230手目 三年越しの思い
※ここからは、吉良くん視点です。
ああ……つまんないな……。
俺は川の土手に寝転んで、夕焼け空を眺めていた。香宗我部先輩をまけたのはいいが、特にすることもなく……いや、することがなかったってのは、ウソだ。捨神のいる天堂高校をこっそりのぞいてみたが、将棋部にはだれもいなかった。正確に言うと、あいつがいる高校には、将棋サークルがあるだけで、部室はないらしい。
捨神とは、中学の全国大会以来、何度か会っている……が、どうなんだろうな。すべて全国大会だった。親しい仲とは、言えそうもない。対戦成績は、俺の1勝0敗――47都道府県が参加する大会で、そうそう何度も当たるはずもなく……つまんないな。
6月の温かな風が吹いた。K知の海風とは違う――そう思ったときだった。
「あれ? 吉良くん?」
俺は芝生から背をはなして、起き上がった。
首だけでふりむくと、そこには……白髪の男が立っていた。
そのとなりには、ずいぶんとお洒落した女も立っていた。
「吉良くん……だよね?」
「捨神、なんでここにいるんだ?」
そんな質問をした自分が、バカバカしかった。
捨神が答えるよりもさきに立ち上がって、ポケットへ手を突っ込み、
「日日杯の下見に来ただけだ」
と、自分のほうから答えた。
捨神は、ようやく合点がいったらしく、
「ああ、そう言えば、県外のひとは下見があるんだったね……でも、会場はH島市内のホテルじゃないの? 僕の招待状には、そう書いてあったけど?」
と、次の疑問をぶつけてきた。
「香宗我部先輩と磯前先輩に、駒桜までムリヤリ連れて来られた」
「アハッ、そうなんだ」
捨神は、妙に明るい笑顔を浮かべて、それから真顔になった。
「てっきり、ここで決着をつけようって言うのかと思ったよ」
「……」
「……」
スッと風が吹いた。捨神のとなりにいた女が、なにか言おうとした。
俺はそれを遮って、捨神に話しかけた。
「この3年間、どうしても気にいらないことが、ひとつだけあった……ひとつだけ、な」
「僕について?」
俺は、首を縦に振った。捨神は、またおどけたような顔で笑った。
「まさか、となりに美人の女の子がいるから、じゃないよね?」
「ちげぇよ、茶化すな……3年前の全国大会のことだ」
捨神の顔色が変わった。あせっているわけではなく、「ああ、やっぱりね」というような感じだった。俺は、どう切り出したものか迷った――捨神の野郎、なんでこんな高校生離れした落ち着きが出てるんだ。おかしいだろ。なにがあった?
俺は地面を軽く蹴って、先を続けた。
「おまえ……あのとき、わざと負けただろ?」
答えは、すぐには返って来なかった。イエスでもノーでもないような雰囲気だった。
「どうして、そう思うの?」
「あんな県代表の将棋があるかよ」
「アハッ、たしかにあれは、無様な棋譜だったね。でも、わざと負けたわけじゃないよ」
「体調不良だったのか?」
「さあ……どうだろうね」
俺は舌打ちした。
「とにかく、わざと負けたわけじゃ、ないんだな? 将棋の神様に誓って言えるか?」
「言えるよ。でも、どうしてそこにこだわるの?」
俺は、捨神の手前、正直に答えたものかどうか、迷った。
「……西日本の高校将棋界で、俺とおまえの序列がどうなってるか、知ってるか?」
「全然」
だろうな。こいつは、そんなことを気にしそうにない。そして、それが腹立たしい。
「いい勝負、だとさ」
「アハッ、そうなんだ……あれ以来、全然指してないのにね」
俺はポケットに手を突っ込んだまま、これまで考えてきたことをまとめようとした。
だが、その考えは、いくつかの疑問へと、散り散りになってしまった。
「なあ……あの3年前の対局は、いったい何だったんだ? 将棋ってのは、盤上で格付けされるんじゃないのか? あの対局がなかったことになってるのは、なぜなんだ?」
捨神は微笑んだ――目が笑ってなかった。
「僕はあのとき、わざと負けたわけでも、体調不良だったわけでもないよ。だから、3年前の対局をそういうふうに見てるひとには、ちゃんと反論してくれていいから。あれは、捨神九十九の惨敗局だった、ってね」
「ちげぇよ。俺がおまえより上だってことを、認めて欲しいわけじゃないんだ。そうじゃない……そうじゃなくて……将棋は、盤上で決着をつけるもんだろう。周囲の評価もお互いの序列も、関係がない。違うか? 大山康晴より升田幸三のほうに人気があっても、大山が勝てば大山がタイトルをとる……これが、将棋のいいところじゃないのか?」
「それは認めるよ。これでも、ピアノが趣味だからね。芸術の世界では、結局、審査員の評価がすべてなのさ。スポーツでも、そうだろう? マラソンみたいな、純粋に記録狙いの勝負と、フィギュアスケートみたいな、審査員の評価がかかわってくる勝負とでは、根本的になにかが違うよ……なにかが、ね」
「将棋は、どっちだ? 前者じゃないのか?」
「もちろん」
「だったら、どうしてあの対局は、なかったことになってるんだ?」
風が吹いた。捨神は、しばらくのあいだ、なにも答えなかった。
「俺の趣味がダンスだっていうのは、知ってたか?」
「……今、初めて聞いたよ。プロを目指してるの?」
「いや……ただの趣味だ」
俺は、急に昔話がしたくなった。ためらいつつ、くちびるを動かした。
「昔、小学校で、ダンスのコンテストがあった。学校の代表を決めるコンテストだった。最後、俺ともうひとり、ダンス教室に所属してるやつが残った。数人の審査員のまえで、テーマ曲を踊った……俺の負けだった……が……」
「結果に納得がいかなかった。審査員には、ダンス教室の先生がいた……かな?」
俺は、うなずいた。
「そのとき、俺ははじめて、将棋の素晴らしさに気付いた。審査員がいない競技の素晴らしさに……もちろん、ダンスが嫌いになったわけじゃない。今でも好きだ。ただ……」
だんだんと、周囲が暗くなっていく。最後の夕焼けが、西の空に沈みかけていた。
「吉良くんは、どっち? あの対局で、僕らは決着がついたのかな?」
「……いや、ついてない」
「さっきと言ってることが違うね。どうして?」
俺は、タメ息をついた。心の底からのタメ息だった。
「先月、おまえから電話をもらったよな」
「ああ、あのときは、ありがとね。おかげで……」
「あの電話を聞いて、なんとなく分かった気がする……おまえは、3年前と別人だ」
捨神は、「へぇ」と言って、それからしばらく黙った。
「名前が変わったってこと?」
「そういう些末なことじゃなくて……そういや、なんで名前が変わったんだ? おまえ、捨神一じゃなかったか? いつから九十九になった?」
捨神は、悲しげに笑った。
「世の中には、いろいろあるんだよ、いろいろ、ね」
俺は、なにか吹っ切れたような気がした。自分だけ3年間も悩んでいて、バカみたいだなと思っていた。だけど、捨神は捨神で、いろいろ悩んでいたんだと分かった。俺の場合は将棋だが、捨神は、人生の大切な部分に悩んでいたんじゃないだろうか。
「……仕切り直しだな」
俺はポケットから手を出し、こぶしをかかげて、親指を下に向けた。
「日日杯で、おまえと決着をつける……中四国最強は、俺だ」
「望むところだよ」
俺は微笑んで、土手をあがり、駅へと続く道を選んだ。
駅では、香宗我部先輩たちが、心配そうに待っていてくれた。
○
。
.
「で、捨神に挑戦状叩きつけてきたってわけ?」
瀬戸内海の潮風が、私の鼻をくすぐる。
おなじ風に吹かれながら、義伸は防波堤に寝転がっていた。
「それ以外、話すことなかったんで」
ふーん……よく分かんないね、男ってのは。なにがしたいのやら。
っと、手応えあり。私はリールを巻きながら、となりの麦わら帽子に声をかけた。
「ここは、よく釣れるね。魚住のとっておき、ってやつ?」
麦わら帽子の少年は、釣り竿を持ったまま鼻の下をこすって、
「へへ、とっておきは、磯前の姉ちゃんでもヒミツだよ。ここは次点かな」
とごまかした。ま、そんなもんか。私も、とっておきは誰にも教えていない。
一方、折り畳み式の椅子に座った忠親は、
「釣りってむずかしいんだな……一匹もかからんぞ」
とぼやいた。魚住は笑って、
「瀬戸内海で一匹も釣れないとか、香宗我部のあんちゃん、相当ヘタだね」
と毒づいた。ま、この波で釣れないってことはないよね。
リールを巻き終えると、カワハギが顔をのぞかせた。なかなかのサイズだ。
私は針をはずして、クーラーボックスに魚を放り込む。
「義伸は、釣らないの?」
「遠慮しときます」
損だよ、損。海が、こんなに綺麗なのに。
私は、四国を遠望するように、ふたたびルアーを飛ばした。
なにがあったか知らないけど――静かな闘志を感じる。
くわばら、くわばら。




