第7話
※操作ミスがあったらしく、第6話のところに第5話が重複して投稿されていました。第7話の投稿とあわせて修正しました。最新話を追いかけてくださってる方は第6話からお読みください。申し訳ありませんでした。
メイドさんの先導にしたがって、クロイムツェルトが食堂らしい部屋に入ると、そこは吹き抜けのように天井の高い大きな空間だった。
透明度の高いクリスタル様のものでできたシャンデリアがあちらこちらと吊り下げられていて、そこから明るい色の強い光が出ている。
装飾のクリスタルごしなので、はっきりとは見えないけれども、どうやら蝋燭ではなくて晶術石、つまりナノマシンの塊をシャンデリアの内部に入れて照明にしているようだった。
部屋の中央には大きな長方形のテーブルが置かれて、その椅子にはリオンとシャンテの夫婦、それに知らない男の子と女の子が1人ずつ座っている。
テーブルの上には、清潔なクロスにナプキン。
中央部に据えられた船のような形の、短い脚の付いた銀の大皿には、瑞々しい果物が盛りあげられていて、その周りは、生花、深緑の蔦や葉で彩られている。
背が高くて細いもの、大ぶりのもの、小さなものと数種類ととのえられた透明感のあるグラス。クリスタルの小杯。曇りなく磨き上げられた銀器の数々。それに、縁を金で装飾された、透き通るような白の食器の類が整えられて、シャンデリアからの強い光で輝いている。
まさしく立派な晩餐の準備が整っているようだった。
クロイムツェルトは『ぼっち』である。
彼女は、主には家庭教師から教育を受けたけれども、オンラインの仮想空間上でなら学校にも行ったから、級友も一応はいる。
それに幾つもの戦略戦術シミュレーションオンラインゲームで強豪アライアンスを率いていたし、他にも造園とか宇宙ヨットとか天体観測とか数学とかその他諸々、色々と多趣味だったから、友達がいないわけではない。少なくともオンラインでは。
けれども、クロイムツェルトは王族であり、警備の都合上もあって、住んでいる離宮船から出られないという事情があった。
だから、オンラインである程度仲良くなったから、じゃあオフ会しましょうということになっても、
『私って離宮船から出られないから、オフ会はクラインクロイム第八女王爵の離宮船でしましょうね☆』などと言いだそうものなら、相手が引いちゃうかもしれないし、と思うとどうにも億劫で、結局クロイムツェルトは、オンラインで仲良くなった誰かを、オフラインで家に招いたことも、招かれたこともなかった。
誰も家に招いたことがなく、誰にも招かれたことがないということは当然、食事に誰かを招いたことも、招かれたこともないのである。
そういうわけで、今回リオンとシャンテの夫妻に食事を御馳走になるのが、実はクロイムツェルトにとって、王族としての公務以外では初のお呼ばれ体験になるのであった。
そのうえ、クロイムツェルトが今いるこの世界は、異世界の、紛れもなく異文化の世界であって、クロイムツェルトは世界の習慣の細かいところまでを全て分析したわけではない。
だから、クロイムツェルトには目の前に設えられてある食卓の様子について正確な評価を行うことは難しかった。
けれども、ジーヴスの言うところによれば、この世界の文化は『我々の持つ文化と極めて類似している』らしい。
クロイムツェルトは、実際のお呼ばれを経験したことこそないが、ぼっちであればこそ、映画や小説や漫画やアニメなどの映像や音声の信号を、多数に分割された意識に直接流し込むという、まさに強化手術の途方もない無駄遣いとも言うべき手法で、生身のオタなどでは、物理的・時間的にまったく不可能なくらい大量に、そういうメディアを鑑賞していた。
ぼっちであればあるほど、娯楽に傾倒するのは人類普遍の傾向である。
だから、ぼっちのクロイムツェルトにも、そういう架空の事柄、メディア、つまり、あちらの世界と、この世界とで極めて類似がみられるところであるらしい『文化』から培った感覚というものならある。
例えば、この世界のこの地域の文化と、割に類似性がみられる、旧地球の中世や近世のヨーロッパを舞台にした映画やドラマや漫画だってクロイムツェルトはメイドさん目当てに大いに漁り、好んで鑑賞していて、そこに出てくるメイドさん映像などを日夜脳髄に流し込み、無表情キャラの仮面の下で、萌え悶えていたりしたのである。
そしてそういう映画やドラマや漫画などには貴族の家での晩餐会の情景などもたまには出てくる。
そういう、ある意味残念な感覚で、目の前のテーブルの上の設えを見る限り、この、お呼ばれの食事には、かなり気合の入った準備がされているようにクロイムツェルトには見えた。
単なる観光客の自分相手に、えらく歓待してくれるんだなと思いながら、クロイムツェルトがテーブルに近づくと、この屋敷に来たときに最初に出迎えてくれたり、金の粒とかを秤で計量してくれたりした執事さんが、どうぞ、と言って椅子を引いてくれる。
クロイムツェルトが席に着くと、
「さて、みんな揃ったようだし、料理のほうを始めてくれ」
とリオンが指示して、畏まりました、と言って執事さんが出ていった。
入れ違いに、黒のテールコートにタイで身を固めた給仕らしき男の人が何人か、保温用の蓋を被せた大きな長方形の銀盆や籐の籠やら瓶やらを持って入ってくる。銀盆の蓋が取られると、中にはスープが入っていた。
クロイムツェルトの前に、海老のクリームスープでございます、との解説の一言とともにスープの皿が置かれる。よく冷えて露の付いた瓶やデキャンタらしきものからは、お酒らしき飲み物や水がグラスに満たされ、籐の籠からそれぞれの小皿にパンが取り分けられて、全員に行き渡ると、とりあえず給仕の人達が引っ込む。
すると、
「クロイムツェルトさん。今日は本当にありがとうね、レイラは貴女が見つけてくれたのね。キッチンの子たちから聞いたわ」
とシャンテが感極まったように話し始めた。
「いえ、ほんの偶然です」
上空から駆逐艦で周囲を監視していて“偶然”見つけたんだから、まあ嘘じゃないよねと自分に言い聞かせながら、どうやってレイラお嬢様を見つけられたのかとか、そこらへんをあんまり細かくつついてほしくないクロイムツェルトとしては、素っ気なく返す。
けれども、
「偶然でもなんでも見つけてくれて本当に助かったのよ!」
シャンテがクロイムツェルトの手を握らんばかりにして言い、
「そうですよ。もし貴女が気付いてくれなければ、咳込みだすと呼吸もままならなくなるようなあの子が一晩じゅう外で過ごすはめになったかもしれないところでしたからな」
リオンがそう後を続ける。
「そんなことになったら私は心配で死んでしまうわ!」
「まったく貴女の耳の良さには感謝しておるのですよ」
「そうよ、ほんとにそうよ! 馬の蹄の音とか、がらがら回る馬車の車輪の音とかで騒々しい馬車の中から、レイラが茂みの裏で咳込んでいるとっても微かな音を聞き分けて下さったんですもの!」
「まさしく人間離れした感覚の鋭敏さですな」
「そうだけれどそれだけじゃないわ。苦しそうにしてる人の声がしたからって、誰でもが様子を見に行こうって考えてくれるわけじゃないわ。わざわざ様子を見に行ってレイラが苦しんでいるのに気づいてくださったのよ!」
クロイムツェルトのつついてほしくないポイントばかりを狙ったような賛辞の嵐。
わざと言ってるんじゃないかと思うくらい的確に、夫婦で突いてくるので、クロイムツェルトは内心で少し動揺したが、クロイムツェルトは無表情キャラだったので、内心の動揺は、幸いにも表情にはあらわれなかった。
「それでですな。お礼かたがた今日は夕食にお招きしたのですよ」
「そうなのよ。どうしてもお礼が言いたくて!」
ありがとうございます。とクロイムツェルトが言うと、
「いつもはもっと気楽なお食事を部屋に運ばせますからね、毎回私達と一緒に食べなきゃいけないってわけじゃないのよ」
シャンテはそう言って悪戯っぽくわらった。
「子供たちを紹介しましょう。この子がリアーネで長女です」
リオンがそう言うと、長い金髪をおろして碧い眼をした女の子が腰を浮かせてお辞儀をした。リオンと髪や眼の色は違うけれど、顔のつくりはよく似ていた。リオンを少しつり目にして勝気そうな印象にした感じだった。
「こっちの子がベルトラン、次男です」
今度は褐色の髪と瞳をした穏やかそうな印象の男の子が立ち上がって挨拶をした。こっちの子はシャンテによく似ていた。
「もう1人、上に長男がおりますが、今はよその家に仕官しておって家には居らんのです」
「一番下のレイラは部屋で休んでるわ」シャンテがそう付け加えた。
つまりこの家は夫婦に子供が4人の、6人家族ということらしかった。
食事が始まる直前になって、ふと思いついて、この地域のテーブルマナーはどうなっているのかと思ってジーヴスに照会してみたけれど、
(この惑星のこの地域で撮影した、食事中の様子の映像アーカイブや、あるいは現地の文献などから分析する限り、ナイフとフォークを使う、普通のヨーロッパ風の作法で大丈夫のようです)
と返答が返ってきた。
食事はとても美味しかった。どれもこれも複雑な味がして凝っていた。
お肉も柔らかくて美味しかったし、野菜は甘く、お酒はおいしい。デザートも手が込んでいた。
ひどく豊かな食卓で、テーブルマナーや料理の、旧地球におけるそれとの類似性についての考察をジーヴスが脳内に垂れ流してこなければ完璧だった。
レイラお嬢様を探していて、夕食が遅くなったせいなのか、お腹を空かしていたらしく、みんな割と黙々と食べていた。
だから食卓にそれほど会話は無かったのだけれど、メインディッシュが終わって、デザートと珈琲らしき飲み物が出てきたあたりで、お腹がくちくなったので会話をする気になったらしく、
「そう言えばクロイムツェルトさんってやっぱり貴族だったのねえ」
とシャンテが話を振ってきた。
どう答えるべきか。クロイムツェルトは思い巡らす。
クロイムツェルトが『貴族』であるとシャンテは言った。
言われたことの意味が分からなかったので、小脳の一角に有機素材を用いて増設された補助脳にアクセスし、この異世界語の聞き取りと発音の処理を半自動的に行っている、ジーヴスがインストールしてくれた翻訳用ソフトを開く。
ソフトのなかの単語帳を開き『貴族』で検索をかける。
そうすると『貴族』という言葉には
①ある特定の特権や地位にある人を表わす言葉。
②当該地域の封建社会における戦士身分。領主層を構成する。
③『晶術』と呼称される技術を用い得る人。
と解説があった。
おそらくシャンテが自分を『貴族』と判断したのは、この③の意味でだろうとクロイムツェルトは検討をつける。つまりクロイムツェルトがハニエラからもらったお茶を蒸発させていたのをシャンテさんは見ていたからだ。
「……私は晶術は使えますが、この国の貴族というわけではありません」
補助脳に検索をかけていたせいで、少しの沈黙を挟んでクロイムツェルトは答えた。
「あら、じゃあ外国の方?」
「そう、ですね。この国の人間ではありません」
「そうなのですか。どちらの?」
リオンも口を挟んでくる。
クロイムツェルトは、言えないことや言っても理解されないことを言わずに、なおかつ嘘にならないような答え方をするために考え考え答える。
「……申し上げてもご存じでないと思います。この大陸の国ですらありませんから」
「まあ! それじゃあすごく遠いところからいらっしゃったのね!」
「そうですね。船……に乗っていたら事故が起こって、漂流する破目になってこの大陸に流れ着いたというところでしょうか」
我ながら怪しすぎる説明だと思いつつもクロイムツェルトは言葉をつないでいく。
「……別の大陸、となると帰るのも大変ですな」
リオンさんが珈琲を啜りながら呟くように言う。
「方向が分かれば、交易船に便乗できるようにするくらいなら、うちで手配できるんじゃないかしら?」
「そう、だな。伝手を辿ればそれくらいはできるだろう。……まあでも、多少高いチケット代を払っても皇帝陛下の装甲艦に乗った方が安全ではある。クロイムツェルトさんはお金には困っていらっしゃらないようだしな」
夫婦でそこまで話すと、どうする? というふうにクロイムツェルトを見てくる。
けれども、どうする? と言われてもクロイムツェルトは困ってしまう。
リオンとシャンテが言っているのは当然、宇宙船のことではなくて海の上を航行する船のことだろうから、その船ではクロイムツェルトの故郷に帰れるはずもない。
『船』っていう単語を使ったのが拙かったかとも思うけれども、この世界に『宇宙船』という語彙が無い以上ほかに話しようもない。
いったいどう答えたものか。
海洋船なんかでは家に帰れないでござる! ということをそれらしく話す必要があるわけだ。
いっそ、私の故郷は星の海を渡る船でも帰れないほど遠くにあるのです、とか言ってぶっちゃけようかしら? 頭がおかしいと思われる可能性もあるけれど、うまくすれば何かの詩的な表現ととってくれるかもしれない。会話の途中であんまり黙り込むのも変だし。とかクロイムツェルトは必死で考える。
クロイムツェルトが破れかぶれで口を開きかけたとき、今いる食堂室の正面にある大扉の向こうから、何か小声で叱りつけるような声がした後、扉の取っ手が廻って、ぎい、と扉が開いた。
クロイムツェルトが音につられてそちらを見ると、何か白いカタマリの様なものが見えて、その白い塊は、開いた扉の隙間を抜けるなり、跳ねるようにして、シャンテ夫人の膝の上に飛び込んだ。
その白い塊はよく見ると、白いワンピース様の寝間着らしきものを着たレイラお嬢様だった。
レイラお嬢様は、ぐしぐしとべそをかいているようで、何も言わずに顔をシャンテの胸に埋めてこすりつけている。
レイラお嬢様が入ってきた大扉の開いた隙間からは、黒髪を装飾的なホワイトプリムで覆ったメイドさんが、少しばかり蒼くなった顔を覗かせている。
「あらあら、どうしたの?」
シャンテさんは、そう言ってレイラお嬢様を優しく抱きしめながら、ついと視線を上げて、扉の隙間にいるメイドさんに目顔で尋ねる。
「いえ、あの、その、お嬢様が目をお覚ましになって、少しぐずって、奥様のところに行くとおっしゃって、今はお客様のおもてなしをしてらっしゃるからと申し上げたんですが、その、一瞬の隙を突かれて、その……」
とメイドさんが答える。
「そう、わかったわ……少し落ち着くまでこっちでみるから行っていいわ」
シャンテはメイドさんにそう言うと、よろしい? とクロイムツェルトにも尋ねてきた。
はい、とクロイムツェルトが答えると、メイドさんに向き直って、
「キッチンに言って、この子にも何か軽く持ってきてやって」
と付け加えて指示した。
「はい、奥様」
そう言って扉のところのメイドさんは去っていった。
『はい、奥様』という響きも中々にすばらしい。
自分はいつも『お嬢様』ってよばれてたからなあ。『はい、奥様』『はい、奥様』、実にすばらしい響きだわ。自分もいつか言ってみたいし言われてみたいわ! などとクロイムツェルトは即座に妄想の世界に旅立っていたので、
「レイラはですな。面倒をみてくれていた乳母が事情で辞めましてね。ちょっと最近は不安定なのですよ」
リオンが不意にそう言ってきて、クロイムツェルトは、一瞬何のことか意味が分からなかった。
「あれですな。乳母というものは、子供がある程度に大きくなったら辞めることが多いようですが、乳母がいなくなるというのは、子供にとっちゃ心の傷だと思いますな」
ぐずぐずとべそをかいているレイラお嬢様のほうを見ながら、リオンはさらに言葉を続ける。
「そんなものかしら?」シャンテが相槌をうつ。
「そうに決まってるさ。私は早くに母親が死んじゃってね。乳母が面倒をみてくれたんだよ。それで、忘れもしない12歳の春のことさ。その人も家の都合でね、辞めたんだよ。ひどく悲しかったのを覚えているね。世界が崩れ落ちたかと思ったよ」
「まあ、そんなに? でもうちの実家だって乳母は何回か変わったわよ。そりゃ悲しかったし泣いたりしたけど、でも心の傷ってほどじゃなかったわ」
「そりゃあ、うちは母親がいなかったから、そこは君の実家とは違うだろうけどね。私にはレイラの悲しみがひどく胸に迫るわけだ」
「男の方は幾つになってもママが恋しいんですものねー」
シャンテが混ぜ返すと、リオンは少し気分を害したようにして、
「男だけの話じゃないと思うがね……クロイムツェルトさんは、そういうような経験はありませんかな?」
クロイムツェルトのほうに話を振ってきた。
「……そうですね」
言葉を継ぎながら、クロイムツェルトは、母親にしがみついて泣いているレイラを見やる。彼女は自分の大好きな乳母を失って泣いている。
泣いている小さな少女の姿を見ていると、クロイムツェルトは唐突に、それが彼女自身の心象風景なのだということに気がついた。
◆
クロイムツェルトが敵艦隊を殲滅して、彼女の宇宙とは違う別の宇宙に放り出されたとき、彼女は自分のメイドたちの命が救われたことに歓喜した。
けれどもそれは同時に、クロイムツェルトが彼女の愛したメイドたちと永遠に別れることをも意味していた。
別の宇宙には、地球そっくりの星。人間そっくりの生き物。ファンタジックな生物群。
まさしく世紀の、いや有史以来の大発見があった。
クロイムツェルトはそれに驚き、驚嘆し、それを探索し、調査し、分析したけれど、それは一種の逃避でもあった。
誰も知ったひとのいない宇宙に、ただ独りで居る。
真剣に考え込めば発狂しそうなその状況を、真正面から受け入れるわけにはいかなかった。だから知的興奮に逃避した。
その星を調べ、生態系を調べ、人間を調べ、言葉を調べ、あらゆるものを分析した。
けれどそうしていても限界はある。
食事はキッチンメイドが作ってくれたものではなくて、調理機から自動で出てくるものだ。
お風呂に入るときにも、誰も付き添ってくれない。飲み物を出してくれない。体を拭いてくれる人もいない。
寝るときには誰もそばにいてくれない。朝はだれも起こしてくれない。話しかけてくれない。抱き締めてくれない。キスをしてくれない。
脳内のセントラルコンピューターが鳴らすアラームで目覚めるときに、クロイムツェルトは、広大な自室の、大きなベッドにただひとり、呆然と身を起こす。
誰もいない。誰もいない。誰もいない。
がらんとした寝室のなかには、これ以上はないほどに恐ろしい現実が確かにあって、私は正気を失うだろう、とクロイムツェルトは自覚した。
ジーヴスをせっついて言葉の解析を急がせ、地上に降りたった。
そして、このオネット家に泊めてもらえることになり、知り合いも幾人かでき、食事に呼ばれ、と新鮮な体験に気が紛れていたところに、不意打ちのようにレイラの、乳母を失って泣いている姿を、クロイムツェルトは見た。
そこに彼女は自分自身を見た。
ああ、これは私だ、と。
クロイムツェルトは、彼女が彼女の最も愛したメイドたちと、もう会えないのだというその事実を、このとき初めて直視した。
レイラの泣いているその姿によって、まったく憐れむべき自分自身を見つめたのだった。
この世界に跳ばされてきて以来の数か月間、必死で目を逸らしていたことを、正面から見せつけられたクロイムツェルトは、総てのものの色が失せ、音を失い、価値を失っていくのを感じた。
彼女の目の前に、ただひとつ残ったのは、泣いている自分自身。
クロイムツェルトは悄然として席から立ち、レイラのほうに、自分自身のほうへ行き、背中の側からそっと抱きしめた。
頭にひとつキスを落とし、それから幾筋か涙を流した。
◆
「あの……クロイムツェルトさん?」
戸惑ったようなシャンテの声が、頭の上から降ってきて、クロイムツェルトは我に返り、世界に色と音が戻ってきた。
「……失礼しました。少し前にレイラちゃんと同じような経験をしたものですから。感情が昂ぶりました」
クロイムツェルトは言い繕う。
「まあ、そうなの……貴女のところも乳母の方がお辞めになったの?」
「そう、ですね。もう逢えないでしょう」
「まあ……」
◆
クロイムツェルトは愛するメイドたちを失った。
そして目の前にいるレイラという少女もそうである。
クロイムツェルトが泣いていたなら、彼女の愛するメイドたちはどうしただろうか?
きっと抱き締めて、慰めてくれただろう。言うまでもなくそうだ。絶対にそうだ。確信できる。
では、クロイムツェルトはどうすべきだろうか?
言うまでもなく決まっている。
だから、この子のためにメイドになろう。と、クロイムツェルトはそう考えた。
自分が王族であるせいでメイドになれないと知って涙したあの日。
その悲しみを、そのときは、はっきり言葉にできなかったけれど、いま言葉に直してみるとすればそれは、自分が大人になれないということの悲しみだったのだとクロイムツェルトは思った。
クロイムツェルトは大きな船団を率いていた。
船団の最高権力者であり、高度な意識分割で無数の機械知性を統御する船団行政のトップであり、最も有能な官吏でもあった。
クロイムツェルトは船団に付属する、正規艦隊の一個分艦隊にも匹敵する戦闘分艦隊を指揮する軍司令官でもあった。
クロイムツェルトは個人の所有するものとしては帝国内でも有数の船団を率い、巨額の商談を幾つもまとめ、船団の経済を管理する、最高経営責任者でもあった。
クロイムツェルトは周囲から課せられる責務を最期まで、よく果たし続けた。
そういう意味では彼女はもうすでに立派な大人であったけれども、それは彼女の定義するところの大人とは違う。
クロイムツェルトは彼女自身を愛してくれた人たちのようになりたかったのだ。
失った夢が今ここにある。
いかなる偶然の悪戯か、確かにここにあるのだ。残酷な現実と引き換えにしてここにあるのだ。
課せられる責任を果たすのではなくて、自ら選び取ることのできる未来がある。
そうだ。私はメイドになろう。
午前中は色つきのドレスに大きなエプロンをして、
午後は黒いドレスに小さなエプロンをして、
白いプリムを頭につけて、今こそ私は大人になるのだ。
そうだ。私はメイドになろう!
クロイムツェルトは独り決めにそう決めた。
そうして、クロイムツェルトはリオンとシャンテ、いや、『旦那様と奥様』の方を向き、
「ここでメイドとして働かせてください」
とそう言った。
◆
(なんですかそれは!? 聞いてませんよ!)
とジーヴスがなにやら叫んでいたが、クロイムツェルトはもちろん無視した。