あのときの姫野先輩は、猫山さんをずいぶん高く買っていた記憶がある。
手抜かれたとか言ってなかったか。でも、普通は手抜かないよな。
2五歩、同飛、7六飛、7七金。
「松平さん、時間を計っていただけませんか?」
猫山さんに頼まれて、俺は時間を計ることになった。
「何秒ですか?」
「20秒で」
これまた短いな。まあ、目隠しでも手数が長いと時間が掛かる。
「じゃ、次の手から計りますね」
「3六飛です」
猫山さんは飛車をスライドさせた。過激だ。
というのも、これは3七金で飛車が死んでいる。
「3七金」
「2四歩」
なるほど、打ち返せば助かってるわけか。
「これは両者指し慣れてる感があります」
つじーんの言う通りだった。
「だけど、県代表相手じゃ猫山さんがキツいだろう」
「それはそうでしょうね。葦原くんは、ちょっと大人気ないと思います」
だよなぁ。猫山さんは、八一で働いている以外には素姓がよく分からない。
裏見は女子大生なんじゃないかって言ってたが、それも証拠はない。
高卒フリーターかもしれないし既婚者アルバイターかもしれないし、全然不明だ。
「1、2、3、4、5、6、7」
「2八飛」
「3五飛。これで歩得です」
葦原はパチリと扇子を閉じた。
「4六歩」
「深謀遠慮ですね」
つじーんは、4六歩をそう評価した。
俺もうなずいた。
「4七銀とあがりたいようにみえるな」
「先手はバランスが取りにくいんじゃないですか。後手がうまく指してるような」
「どうだろうな。後手は歩得だが、すぐに攻める順はないぞ」
つじーんは「なるほど」と言って黙った。
俺も続きを考えながら秒を読んだ。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「4四角」
猫山さんは角をあがった。この角は目標になりそうだ。
4七銀、2五飛(飛車ぶつけ)、2七金(交換拒否)、2三銀。
「6六歩」
葦原は盛り上がる方針らしい。
「葦原くんは、横歩にそうとう自信があるみたいですね。大駒交換が起きたら、先手は死にますよ。8八の角も今は働いてませんし、大局観が問われそうです」
つじーんの解説に俺もうなずきながら、
「後手にネックがあるとすれば、手数をかけたわりに駒組みが進んでないことだな」
と指摘した。実際、次の手がむずかしいはずだ。
「1、2、3、4、5」
「8五飛」
「逃げたな。3六金」
んー、こうなると、先手も問題ないような気がしてきたぞ。
やっぱり4四の角が狙われてる。
「1、2、3、4、5、6」
「6二玉。これで50手ですか」
猫山さんがちょうど50手目を指したところで、裏見の声が聞こえた。
「松平、つじーん、何してるの?」
ふりかえると、大通りのほうから裏見たちが歩いてくるのが見えた。
俺は秒読みの時計から目を離さないようにしつつ、
「もう買い物は終わったのか?」
とたずねた。裏見は両手を腰にあてて、
「とっくに終わったわよ。松平たちの姿が見えないから捜してたの」
と怒った。
「あとで弁明する。ちょっと待ってくれ。1、2、3、4、5、6、7、8、9」
……………………
……………………
…………………
………………ん?
「葦原、時間切れだぞ」
俺はびっくりして、葦原に忠告した――葦原の姿はなかった。
「……あれ? 葦原? どこ行った?」
「猫山さんとタマさんもいませんよ」
つじーんはそう言って、猫山さんたちがいた場所を指差した。
たしかに誰もいない。
俺とつじーんはあたりを捜したが、どこにも見つからなかった。
裏見は怪訝そうな顔をした。
「猫山さんがいたの?」
「ああ、ついさっきまで将棋を……おかしいな」
「将棋の秒読みのモノマネなんて、細かすぎてだれも分からないでしょ」
「いや、ほんとにいたんだ」
俺が釈明しかけたところで、ナルは裏見の足もとに駆け寄った。
「よしよしよし。松平、公園にもどってみんなでお菓子を食べましょう」
「あ、ああ……」
裏見はナルにリードをつけなおし、公園へもどって行った。
俺とつじーんは、最後尾についた。
「俺たち、さっきまで将棋を観戦してたよな?」
「ええ、してたはずですよ」
だよな……どうなってるんだ、これ。
○
。
.
「ということがあったんだ」
俺はコーヒーのストローをつまみながら、先日の出来事を説明した。
ここは駒桜市の将棋指しがつどう喫茶店『八一』だ。
ひとの良さそうなオーナーは、今日も忙しそうに働いている。
それを手伝っているのは、メイド服を着た猫山さんだった。
「だから、夢でも見たんでしょ」
裏見はあきれながら、ホットコーヒーを飲んだ。
「つじーんもその場にいたんだ。なあ、つじーん?」
「はい、僕もちゃんと見ました」
裏見は、ふたりの夢がシンクロしたんじゃないかと言った。
そっちのほうがオカルトだろ。
ああでもないこうでもないと、話がはずむ。すると、裏見のよこに座った神崎が、
「幻術でも使われたのではないか」
と割り込んだ。
「幻術ねぇ……ところで、神崎はなんでここにいるんだ?」
「拙者がいては、いかんのか」
「いや、そういうわけじゃないが、おまえは住んでる町がちがうだろ」
俺の指摘に対して、神崎は、
「この抹茶けぇきを食べに来たのだ。裏見殿に紹介されて、気に入ってしまった」
と白状した。なるほど、日替わりケーキを食べに来たのか。
「神崎もなんだかんだで女子高生なんだなぁ」
「うむ、女子高生でなければ女子高生に変装するのはむずかしい」
そういうことを言いたかったわけじゃないんだが――俺は続きを自重した。
裏見はさらにあきれた様子で、
「雑なカテゴライズよね。制服を着た女の子は全員『女子高生』っていうのも」
と嘆息した。
「俺は裏見とそのほかの女子高生を、100m先でも正確に見分けることができるぞ」
「嘘おっしゃい。ポニテのうしろ姿だと分かんなくなるでしょ」
「否、拙者が裏見殿に変装したとき、こやつは正確に見抜いてきたぞ」
「やだ////そんなにちゃんと見てるんだ////」
「うむ、『胸のかたちがちがう』と言っていた」
「死にさらせゴルァ!」
「ごふぅ!?」
松平剣之介 再起不能
場所:H島市の商店街
先手:葦原 貴
後手:猫山 愛
戦型:横歩取り後手8四飛
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛
▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩 △5二玉 ▲5八玉 △7二銀
▲3八金 △9四歩 ▲4八銀 △9五歩 ▲3六歩 △7四飛
▲3五歩 △2五歩 ▲同 飛 △7六飛 ▲7七金 △3六飛
▲3七金 △2四歩 ▲2八飛 △3五飛 ▲4六歩 △4四角
▲4七銀 △2五飛 ▲2七金 △2三銀 ▲6六歩 △8五飛
▲3六金 △6二玉
まで50手で対局者行方不明




