193手目 感想戦後の感想戦 佐伯宗三の場合
急遽、将棋盤が用意された。
私は頭を将棋モードに切り替える。
佐伯くんは駒を準備しながら、
「ポーンさんも、手伝ってくれる? 記憶が曖昧かもしれないから」
とお願いした。
「Na, natürlich」
私と席を交代したエリーちゃんは、スカートをなおして腰かけた。
ちょっと緊張している様子。
「ポーンさんが先手で、7六歩だったかな?」
「そうですわね」
ふたりは、ぱらぱらと華麗に棋譜を再現した。7六歩、3四歩、2六歩、4四歩、2五歩、3三角、4八銀、3二銀、5六歩、4三銀、6八玉、6二銀。
「右玉模様なので、7八銀から銀冠を目指しました」
ポーンさんは、7八銀と上がった。
私はメモを取りつつ、
「穴熊にはしないの?」
と尋ねた。穴熊は最強だって、カンナちゃんも言ってたわよ。
「そのまま居飛車で指されたとき、メリットが少ないように思います」
ふぅん、そんなもんかしら。佐伯くんは6四歩と突いた。
「右玉に銀冠も珍しいよね。本譜は一直線で組み合い」
7九玉、6三銀、5八金右、7四歩、5七銀、3二金、3六歩、5二金、9六歩、9四歩、1六歩、7三桂。エリーちゃんは、角をカラ打ちした。
「5五角が、わたくしなりの構想です……おかしかったですかしら?」
「むずかしいね。パッと見、咎められそうだ」
佐伯くんは6二玉と上がった。6六歩、8一飛と進んで、完全な右玉になる。
エリーちゃんは6七金。ここで佐伯くんは、兎丸くんに向き直った。
「兎丸くんなら、ここからどう指す?」
「右玉は指しませんけど……7二玉ですか?」
「本譜は4五歩」
「3三角成なら同桂」
兎丸くんは、納得がいかないような顔をした。
「成らずに3七角だと、どうなるんですか?」
「それは本譜の進行だね。3七角、4一飛」
飛車を回るのか。エリーちゃんも少し考え込んで、
「対局中は、全然読んでいない手でしたわ」
と嘆息した。
「右玉っぽくはないよね。積極策だし。以下、7七桂だったかな?」
7七桂、7二玉、8六歩、8四歩、8九玉、1四歩、8七銀、4四銀、7八金。
「3五歩で開戦」
ポイントの局面っぽい。
いくら級位者でも、なんとなく分かる。
「同歩、同銀はないですから、2六角ですわ」
3六歩の取り込みに、エリーちゃんは3八飛と回る。
佐伯くんは、4三金左と上がった。
「そういう金上がりって、アリなの?」
私の質問に佐伯くんは、
「押さえ込みの方針。先手は行きがかり3六飛しかないけど、そこで3五歩〜3四金から飛車角の封印を狙うよ」
と言って、その通りに進めた。エリーちゃんは、ふたたび角をカラ打ちした。
「押さえ込まれると負けですから、勝負手ですわ。3七角」
こびんを狙う、ってやつかしら。
「ここで時間を使った記憶がある。3六歩〜3五銀が見えるけど……」
「3六歩の、なにがイヤなんですか?」
虎向くんの質問を受けて、佐伯くんは3六歩と黙って突いた。
エリーちゃんは2八角と引き、3五銀に6五歩と突いた。
虎向くんは、この手を見てうなずいた。
「6筋が厳しいんですね。でも、4六歩で止まりませんか?」
「同歩なら止まるけど、4六同銀、同銀、同角があるよ」
【変化図】
虎向くんは、うーんとうなった。
「10秒将棋なら、俺はノータイムで4五金です。2八角には、5六金、同金、4七飛成の強手がありますよね。5七金打or5七歩の受けは4八龍が激痛ですから、5七銀打と受けるんでしょうけど、さすがに後手持ちじゃないですか?」
「4五金には、2八角じゃなくて6四歩じゃないかな。4六金、6三歩成、同金、4六歩は角と金銀の交換だし、5四銀と逃げるのも、6三銀、同銀、同歩成、同金、6四歩で攻めが続くよね」
「ああ……確かに……となると、最初の4六歩が微妙ですか。本譜は?」
「本譜は6二玉」
「6四歩に7二銀と逃げる手を用意したよ」
ふぅん……私の棋力では、さっきからなにを言っているのか分からない。
静観しておきましょう。どのみち、棋譜を載せるスペースはないから。
「わたくしは、6五歩と突くしかありませんわ」
「取らないのは手待ちが難しいから、取るね。同歩」
6四歩、7二銀、7五歩、同歩。
「ポーン先輩、手がなくないですか? 歩切れですよ」
と高崎さん。エリーちゃんは7七の桂馬をつまんで、
「一応、これで繋がっています。6五桂、同桂に6六銀です」
先に桂馬を捨てるわけね。これは理解できた。
「6五桂を取られるまえに、ひと仕事するよ」
佐伯くんは、3六歩、2八角と下がらせてから、4六歩と突いた。
「取ると4七歩の垂らしから、6五銀、4八歩成があるのですよね。本譜はそのまま6五銀と取って、4七歩成でした」
細かい速度計算。
「ポーンさんは、そこで7四桂だったかな?」
エリーちゃんも同意して、7四桂と打ち込んだ。
ここまでは、先手がうまく攻めているように見える。
虎向くんもそう思ったのか、
「これ、5一玉、6三歩成、同金、9一角成ですよね。後手キツくないですか?」
と指摘した。エリーちゃんは、微妙な顔をする。
「やはり、そちらのほうがよろしかったですかしら?」
「え? そう進まなかったんですか?」
「本譜は5一玉、6三歩成、同金、8二角成です」
これには、その場にいたギャラリー全員が、しばらく考え込んだ。
最初に声をあげたのは、虎向くんだった。
「ああ、でも……そっか、9一角成には4八とがあるんですね。7九飛の逃げに3五銀と出れば、角筋と飛車筋が同時に通って、先手悪いように見えます」
「Genau。8二角成に4八となら、無視して7二馬、3九と6三馬と取り合えます」
「さすがに、対局者のほうが読んでますね。すみません。本譜のほうがいいです。本譜は8二角成、7三銀、7二馬みたいな感じですか?」
虎向くんの指摘した通りに進む。佐伯くんは、ピシャリと6二歩を打った。
「この手も、ちょっと怖いんだけどね。6四歩があるから」
佐伯くんの発言に、林家さんがコメントを入れる。
「でもこれ、6四歩、7四金、同銀、同銀で、先手が桂損してるでがすよ?」
「Ja, du hast Recht……その埋め合わせで、7四同銀に7三馬と引きました」
「7三馬……6五銀打で駒を使わせるんでがすね。そのあと3二金とか?」
林家さんの読みが正解で、3二金まで進んだ。
私は、みんなにどちらを持ちたいか尋ねた。
全会一致で後手持ちだった。
「後手持ちというか、すでに後手優勢だと思います、これ」
と高崎さん。
「そう? 飛車角の両取りになってるわよ?」
「どっちを取っても続かないですよ」
そんなもんかしら。高崎さん、もうちょっと詳しく説明して欲しい。
「ここ数手で、形勢をかなり損ねたことになりますわね」
エリーちゃんは、ため息をついた。
「僕も、手応えを感じたかな。みんなは、ここからどう指す?」
佐伯くんのクイズに、高崎さんは3五銀と答えた。
「いや、すぐに3五銀はヌルいぞ。5七と、同金としてから3五銀だ」
「ん……バカ虎、なかなかいい手知ってるじゃねぇか」
「だろ……って、そのあだ名はやめろッ! 俺は賢い虎だッ!」
はいはい、ストップ、ストップ。
一方、じっくりと考えていた兎丸くんは、
「7六桂と一回打っておきたいです」
とつぶやいた。佐伯くんも、これに同調する。
「先手は手がないからね。僕も7六桂と打っておいたよ」
「どういう意味があるんですか?」
と高崎さん。
「放置なら6六桂と追加するよ。次に7八桂成、同玉、5七と、同金、3五銀で勝ち」
「7八桂成のとき、同銀と取れないわけですか。本譜は?」
「わたくしもそれに気づきましたので、9八玉と早逃げしました」
いかにも逃げてるだけという感じの手だ。とはいえ、ほかに手はないっぽい。
「ここで、さっき虎向くんが言った5七と、同金、3五銀、4七歩」
佐伯くんは、さらさらと進めた。
虎向くんは、「終局が近いですね」と言いながら、6六桂を提案した。
「直接6六桂もあるとは思うけど、7九金でギリギリ凌いでるかも」
「じゃあ、4六歩と合わせますか?」
「先手は金があれば詰むから、金を取りに行ったよ。4二飛で」
ほほぉ、飛車を捨てるわけか。終盤は、駒の損得より寄せの速度ね。
「同金、同玉は詰めろがかかってしまうので、3三金と取りましたわ」
エリーちゃんは、しなやかに角を抜いた。佐伯くんは同金と取る。
このやり取りを見た林家さんは、首をかしげた。
「先手、安全になってませんかね? 評価値もどってるかもしれませんよ、これ」
「ここからは、僕もちょっと苦労したかな。ポーンさんは6三歩成を入れて、同銀、6九飛と反撃して来たからね。僕は6六桂と止めてから、同金、4七飛成、6七飛のぶつけに5八龍と入ったよ」
林家さんは、腕組みをして盤面を覗き込む。
「ははぁん、先手がまた寄り筋ですか。6八桂って打つくらいしかないですけど、同桂成とせずに9五歩があるんでがすね」
「そう、本譜も6八桂、9五歩、9一馬、6六銀、同飛、6八桂成」
「6八桂成って、なんでがすか? 同金で弾かれますよ?」
「同金に7七金」
「Hmm……この手が急所過ぎて、投了となりました」
えーと、これは同金とできないし、5八金なら8八金打、9七玉、8七金引まで。
詰めろを防ぐために7八銀打としても、6八金で一手一手。
パチパチパチ。
「と、こんな感じだったね。終局図は、印象に残ったよ」
ふむふむ、綺麗に寄せて勝ちました、と。
私はメモを取りつつ、次の質問をチェックした。
「トップスリーの個人的な情報も載せておきたいんだけど、ダメ?」
「どういう情報?」
「佐伯くんが将棋を始めたきっかけとか、そのへん」
住所や電話番号は載せないわよ。個人情報。
佐伯くんは、OKを出してくれた。
「佐伯くん、もともとはチェスプレイヤーなんでしょ?」
「そうだよ」
「始めたのは、いつ?」
「5歳」
早い。
「と言っても、本格的に指し始めたのは、小学校に入ってからかな」
「小学校って、ポーランドにもあるの?」
「うん、あるよ。もともとは小中合わせて8年だったんだけど、今は9年。日本と同じになってる。中学校を卒業したあと、こっちに引っ越して来たんだ」
「ポーランドから引っ越して来た理由は? ご両親は、日本にいないのよね?」
「パパとママも、そのうち日本にもどるから、僕だけ先に帰って来たんだ」
そういうことか。どうやら、佐伯くんの両親は、日本で結婚したあと、ポーランドへ赴任というかっこうになっているらしい。お父さんはポーランド人だから、実際には赴任というより里帰りよね。
「将棋を始めたのは、日本に来てから?」
「その数ヶ月前だね。日本のことをちょっと勉強してたんだ」
「ってことは、棋歴2年目か……よくそこまで強くなれたわね」
「チェスはずっとやってたから、結局は応用なんじゃないかな」
ふぅむ、そう言えばカンナちゃんも、将棋以外のボードゲームを知ってたわね。
シャラトレガンダだったかしら。検索しても出て来なかったけど。
「話は変わるけど、日本での生活は、どう?」
「最初は困ることも多かったけど、今は大丈夫かな」
「困ることって?」
「交通手段が分からないとか、夏が蒸し暑いとか、そういうこと」
「食べ物は?」
「それは、今でもあるね。ママの手料理を食べたい」
なるほど、なるほど。
私は調子に乗って、質問リストにないことも尋ねてみた。
「ちなみに、佐伯くんは、どんな女の子が好み?」
「え? 女の子の好み? ……それって、レポートと関係あるの?」
ないです。
「記事のストックは、多いほどいいからさ」
「理由付けがよく分からないけど……ママみたいなひとがいいかな」
マザコンかい。
「佐伯先輩、マザコンなんですか?」
そしてそれを口に出して言う虎向くん。
「え? どうして? そんなことないよ? 前から感じてるんだけど、日本人って、母親を大切にしなさ過ぎじゃない? ヨーロッパだと、母親を大切にするのは当たり前だよ。日本人女性は、そのあたりをどう思ってるの?」
どう思ってるって言われても、子供がいないんですが。
私が回答に四苦八苦するなか、林家さんはテーブルに寝そべった格好で、
「いくら子供でも、いい大人がべたべたしてきたら、気持ち悪くないですか?」
と言った。高崎さんは、うんうんとうなずいた。
「まあ、笑魅が母親って言う時点で、気持ち悪いけどな」
「は? 伊織ちゃんの子供には、パパがふたりいることになるんですかねぇ」
「は?」
ふたりは、ほっぺたの引っ張り合いを始めた。無視。
一方、エリーちゃんは、真っ青になっていた。
「そ、それは……日本人女性とお付き合いしたいという意味でしょうか?」
「うん、そういうことになるね」
チーン。あ、エリーちゃんが死んだ。
場所:2015年度春季団体戦 1回戦
先手:エリザベート・ポーン
後手:佐伯 宗三
戦型:右玉
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
▲4八銀 △3二銀 ▲5六歩 △4三銀 ▲6八玉 △6二銀
▲7八銀 △6四歩 ▲7九玉 △6三銀 ▲5八金右 △7四歩
▲5七銀 △3二金 ▲3六歩 △5二金 ▲9六歩 △9四歩
▲1六歩 △7三桂 ▲5五角 △6二玉 ▲6六歩 △8一飛
▲6七金 △4五歩 ▲3七角 △4一飛 ▲7七桂 △7二玉
▲8六歩 △8四歩 ▲8九玉 △1四歩 ▲8七銀 △4四銀
▲7八金 △3五歩 ▲2六角 △3六歩 ▲3八飛 △4三金左
▲3六飛 △3五歩 ▲3九飛 △3四金 ▲3七角 △6二玉
▲6五歩 △同 歩 ▲6四歩 △7二銀 ▲7五歩 △同 歩
▲6五桂 △同 桂 ▲6六銀 △3六歩 ▲2八角 △4六歩
▲6五銀 △4七歩成 ▲7四桂 △5一玉 ▲6三歩成 △同 金
▲8二角成 △7三銀 ▲7二馬 △6二歩 ▲6四歩 △7四金
▲同 銀 △同 銀 ▲7三馬 △6五銀打 ▲3二金 △7六桂
▲9八玉 △5七と ▲同 金 △3五銀 ▲4七歩 △4二飛
▲3三金 △同 金 ▲6三歩成 △同 銀 ▲6九飛 △6六桂
▲同 金 △4七飛成 ▲6七飛 △5八龍 ▲6八桂 △9五歩
▲9一馬 △6六銀 ▲同 飛 △6八桂成 ▲同 金 △7七金
まで108手で佐伯の勝ち




