15手目 陽動された讃岐うどん
月曜日の早朝、私はK知駅で桂太の見送りを受けた。
T松までの特急切符を買って、1番線の電車に乗り込む。
名残惜しい気もするけど、私の胸は思い出でいっぱいだ。
私は窓を開けて、出発まで桂太と会話した。
「それじゃ、姉ちゃん、気をつけてね」
桂太は両腕を後頭部にあてた格好で、にやりと笑った。
「桂太こそ、夏休みの宿題、ちゃんとするのよ」
「まるで、母ちゃんみたいなこと言うね」
私たちは、おたがいに笑った。別れの挨拶はいらない。そんな感じだ。
「また機会があったら、H島に来なさい。いつでも相手してあげるわ」
「次こそは勝つよ。っと、そのまえに秋の個人戦があるか」
私も、個人戦のことを思い出した。9月に入ったら、すぐに始まるはずだ。とりあえず倒さないといけないひとたちが多過ぎる。姫野先輩を筆頭に、歩美先輩、甘田先輩、冴島先輩が続く。サーヤとヨッシーも、100%勝てるわけじゃないから警戒しないと。
《間もなく発車します。お見送りのお客様は、白線のうしろへお下がりください》
出発のアナウンス。入り口のドアが閉まった。
私は窓をおろして、桂太も白線のうしろまで離れた。
コンコンとガラスをたたき、最後の合図。
ベルが鳴って、車体が動き始める。私は桂太に手を振りながら、K知をあとにした。
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流れる風景をしばらく眺めたあと、私は鞄から詰め将棋の本をとりだして勉強。それが終わったら、マグネット盤で、吉良くんとキャット・アイの将棋を検討した。あのあと、将棋部のメンバーでいろいろと評価した。終始、難解だった模様。普通なら、吉良くんがそのまま勝つ展開だった。龍取りを無視して4七とが、機敏過ぎた。
《間もなく、T松、T松です。お忘れ物のないよう、お気をつけください》
減速する。6番線に到着した私は、席を立って、うんと背伸びした。
いやはや、ここまで2時間もかかるとは。まだ半分なのに。
ホームにおりて、あたりを見回す。
このままK戸って手もあるんだけど……やっぱり、うどんでしょ、うどん。
本場のさぬきうどんを食べていかないと損だ。そのための早起き。
改札口を出て、私はスマホの地図をひろげた。K知を出るとき、吉良くんからT松のおいしいうどん屋さんを教えてもらった。彼は県代表であちこち行っているから、こういうグルメに詳しいようだ。感謝、感謝。
「たかやぐら……か」
私はスマホの地図をたよりに、朝のT松市内を散策した。太平洋に面しているK知市とはちがって、こちらは瀬戸内海側だ。気候は、むしろH島に似ている気さえした。
「あった」
大通りから外れたところに、真っ赤な暖簾の店がみえた。ひらがなで、たかやぐらと書かれている。おどるような書体だった。
私は木製の格子戸を開けて、店内に入った。明るい和風の室内に、いくつかのテーブル席とお座敷席。私は、壁よりの二人掛けに腰をおろす。さすがに、初見でカウンター席は難易度が高い。置いてあったメニューを眺めた。
オーソドックスに、かけうどんでもいいんだけど……しょうゆうどんも捨てがたい。奮発すれば、もっと変わり種のものも食べられる。夏だから、ぶっかけの冷やもいいわね。あるいは、正統な具で攻めて、きつねうどんか天ぷらうどん。
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ん? なんで、だれも出てこないの?
私が店の奥に視線をむけると、ちょうど厨房のほうから、ひとりの少女があらわれた。中学生なのか高校生なのか、判別がつかないくらいの身長で、ちょっと元気がよさそう。髪型は、ミディアムボブをひとつ結びにして、髪の束を向かって右に流していた。割烹着じゃなくて、紺のハーフパンツにスプライトの入ったTシャツ、そのうえに、オレンジ色の半そでジャケットをまとっていた。
少女は私を見て、目をぱちくりとさせた。
「あれ? お客さん、まだ開店してませんよ?」
やってしまいました。早過ぎるとは思ったんだけど――まだ9時40分。
明かりがついているから、てっきり営業中と勘違いしてしまった。
「ご、ごめんなさい。また、あとで……」
「開店まで20分くらいですし、そのまま待っていただいても結構です」
そっか……じゃあ、待たせてもらいましょう。
私は腰をおろして、メニューとにらめっこした。
少女は、水かお茶かを尋ねて、私は冷たいお茶を頼んだ。
それが運ばれてくるあいだ、私はマグネット盤をとりだし、検討を続ける。
【先手:吉良義伸 後手:キャット・アイ】
この局面なのよね。
キャット・アイの入玉を阻止する手が、あるかどうか。
あれば、先手だけ入玉できそうだから、吉良くんの勝ちになるはず。
「……」
「お客さん、ひとり将棋ですか?」
顔をあげると、さっきの少女がお茶を置きながら、盤面をのぞきこんでいた。
しまった。変なひとだと思われたかも。
「これは、なんていうか……パズルみたいなもので……」
「パズル? ……感想戦じゃなくて?」
ん? 専門用語が出てきた?
私は、他人の将棋を検討しているのだと伝えた。すると、これも通じた。
「変わったことしてるんですね。旅行者の方ですか?」
私は、そうだと答えた。相手は、やっぱりみたいな顔をする。
「どちらから?」
「住まいはH島なんだけど、今日はK知の従兄弟の家から」
「K知? ……吉良くんって、ごぞんじですか?」
これはびっくりだ。どうやら、吉良くんの知り合いらしい。知人の店を紹介されたことに、私はようやく気づいた。
少女は、ちからこぶしを見せるようなポーズで、にやりと笑う。
「ひまだったら、お相手しますよ?」
えぇ……私は困惑する。少女は、対面の席に座ってしまった。
吉良くん繋がりということで、断りにくいし、私たちは駒をならべた。
「あ、自己紹介が遅れました。わたし、二階堂って言います」
そう言って少女は、にっこりと笑った。
「私は、裏見」
「あ、もしかして、桂太のお姉さんですか? わたし、同学年なんですよ」
この子、中学3年生なのね。どうりでちょっと背が低いわけだ。
人の輪というか将棋の輪みたいなのが広がって、なんだか変な気分。
じゃんけんして、先後を決める。
「わたしが後手ですね、お姉さん、どうぞ」
なんだかよく分からないけれど、暇つぶしということで、私は7六歩と突いた。
二階堂さんは、右手で3四歩をパチリ。
8四歩じゃないから、棋風はまだ分からない。2六歩、4四歩。
これは……振り飛車党っぽい? ゴキゲンではないようだ。
そのあたりを斟酌しつつ、私はどんどん指した。
2五歩、3三角、4八銀、3二銀(四間?)、5六歩。
「4三銀です」
ん……向かい飛車? 私は用心する。6八玉と上がった。
「6二ぎぃん」
二階堂さんの手に、私はちょっと首をかしげた。
ムリヤリ矢倉? ……いや、陽動振り飛車くさい。女の勘。
5八金右として、とりあえず6筋に備える。
6四歩、6六歩、6三銀、7八玉、9四歩、9六歩、7四歩。
ぐぅ、今度は右四間っぽくなってきた。さっきから、ちょろちょろし過ぎ。
「6七金」
「6二玉」
なんじゃこりゃあああああ。
右四間ですらないのか。陽動振り飛車と右玉の二択になった。
可能性が高いのは、右玉……いや、飛車先を突いてないから……陽動?
私は両者を天秤にかけたあと、3六歩と突いた。
「強いですね。攻めの構えですか」
迷ったら、攻めが遅れないようにする。おじいちゃんの格言。
二階堂さんは、ここで少し考えた。
「あんまり遊ぶと、よくないかな……7一玉」
陽動でほぼ確定。問題は振ってくる場所だ。
7七角、7三桂、8八玉。
「2二飛ッ!」
向かい飛車だったか。一番最初の予想にもどった。
私は7八金、5二金左に9八香と上がって、穴熊を目指す。
さっきまで余裕の表情だった二階堂さんも、マジメになり始めた。
この陽動向かい飛車、得意戦法ってわけじゃなくて、舐めプだったんじゃないの?
「いやあ、参りました……8二玉」
9九玉、7二金、8八銀(穴熊完成)、5四歩。
私は1六歩と税金を払ってから、4五歩に3七桂と跳ねた。
「4四銀」
「5七銀」
「ここで……」
そのときだった。店の奥から、おじさんっぽい声が聞こえた。
二階堂さんは、アッとなって立ち上がる。
「すみません、お店を開けてきます。ご注文は?」
「温玉うどん」
さっぱりといってみましょう。
注文を終えた私は、マグネット盤の局面を一瞥した。
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………………
ここから松尾流に組み替えれれば、私が有利。
ただ、二階堂さんの指し手からして、なにかありそうなのよね。
しばらく待っていると、割烹着姿の二階堂さんが帰ってきた。
お盆のうえに、温玉うどんが運ばれてくる。
二階堂さんは左手で容器を持ち、私のまえに置いた。
さぬきうどんに生玉子、ねぎ、ごま、海苔が乗っていて、いい香りがする。
私は箸でかき混ぜながら、二階堂さんを見上げた。
「続き、指す?」
「え? なにをですか?」
なにを、じゃないでしょ。誘って来たのはそっちなのに。
「将棋よ、将棋」
私は箸を持ったまま、人差し指で将棋盤を示した。
二階堂さんは、「え?」みたいな顔をして、それから、
「あ、そういう……」
と言って、店内を見回した。まだ10時過ぎだから、客は他にいない。
「じゃあ、ちょっとだけ」
いやいやいや、ちょっとだけ、じゃないでしょ。
自分のほうが悪いからって、逃げるつもりじゃないでしょうね。
私は二階堂さんが着席するまえに、うどんを一口すすった。
「うん、美味しい」
こしがあって、とても香りがいい。手打ちなのは、間違いないわね。
玉子の甘さが海苔とマッチしているのもグッド。
私が舌鼓を打っているあいだ、二階堂さんは正面で、頭を抱えていた。
「ウーン……これ、なにがしたいんだろ……」
セルフ突っ込みですか? 陽動振り飛車にするから、そういうことになるのよ。
30秒近く悩んで、二階堂さんは4二飛と回った。
私はうどんをもぐもぐしながら、盤面を眺める。
4二飛か……松尾流に組めるんじゃない?
私は思い切って、6八銀と引いた。
5五歩、2四歩、同歩、7九銀右、5六歩、6八角。
やっぱり成功。
私はうどんをすすりつつ、たしかな手応えを感じた。




