257手目 ニャンともまあ、この一手
「剣ちゃん、この位は確保できてませんよ」
つじーんが、俺のとなりで囁いた。
「だな……3一角〜6四銀がある」
このへんに気づかないってことは、タマさんも高段者ってわけじゃなさそうだ。
俺たちは、ナルの実力に期待する。
「3一角」
よしよし、それでいい。
タマさんは困ったような顔をして、
「うむむ、そのような手があるのか。見落としておったわい」
と白状した。が、すぐに機嫌をとりもどした。
「とはいえ、後手が優勢になったわけでもあるまい。7四歩じゃぞ」
いけいけどんどんか。めんどくさいことになった。
「同歩、同銀は先手の思う壺だ。無視して6四銀か?」
「ですね。僕だったら、そう指します」
俺とつじーんは意見が一致した。
一方、ナルは選択に悩んでいるようだった。
「んー、むずかしいな……」
「考えすぎじゃぞ。30秒経っとる」
「そうか? 俺の感覚だと経っていないんだが?」
「わんこの感覚なんぞ、信用できんわい」
「猫だって信用できないだろ……おい、そこの変な服の女」
ナルは猫山さんに声をかけた。
「えーと、なんて言ったか、人間が時間をはかる道具があるだろ」
「時計のことですか?」
「それだ。それで30秒計ってくれ」
「了解です」
よくみると、猫山さんは左手首に時計をしていた。
女性向けの小さいやつだ。
「じゃあ、今回は10秒以内に指してください。1、2、3、4、5……」
「6四銀」
同銀、同角(あっさり交換したな)、8五桂。
「この8五桂は痛いじゃろ。降参するなら今のうちぞい」
「駒が偏りすぎだ。4四香」
ナルは香車を打って、4七の地点に狙いを定めた。
「これはいい手だな。先手は右辺の駒組みが微妙だ」
「しかし、4六歩一発で止まりますね」
つじーんの指摘は、もっともだった。俺は続きを考える。
後手も、簡単に攻められるわけじゃないんだよな。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「4六歩じゃ」
ナルは黙って8九とと寄った。
この手をみて、タマさんは両腕を着物のそでにさしこんだ。
「ふぅむ、前門の野良猫、後門の飼い猫とは、このことじゃ」
「なんだ、それは?」
「表玄関にも裏口にも猫がいっぱいいて嬉しい、という意味じゃぞ」
ちがうだろ。もとが間違ってるうえに、現局面のたとえになってない。
「おまえ、なかなか学があるな」
「ニャハハハ、だてに長生きしておらんわい」
ナルも騙されるなぁ。中学生レベルの知識だぞ。
「1、2、3、4、5、6」
「っとっと、4八飛」
この手に、俺もつじーんも反応した。
「危ないところにスライドしましたね」
「ああ、一目7五角の覗きがある」
「4四の香車を取り切る自信があるんでしょうか?」
「1、2、3、4、5、6、7」
「8七歩」
ん、なかなかの手だ。同金はかたちが崩れる。
「1、2、3」
「6五歩じゃ。どいてもらうぞい」
あ、催促した。
「7五角」
ナルが角をあがると、タマさんは「ん?」と声を漏らした。
「し、しもうた……飛車に当たっておる……」
見落としか。ナル、一気に決めろ。
「うむむむ、3八飛は4七銀があるのか。きびしいのぉ」
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「6六銀ッ!」
8八歩成、7七金直、8四角、5七角、9五角。
いいぞ。これは明らかに優勢だ。先手はすることがほとんどない。
「うーむ、アイちゃん、バトンタッチ」
「拒否します」
「殺生じゃのぉ。保健所につれて行かれても助けてやらんぞ」
「1、2、3、4、5」
「えーい、4九玉じゃ」
タマさんは王様を逃げた。
「つじーんなら、どう寄せる?」
「無理して飛車角を活用することもありませんし、と金を寄りますか」
「7九と?」
「あるいは、8七銀か7八銀で足します」
なるほど、銀を足すほうが良さそうだ。
7九と寄〜7八と寄は、金を1枚入手しただけで消えてしまう。
パシリ
ふりかえると、盤上に7八銀が打たれていた。
「取りますかね?」
つじーんは、小声でたずねた。
「俺なら取らないな。同金、同と、同飛、4七金がある」
【参考図】
角当たりだが、狙いはそっちじゃない。4六香〜5七金だ。
「ですね。となると、取らないでなにかべつの手を……」
「まあ、タマさんなら取るかもしれないが……」
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「6四歩ッ!」
おっと、タマさん、取らなかった。
「ニャハハハ、熱い戦いになってきたわい」
「それは、なんだ? 6三銀と突っ込む気か?」
「わんころには教えんぞ。教えて欲しかったら、いつもの芸をやってみぃ」
「芸?」
「お手、じゃ」
タマさんは、右手をさしだした。すると、ナルはそれに右手を合わせた。
やるのかよッ!
「し、しまった、反射的につい……」
「1、2、3、4、5、6、7」
「7九と寄だッ!」
6五銀、6九と、7三歩成。
放置か? それとも、同桂、同桂成か?
「つじーん、放置するか?」
「一回は6七銀成が効くんじゃないですか? 8二と、5七成銀は後手優勢ですよ」
「優勢っていうか、勝勢まであるな」
「1、2、3、4、5」
「6七銀成」
いいぞぉ。こいつ、なかなかやるな。
「ふぅむ、同金じゃ」
ナルは7三桂と手をもどした。タマさんは7四銀と出る。
「同桂成としなかったな」
「多分、遅いとみたんでしょうね。直接的に6三歩成だと思います」
この局面は、いろいろとありそうだ。
6三歩成のまえに、なにか動きたい。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「5九と」
「ん? と金捨てか?」
タマさんはそう言って、首をかしげた。
「同玉……8五角が王手になってしまうのぉ……」
「1、2、3、4、5」
「こっちに逃げるぞい」
タマさんは3八玉と上がった。
このあたりは、素人じゃないんだよな。手の良し悪しにムラがあるタイプか。
「逃げるのか。だったら8五桂だ」
「6三歩成じゃぞ」
ナル、取るなよ。取ったら加速するぞ。
「後手は、飛車先がなかなか空きませんね」
と、つじーん。8六角とも取れないんだよな。取ると8三歩がある。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
パシリ
これだな。
この手の狙いは、いきなり4七金じゃなくて、5八と、同飛、4七金だ。
「後手もちょっと危なくないですかね?」
「そうか? なにかあるか?」
「今は2筋に脱出口がありますが、2二銀、同金と封鎖されると厄介ですよ」
なるほど、2二同金で壁金になると、金銀だけで寄ってしまう。
じつは後手、そんなに良くないのか?
「1、2、3、4、5」
タマさんは、と金をスッと5二に入った。
同飛、6三銀打、5八と。
「あれ? 危なくないですか? これ詰めろじゃないですよね?」
たしかに、詰めろじゃない。
それどころか、下手すると5七〜6六〜7五のルートで抜けられる。
「1、2、3、4、5」
「これは逆転したんじゃないかのぉ。5二銀成じゃ」
ナルは29秒まで考えて、同玉とした。
そこはノータイムで指したほうがいい。タマさんに考える時間を与えたらダメだ。
「8二飛」
タマさんは考えなきゃダメだろ。
ふたりとも、時間の使い方に慣れていない感じだ。縁台将棋派か?
「6二歩だな」
ナルは15秒ほど考えて、王手を受けた。
「えーと、後手、詰みかけてませんか? けっこうあやしいですよ?」
つじーんはそう言って、不安の表情を浮かべた。
「例えば?」
「5三銀に4一玉と逃げると、8一飛成で詰みます」
【参考図】
「5一合駒、同龍、同玉、5二金までです」
ん、そっか、6二の歩を角が支えてても詰むのか。
「じゃあ、5三銀に同玉だと?」
「そっちがかなりややっこしいんですよね……詰むような詰まないような……」
「1、2、3、4、5」
「詰まんから受けるぞ。5八飛」
タマさんは、詰まないと判断したらしい。5八のと金を払った。
「4七銀だッ!」
ナルは銀を滑り込ませた。
「なんか負けにした気がするのぉ……2八玉」
「5八銀不成」
これは詰めろだ。
3八金、同玉、4七桂成(銀成だと詰まない)、2八玉、3八飛まで。
が、後手はどうなんだ? 5三銀、同玉、7五角の筋があるぞ?
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「もう分からんから突っ込むぞい」
タマさんは29秒ぎりぎりで、5三銀と打った。
同玉、7五角、6四銀(合駒が金銀飛なのは痛い)、同角、同玉。
「うーむ……いろいろありそうじゃのぉ……」
タマさんは目をほそめて、盤面をみつめた。
俺は冷や汗が出てくる――これ、詰んでないか?
「7三銀打がありますね」
つじーんも好手に気づいた。
一見、6五金から上部を押さえたくなるが、それは5三玉と戻られて詰まない。
が、7三銀で角道を遮断すれば、5三玉に6二飛成で詰む。
タマさんは腕組みをしたまま目をつむって、体を左右に揺らした。
「うにゃーん……ここはやはり金を打って……」
そうだ。金を打て。6五金だ。
「1、2、3」
パチリ
指をはじく音。タマさんは右目を開けて、ニャハっと笑った。
「おお、そうじゃ、こっちのほうがいいぞい」
パシリ
うぉおおおおおおおッ! マズいぞッ!
一方、ナルは事態の深刻さに気づいていないらしく、
「銀打ち?」
と驚いた様子だった。これはいかん。
「1、2、3、4、5、6」
「同角」
同銀不成、同玉、6四角、同玉、6二飛成。
これは詰んでるくさいッ!
頭をかかえる俺とつじーんをよそに、対局者は正反対の会話をしていた。
「切れたような気がするのぉ」
「6三角だ。投了するか?」
「もうちょっと指すわい。7三銀」
7四玉、7五歩、同玉。
「んにゃ?」
「なんだ? 猫式の投了か?」
「これ、詰んどらんかのぉ」
ナルは盤面を見返した。
「どこがだ?」
「ほれ、ここに金を置いて」
7六金打、7四玉、8五金、6五玉。
「5七か7七に桂馬を置いたら、逃げる場所がないぞい」
ナルは犬歯をのぞかせて、眉毛をピクピクさせた。
「詰んでいる……だと?」
「ニャハー、わしの勝ちじゃ!」
漫才やってる場合じゃないだろ。俺はベンチから立ち上がった。
「次は俺と勝負だッ!」
「ニャーにを言うとるんじゃ。一発勝負に決まっておろう」
「そういう約束はしていない」
「暗黙の了解という言葉を知らんのか、最近の人間は」
俺とタマさんが揉めていると、ナルも立ち上がって、
「時間がない。実力行使で吐かせよう」
と言い始めた。
「おぬしはなにを言っておるんじゃッ!?」
「どこから噛んで欲しい? 前足か? 後ろ足か? しっぽはないから許してやるぞ」
「将棋で負けたから暴力などと、畜生の所業じゃ」
「もとから畜生だ。問題ない」
おいおいおい、これは逆の意味でマズい。
悲鳴をあげられたら、警察が飛んできて全員捕まる。
「ナル! 落ち着け! 理性的に話し合おう!」
「安心しろ。野良猫を追っ払うのは得意なんだ」
なにわけの分からないことを言ってるんだ。
俺が力づくで止めようとした瞬間、背後で鋭い声が聞こえた。
「そこまでだ」
場所:H島市の商店街
先手:タマ
後手:ナル
戦型:矢倉模様の力戦
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △5二金右
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △8五歩 ▲7七銀 △3二金
▲5八金右 △7二銀 ▲7八金 △8三銀 ▲7九角 △8四銀
▲6八角 △6四歩 ▲6七金右 △6五歩 ▲5七銀 △9五銀
▲9六歩 △8六歩 ▲同 歩 △6六歩 ▲同銀右 △8八歩
▲9七桂 △8九歩成 ▲9五歩 △9九と ▲7五歩 △4二銀
▲6四歩 △5三銀 ▲6五銀 △3一角 ▲7四歩 △6四銀
▲同 銀 △同 角 ▲8五桂 △4四香 ▲4六歩 △8九と
▲4八飛 △8七歩 ▲6五歩 △7五角 ▲6六銀 △8八歩成
▲7七金上 △8四角 ▲5七角 △9五角 ▲4九玉 △7八銀
▲6四歩 △7九と寄 ▲6五銀 △6九と ▲7三歩成 △6七銀成
▲同 金 △7三桂 ▲7四銀 △5九と ▲3八玉 △8五桂
▲6三歩成 △3五桂 ▲5二と △同 飛 ▲6三銀打 △5八と
▲5二銀成 △同 玉 ▲8二飛 △6二歩 ▲5八飛 △4七銀
▲2八玉 △5八銀不成▲5三銀 △同 玉 ▲7五角 △6四銀
▲同 角 △同 玉 ▲7三銀打 △同 角 ▲同銀不成 △同 玉
▲6四角 △同 玉 ▲6二飛成 △6三角 ▲7三銀 △7四玉
▲7五歩 △同 玉 ▲7六金打 △7四玉 ▲8五金 △6五玉
▲5七桂
まで109手でタマの勝ち




