188手目 赤き狼
対局が始まった。
私たちは、固唾を呑んで見守る。
「楓っちの中飛車は、既定路線だべな。早乙女っちが、どうするかだべが……」
奥村がしゃべり終えるまえに、素子ちゃんは3四歩と突いた。
以下、5八飛、4二銀(?)、5五歩、4四歩、7六歩、4三銀と進む。
な、なにこれ? ……トリッキー過ぎるでしょ。
ギャラリーも、若干ざわついた。
不破さんは、飴玉のスティックを噛んで、素子ちゃんを睨みつけた。
「おい……どういう了見だ?」
「どうかしたの?」
不破さんは、こぶしで机を叩いた。
「ふざけた将棋指してんじゃねぇぞッ!」
「5筋を受けるために銀を上がる将棋の、どこがふざけてるのかしら?」
素子ちゃんは平然としている。でも、こんな受け方、尋常じゃない。
後手は、ここからどう指す気なのだろうか。
「チッ……あとで吠え面かくなよ。7七角」
3三角、3八銀、2四歩、4六歩、2五歩、8六角、6二銀。
えぇ……陽動振り飛車……ですらないような……。
「早乙女っち、わざと負けようとしてるんじゃないべか?」
「それは、ないわ。素子ちゃんの将棋に対する姿勢はホンモノよ」
私は、小6のときに参加した、将棋大会のことを思い出していた。小さい頃から将棋を指していた私は、ほかの町の子とも仲良くなっていた。桐野先輩は中学に上がって、優勝は茉白ちゃんかな、なんて、みんなで話していたとき――こいつは現れた。
「奥村、あのときの大会、覚えてる? 5年前の」
「早乙女っちのデビュー戦だべか?」
「そうよ」
「忘れたくても、忘れられないべ」
エントリーがほぼ終わりかけた頃、その子は現れた。赤い野球帽をかぶって。
地元チームの帽子だってことは、すぐに分かった。近くに球場があるし、迷子かと思ったけれど、ちがっていた。参加者だったのだ。保護者につれられた少女は、会場のすみっこに座って、ひとりで詰め将棋を解き始めた。だれも知らないようだった。帽子が目立つという以外には、私も注目していなかった――1回戦で、茉白ちゃんが倒されるまでは。
パシーン
駒音が、私を思い出から連れもどす。
「奥村、どう進んだの?」
「ん、見てなかったべか。6八銀、8四歩、5七銀、8五歩、7七角、6四歩、1六歩、1四歩、4八玉、6三銀、3九玉だべ」
「ありがと……後手は、どうまとめるつもりなのかしら」
「こっちが訊きたいべ」
形だけ見ると、まるで初心者の戦いみたいだ。
でも、盤面全体のバランスは、取れているような気がした。
2四角、8八飛。
先手は向かい飛車に振りなおす。
3三桂、5八金左、7四歩、8六歩、同歩、同飛、8五歩、8八飛。
後手は飛車交換を避けた。このかたちなら、当然だ。
「7三桂」
なにこれ……ほんとに意味が分からない。
不破さんも、目を白黒させていた。奥村も首をひねる。
「これで勝てるんだべか?」
「一応、次は両取りになってるわよ」
私の指摘に、奥村は「そりゃそうだべが……」と言葉をにごした。
不破さんもそれは分かっているから、6八角と引いた。
7二金、7七桂、4二玉。
結局、そっちに囲うのか。
「チッ」
不破さんは、イラついているのか、軽く舌打ちをした。
机に両ひじをついて、考え込む。
ここまでの残り時間は、先手が5分、後手が10分。差がついていた。
「……8五桂だ」
この手が指された瞬間、盤面だけでなく、教室の空気も動いた。
ある程度の指し手なら、一瞬で同桂、8六歩、7七桂成、同角、6五桂まで見える。
ブロック代表ばかりのこの面子で、気づかないひとはだれもいなかった。
「せっかちね……同桂」
8六歩、7七桂成、同角、6五桂、6八角、5七桂成、同金。
不破さんは、入手した桂馬を放り投げ、左手でキャッチした。
「左桂は、さばけた」
「振り飛車脳とだけ言っておくわ。4五歩よ」
後手が攻勢に入る。
「不破っち、さっきのは指し過ぎだと思うべ」
「どうかしら。後手の陣形が薄いのは事実だわ」
「月代っちは、不破っちを応援してるべか?」
そんなわけないでしょ。素子ちゃんに勝ってもらわないと困るのよ。
私怨じゃない。幹事長としての、公人の立場だ。
むしろ、私情で応援相手を決めているのは、ほかのメンバーだと思う。
青來ちゃんは、不破さんの友だちだから、あからさまにそっちを応援。
安奈ちゃんと通くんも、不破さん持ちっぽい。ふたりとも常識人で、顔には出してないけどね。反対に、小古堰と近いメンバー、とくにH島県東部の男子は、素子ちゃんのほうを応援しているようだ。悟は女子に興味がないから、どうでもよさそう。
仮に私が、私情丸出しで応援するなら――不破さんよね。部外者からは、なんでと思われるかもしれない。理由は簡単。素子ちゃんは全然協調性がなくて、大会の運営なんかもまったく手伝ってくれないし……なにより、強いからだ。H島の将棋界に颯爽と現れて、数々の大会を欲しいままに蹂躙してきた少女。野球と数学と将棋をこよなく愛する、赤い帽子の女――赤き狼。それが、彼女のあだ名だった。
「んっただこと言っても、男子だって捨神っちに散々やられてるべ」
「捨神くんは、まだかわいげがあるでしょ。素子ちゃんはちがうわ」
「イケメンなら許されるってだけだべ」
ぎくっ。
「ま、言いたいことは分かるべ。捨神っちは、あれでも繊細だべからな」
私たちが雑談しているあいだも、局面は進んだ。
2八玉、4六歩、4四歩、同銀、3六桂(両取り!)、4七歩成、同銀。
素子ちゃんは、持ち駒の銀をつまみ、ふわりと打ち下ろした。
「7七銀」
「ッ!?」
不破さんの背筋が伸びた。
会場からも、小さな悲声が聞こえた。
「これは……決まったべ。不破っちの勝ちは、もうないべ」
「……」
私は、しばらく息をするのも忘れていた。
この局面……この局面に不破さんを誘導したって言うの? 中押し勝ちのかたちに?
「ここから寄せまでは、数学的に47手ほどかかるわ。まだ指す?」
「……」
「楓さん?」
「うるせぇ! 黙ってろッ!」
不破さんは、机を左手で叩き、歯を食いしばった。
無情に時間が流れて、あっと言う間に30秒将棋になった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同角ッ!」
素子ちゃんは、舞うように角を成り込んだ。
「私の玉は、永久に詰まない」
「黙れって言ってんだよッ!」
5八銀打、7九馬、4四桂、4三歩、2三銀、4四歩。
桂馬が殺された。
3四銀成、3二金、3八銀、1五歩、同歩。
「角も殺すわよ。7五歩」
これは、取っても意味がない。だけど、ほかに指す手もない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5四歩ッ!」
同銀、4七銀左、7六歩、4四角、4三歩。
角も死んだ。
6六角には6五歩で、7五角と逃げたら8八馬の飛車損になる。逃げられない。
「すごいべ……狼に、はらわたを食い荒らされてるべ」
将棋指しなら、目を覆いたくなるような局面だ。
不破さんはそれでも、じっと盤面に集中する。
「3三成銀だッ!」
「同金」
同角成、同玉、5八飛に、素子ちゃんは1七歩の手裏剣を飛ばした。
同香、1六歩、同香、2四桂。
急所に駒が置かれた。1六桂とされたら寄りだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「1七金ッ!」
苦しい受け。攻めの手段が皆無になった。
7七歩成、4六桂、6七と。
「5九飛だッ! まだ諦めねぇぞッ!」
素子ちゃんは、ピンと人差し指を立てて、5九の飛車を見下した。
「その手を待っていたのよ。4六馬」
「ッ!?」
これには、ギャラリーも驚いた。
「寄りがあるべか?」
「すぐにはないような気がするけど……」
私と奥村は、30秒将棋のなかで読みを入れた。
不破さんも、単純に同銀とした。
「3六桂打」
……………………
……………………
…………………
………………
「たまげたべ……寄ったべ……」
一瞬で寄った。
身じろぎもしない不破さんのまえで、素子ちゃんは野球帽のツバを上げた。
「楓さん、あなたなら気づいているはずよ……詰んでるわ」
詰み? 寄りじゃなくて詰んでるの?
同歩、同桂、3七玉、2八角、3六玉、3五歩、同玉、3四歩、3六玉……そこで3五銀かッ! 同銀は同歩、同玉、3四銀、3六玉、4六金で詰むッ! かと言って3四歩に2五玉も、2四銀、3六玉、3五金、同銀、同銀、4七玉、4六銀、4八玉、5七銀打、同飛、同とまでッ!
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ど、同歩ッ!」
3六同桂、3七玉、2八角、3六玉、3五歩、同銀。
「そっちを選んだのね……うつくしい投了図だわ……8六飛」
これも、詰んでる。4六合駒、4五銀打、4七玉、4六銀以下だ。
私たちが唖然とするなか、パキンとなにかが折れた。
不破さんが、飴玉のスティックを噛み切った音だった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負け……ました……」
「ありがとうございました」
教室が静まり返る。
肩の荷が、ドッと降りた気がした――出場権は、守られたのだ。
感想戦が始まるのを待つ。だけど、言葉の代わりに、ぽたりと水音がした。
不破さんは、左腕を机に乗せたまま、涙を流していた。
「ハハッ……弱いな、あたし……笑えるほど弱い……ほんとに弱い……ううッ……」
ぼろぼろと泣き始めた不破さんに、青來ちゃんが駆けよろうとした。
だけど、安奈ちゃんが、それを押し止める。
不破さんは、まぶたをぬぐいもせずに立ち上がり、教室を出て行った。
静寂――赤き狼は、つまらなさそうに、ただ虚空を見つめていた。
場所:修身高校
先手:不破 楓
後手:早乙女 素子
戦型:力戦
▲5六歩 △3四歩 ▲5八飛 △4二銀 ▲5五歩 △4四歩
▲7六歩 △4三銀 ▲7七角 △3三角 ▲3八銀 △2四歩
▲4六歩 △2五歩 ▲8六角 △6二銀 ▲6八銀 △8四歩
▲5七銀 △8五歩 ▲7七角 △6四歩 ▲1六歩 △1四歩
▲4八玉 △6三銀 ▲3九玉 △2四角 ▲8八飛 △3三桂
▲5八金左 △7四歩 ▲8六歩 △同 歩 ▲同 飛 △8五歩
▲8八飛 △7三桂 ▲6八角 △7二金 ▲7七桂 △4二玉
▲8五桂 △同 桂 ▲8六歩 △7七桂成 ▲同 角 △6五桂
▲6八角 △5七桂成 ▲同 金 △4五歩 ▲2八玉 △4六歩
▲4四歩 △同 銀 ▲3六桂 △4七歩成 ▲同 銀 △7七銀
▲同 角 △5七角成 ▲5八銀打 △7九馬 ▲4四桂 △4三歩
▲2三銀 △4四歩 ▲3四銀成 △3二金 ▲3八銀 △1五歩
▲同 歩 △7五歩 ▲5四歩 △同 銀 ▲4七銀左 △7六歩
▲4四角 △4三歩 ▲3三成銀 △同 金 ▲同角成 △同 玉
▲5八飛 △1七歩 ▲同 香 △1六歩 ▲同 香 △2四桂
▲1七金 △7七歩成 ▲4六桂 △6七と ▲5九飛 △4六馬
▲同 銀 △3六桂打 ▲同 歩 △同 桂 ▲3七玉 △2八角
▲3六玉 △3五歩 ▲同 銀 △8六飛
まで106手で早乙女の勝ち




