11手目 我が輩は猫である
手早く着替えた私は、ポニーテールを結ぶ間もなく、ベランダから庭へ降りた。潮風に吹かれながら、浜辺のほうへむかう。大きな月が天空に掛かって、まるで夢のなかにいるようだった。大谷さんを先頭に闇のなかを急ぐと、潮騒の音が聞こえた。あとすこしで浜辺というところで、私たちは足をとめる。
「ねぇ、だれもいな……ん?」
防波堤のうえに、すらっとした人影がみえた。
まさか、そんな――私が目を凝らす暇もなく、人影は月を背に振り返った。
黒いレオタードを身にまとい、ショートカットの頭から、猫耳が生えている。流線型のアイマスクのむこうで、猫のように目がきらりと光った。
「怪盗キャット・アイ、参上」
変態だーッ! 叫びかけた私の口を、神崎さんが塞いだ。
先頭を走っていた大谷さんは、レオタードの女と対峙する。
「物の怪が、姿を現しましたね」
「自己紹介を聞いてなかったの? 我が輩は、キャット・アイ。怪盗だ」
なにが怪盗よ。ただの変態でしょ。
一人称が「我が輩」なのも意味不明だ。夏目漱石かなにか?
私が内心突っ込みを入れていると、キャット・アイと目が合った。
こっちも驚いたけど、キャット・アイも大いに驚く。
「ニャ……おまえは……」
「な、なによ?」
キャット・アイは表情をもどして、ニャハハと笑った。
「あまりにも変な顔で、我が輩、驚いてしまった」
はあ?
「あのね、これでも言い寄られるくらいモテるのよ」
「なんだ、それは。拙者たちへの当てつけか」
「裏見さんは煩悩にまみれておいでで」
味方から攻撃された? なんで?
「ニャッハッハ、足並みがそろってないじゃないか」
私たちはキャット・アイに、ここでなにをしているのか尋ねた。すると、キャット・アイは足もとからビニール袋を拾いあげて、それを掲げてみせた。
「ちょいとお腹が空いてね。夜食をいただいた」
「夜食?」
「そこに干されていた魚を失敬した」
私は、キャット・アイの目線を追った。そこは、桂太のおじいちゃんが、釣った魚を干しておく場所だった。私たちは、猛抗議する。
「ちょっとッ! なに勝手に盗んでるのッ!」
「人間だって、勝手に海から魚を盗んでるだろう」
自分が人間じゃないみたいな発言で、私は当惑した。
ほんとに化け猫? ……いやいや、空気に飲まれちゃダメ。化け猫なんていない。
「とにかく、魚を返しなさいッ!」
「まあまあ、そう怒るな。無条件で、とは言わない。我が輩と将棋を指そう」
えぇ……どういうこと。
混乱する私をよそに、神崎さんがまえに出た。
「望むところだ。拙者が受けて立とう」
指す気マンマンの神崎さんを、大谷さんが制する。
「いえ、ここは拙僧が」
「ひぃちゃんの手を煩わせることもあるまい」
大谷さんは小声で、逃げ道を塞いでくださいと指示した。
神崎さんは、無言で首を縦に振る。
「わ、私は?」
「裏見さんは、そこで秒読みをしてください」
ちょ、また? 私は神崎さんから、蛍光の腕時計を受け取った。
一方、大谷さんはキャット・アイのそばへ近寄り、防波堤に跳び乗った。
華麗に着地して、彼女は右手を前に出す。
「化け猫さん、いざ、尋常に勝負」
「30秒将棋ね。先後は、どうやって決める?」
「先手はゆずります」
ニャッハッハと、キャット・アイは笑った。
この女、キャラ作りがさっきから細かい。
「舐めてると、痛い目をみるよ……2六歩」
キャット・アイは譲り返さないで、いきなり初手を告げた。
「猫さんは、居飛車党ですか……3四歩」
2五歩、3三角、7六歩、4二銀、4八銀、3二金、7八金、7二銀。
「4六歩」
「6四歩」
変則的な出だしではあるけれど……角換わりになりそう。
4七銀、6三銀、6八銀。
「このタイミングですね。8八角成」
「同金」
大谷さんは、先手の形を崩した。壁金だ。ポイントを稼いだ模様。
3三銀、6九玉、5四銀、7九玉、4二玉、7八金。
キャット・アイは、壁金を解消する。
それにしても、普通に将棋を指せるっぽい。どういう怪盗なの。
ただの変態さんではないようだ。
5二金、1六歩、9四歩、9六歩、6五歩。
大谷さん、積極的。ここから6二飛の予定だろう。
「ンー、攻め将棋か……5六銀」
「6二飛」
予想が当たる。キャット・アイは両腕を組み、右の靴底を鳴らしてリズムを取る。
「しばらくは受けようかね。5八金」
7四歩、3六歩、3一玉、3七桂。
ここで大谷さんは、6四角と打つ。4七金を強要してから、4四歩、7七銀、7三桂。
キャット・アイ、初めての長考。
「……20秒、1、2、3」
「8六角」
ん? これは?
大谷さんも、一瞬では手の狙いがみえなかったのか、小考した。
「……20秒、1、2、3、4、5、6」
「同角」
同銀、6四角と進む。8六角の狙いは、未だにみえてこない。
「攻めて来ないんだね。じゃあ、我が輩から攻めるよ。2四歩」
開戦。キャット・アイが先攻した。
「同歩」
「7五歩」
……あッ、これが8六角の狙いか。手損なしに銀を出たわけだ。
大谷さん、月明かりのもとで、やや険しい表情。
「やりますね……同歩」
キャット・アイは、7四角と打ち込む。
8二飛、5二角成、同飛、7四金。角金交換からの、金角交換に持ち込んだ。
8六角の時点でこの構想を抱いていたとしたら、かなりの腕前だ。
私には全然見えていなかった。
「せめて形を崩します。5五角」
同銀、同銀(銀角交換)、7三金(駒損拡大)。
先手は金がそっぽだから、まだまだ。
「6六歩」
大谷さんも攻勢に転じた。
キャット・アイは空に向かって両腕をひろげ、気取ったように右膝を折り曲げた。
「ウーン、普段は偉そうな人間様を手玉に取るって、最高。同歩」
6七歩、2三歩、3五歩、6三金、9二飛、5三金、5二歩。
「すり込んで行くよ。4三桂」
これは取れない。大谷さんは、4一玉と逃げた。
「7三角」
「つ・め・ろだニャー」
「くッ……」
まさかの、5三歩と取れない展開になってしまった。
「ひぃちゃん、がんばれ。拙者がついているぞ」
神崎さんの声援。私も応援する。
すると、キャット・アイがこちらを睨んだ。
「ちょっと、20秒過ぎたんじゃないの?」
あ、しまった。秒読みを忘れてた。
「ま、いっか。おまけで10秒あげる」
キャット・アイは、余裕をみせる。私はちゃんと時計を確認した。
「1、2、3、4、5、6、7」
「2三金」
大谷さんは、脱出経路を作った。
「5四金」
キャット・アイは5五の銀を取らずに、金を逃げた。これも冷静な一手だ。
3六歩、5五角成、3七歩成、同金。
「7六桂です!」
ん? 意外と食らいついてる?
キャット・アイは、こめかみに指を添えて、小考に沈んだ。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「6七金」
3六歩、同金、6八歩。大谷さんは手順を尽くす。
「なるほどね、4七角が詰めろになるって寸法か。じゃあ、7六金」
大谷さんは、それでも4七角と突っ込む。
6八玉、3六角成。
「7五銀」
「これで我が輩の王様は捕まらない」
「……」
秒読み係の私からみても、かなりつらいかたちになった。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「3七銀」
キャット・アイは、ノータイムで2九飛。
以下、4六銀不成、6四馬、5三歩、1五桂。
緩急自在。左右の使い分けも絶妙。
この猫耳女、いったい何者?
「1、2、3」
「5四馬」
同馬、同歩、2三桂成。
馬は消せたけど、形勢が全然もどらない。
「1、2、3、4、5、6」
「4五角」
大谷さん、必死の喰らいつき。詰めろだ。
キャット・アイは3二銀、5二玉を入れてから、5六金と受けた。
さすがにこれは切らざるをえなくて、同角、同歩、4二銀。
「これで決まりだね。7三角」
厳しい。銀当たりなうえに、寄せの網を絞っている。
「1、2、3、4」
「4五歩」
「そいつは寄りだよ。5一桂成」
え? 寄ってる? 私は脳内将棋盤で、寄りを追った。
同銀は3四角だからないとして、5三玉で逃れているような……。
「秒読み」
「あ、はい」
大谷さんは29秒ギリギリまで考えて、5三玉と上がった。
「7一角」
詰んでるようにみえないんだけど……ん、待ってよ。2九に飛車がいるのか。
大谷さんは、ノータイムで6二歩。
6四銀、4四玉、6二角行成、同飛、同角成、5三角。
「さすがに難しいほうへ誘導したか……同馬」
同銀、同銀不成、3五玉。
5三同銀不成に同玉は、4三飛、6二玉、7一角、同玉、7三飛成、7二合駒、8二銀のときに、5一成桂がいるから詰んでしまう。これはさすがに分かった。
「3六歩」
あ、これは……これは詰んでそう。
同玉に2六飛と打たれる。
「3七玉」
「3八歩」
「……同玉」
「4九銀」
大谷さんは気息を整えて、右手でキャット・アイを拝んだ。
「拙僧の負けです」
な、なんと、大谷さんが負けてしまった。
これには、神崎さんもがっかり。
「ひぃちゃん……」
「ニャッハッハ、我が輩の勝ちだね。この干物は、もらって行くよ」
キャット・アイは、くるりときびすを返した。
その足もとに、手裏剣が突き刺さる。
「そうはさせんぞ!」
「ニャ!?」
キャット・アイは、神崎さんが襲いかかって来ると思ってなかったのか、大慌てで逃げ始めた。堤防のうえを、ぴょんぴょんと跳ねる……って、えぇ!?
「な、なにあの動きッ!?」
私は自分の目を疑った。キャット・アイは、何メートルも跳躍しては着地するの繰り返しで、神崎さんの猛追をギリギリかわす。
ふたりは、アッという間に視界から消え去った。あとに残された私たちは、月の光に照らされた太平洋を、ぼんやり見送るばかりだった。
場所:T佐市の浜辺
先手:怪盗キャット・アイ
後手:大谷 雛
戦型:角換わり腰掛け銀
▲2六歩 △3四歩 ▲2五歩 △3三角 ▲7六歩 △4二銀
▲4八銀 △3二金 ▲7八金 △7二銀 ▲4六歩 △6四歩
▲4七銀 △6三銀 ▲6八銀 △8八角成 ▲同 金 △3三銀
▲6九玉 △5四銀 ▲7九玉 △4二玉 ▲7八金 △5二金
▲1六歩 △9四歩 ▲9六歩 △6五歩 ▲5六銀 △6二飛
▲5八金 △7四歩 ▲3六歩 △3一玉 ▲3七桂 △6四角
▲4七金 △4四歩 ▲7七銀 △7三桂 ▲8六角 △同 角
▲同 銀 △6四角 ▲2四歩 △同 歩 ▲7五歩 △同 歩
▲7四角 △8二飛 ▲5二角成 △同 飛 ▲7四金 △5五角
▲同 銀 △同 銀 ▲7三金 △6六歩 ▲同 歩 △6七歩
▲2三歩 △3五歩 ▲6三金 △9二飛 ▲5三金 △5二歩
▲4三桂 △4一玉 ▲7三角 △2三金 ▲5四金 △3六歩
▲5五角成 △3七歩成 ▲同 金 △7六桂 ▲6七金 △3六歩
▲同 金 △6八歩 ▲7六金 △4七角 ▲6八玉 △3六角成
▲7五銀 △3七銀 ▲2九飛 △4六銀不成▲6四馬 △5三歩
▲1五桂 △5四馬 ▲同 馬 △同 歩 ▲2三桂成 △4五角
▲3二銀 △5二玉 ▲5六金 △同 角 ▲同 歩 △4二銀
▲7三角 △4五歩 ▲5一桂成 △5三玉 ▲7一角 △6二歩
▲6四銀 △4四玉 ▲6二角上成△同 飛 ▲同角成 △5三角
▲同 馬 △同 銀 ▲同銀不成 △3五玉 ▲3六歩 △同 玉
▲2六飛打 △3七玉 ▲3八歩 △同 玉 ▲4九銀
まで125手で怪盗キャット・アイの勝ち




