第3話
領主さまのお屋敷というのは、そこから荷車に乗って延々一時間もいったところにあった。
幾何学模様の装飾がある錬鉄製の大きな門扉をグライフが勝手に開けて、通って、そこから一キロメートルほども、並木道を通ったり、庭園の道を抜けたり、池に沿ってまわり、小川にかかる石造りの橋を渡ったりすると、大きな建物が見えてきた。
お城とか要塞みたいな感じではなくて、見たところ、ガラスが入った大きな窓がある城館ふうの建物だったので、まあまあ平和な世界なのかなとクロイムツェルトは思う。
そこからまた三百メートルほど行って、それからやっと屋敷の正面玄関の前に来た。
お仕着せを着て、腰に剣を佩いた門番の男の人が二人、玄関の両側で立っていて、こちらに気付くと、年嵩のほうの人が、
「ああ、グライフさん、どうしたんですか」
と声をかけてきた。
「いやなに、旦那様にお客さんさね。こっちのお嬢ちゃんが、女一人で町の宿に泊まるっていうんで、連れてきたんだよ」
「こんにちは、クロイムツェルトといいます」
挨拶をしておく。
「そういうわけだから、旦那さまか奥様に取り次いでくれんか」
年嵩の門番の人が、お屋敷のなかに引っ込んで、しばらくしてから、白いシャツにタイを着けて、白いベストに黒いズボンと黒のテールコートを着た、まさしく執事みたいな人と一緒に出てきた。
「ご案内いたします」
執事はそう言って、屋敷のなかにクロイムツェルトを案内し、グライフはそれを見届けると元来た道を帰って行く。
クロイムツェルトが背中に礼の言葉をかけると、グライフは振り向きもせずに、片手だけあげて去って行った。
◆
それから、クロイムツェルトは猫足の立派な机と椅子が置いてある、応接室らしきところに通された。
その応接室の猫足の椅子には、灰色の瞳に灰色の髪で、鷲鼻の口髭を蓄えた壮年の男性と、褐色の髪と瞳で、垂れ目でふっくらした感じの、ふわふわして優しそうな感じの女性が座っていた。
男性のほうは白のシャツに焦げ茶の長ズボンと皮の靴を履いて青のベストを着ていた。
女性の方は濃い緑と前側に橙を組み合わせたドレスの腰に幅広の茶色い皮帯を後ろから締めて、組みひもを使って前で止めていた。
クロイムツェルトは、この周辺の衣服に関する画像データーのサンプルを、下位の分割意識内でくるくると回転させながら、比較してみる。
まあ、この周辺地域の一般的なものと比較すれば、目の前の夫妻はかなり良い衣服を身に着けているのはわかるが、周辺の支配階層の人々の衣服と比較すると、わりと簡素なすっきりした恰好をしているのが分かる。
多分、ご領主と奥方だろうか。彼らは立ち上がって話し出した。
「当屋敷へようこそ、私が当屋敷の主人、リオン・デ・オネットです。こちらは妻のシャンテです」
クロイムツェルトが部屋に入っていくと、すぐに立ち上がって挨拶をしてくれるあたり、割と偉ぶったところがなく、腰が軽い印象がある。
「……私はクロイムツェルトといいます。こちらでしばらく滞在させていただけないかと思いまして、訪問させていただきました」
「……なるほど、いかほど滞在のご予定かな?」
「いえ、まだ何も決めていません」
そう答えると、リオンの眼が少し警戒するように細められた。
まあ、確かに素性の知れない人間が滞在させてくれといってきて、好意で泊めたら、そのままずっと居座られたなんてことになったりしたら困るだろうとクロイムツェルトも思う。
そこでジーヴスが持たしてくれた、金や銀や銅の小粒のことをクロイムツェルトは思い出して、その革袋を腰帯から取り外して、リオンに押し付けて言った。
「これを費用にあててしばらく滞在させて頂けないでしょうか」
リオンは、革袋の中を覗くと、ちょっと驚いた様子を見せてから、それをクロイムツェルトに返して、少し警戒を解いた様子で言った。
「よろしい、お泊めしましょう。このあたりは田舎ですからな、あまり宿もたくさんはありません。ですから、旅行者の方をお泊めするのは当屋敷の慣例でもあるのですよ。あまり滞在が長期になるようでしたら少し費用をいただくことになるかもしれませんが、さしあたっては、無料でおもてなしを致しますぞ」
それからしばらく世間話みたいなものをした。リオンとシャンテは、クロイムツェルトの素性や、旅行の目的などを聞きだそうとしていたけれど、クロイムツェルトの正体については、相手に理解してもらえるように話すのは不可能なので、どこか不明瞭な感じの会話になった。
それと、クロイムツェルトは、シャンテに、女性の一人旅というだけでも危険なのに、金の粒とか高価なものを不用意に人に見せてはいけないとたしなめられた。
それからは、クロイムツェルトは部屋に案内されて、荷物、といっても革の大きな鞄ひとつだけなのだが、それをベッドの下に放り込んで、外套を脱いで衣装掛けに掛けたところで、ノックがあって、はい、と返事をすると、灰色のドレスに白いエプロンとキャップを着けた、背の高い美人のメイドさんらしき人がお茶とお菓子を積んだワゴンを押して入ってきた。
あっ、メイドだ。
とクロイムツェルトは、内心の喜色をキャラとしての無表情の裡に隠して、表に表すことこそなかったが、上位、中位、下位の意識を統括して、船団・艦隊の全部を細部まで把握する働きをする、二十四ある最上位意識を、そのうち八つも割いて、彼女を観察にかかった。
何故ならクロイムツェルトは重篤なメイド好きだからである。
彼女は、身の安全を確保するため、これまでの生涯のほとんどを離宮船に籠って過ごしてきた。
そして、その分だけ一人遊び用の趣味が多かった。
宇宙艦隊を操作してその戦術を競うオンラインシミュレーションゲームは、帝国内でも十指に入る腕前であったし、また、そのシミュレーションゲームの一環として彼女が設計した戦闘艦は、帝国兵部省の次期主力戦闘艦の制式採用候補になったほどだ。
さらに造園や建築設計にも造詣が深く、帝国内外で幾つかの賞を得ている。
脳に対して強化手術を十分に施された人間は、とりわけクロイムツェルトのように、艦隊指揮用に、最上位、上位、中位、下位と別れた極めて高度な意識分割を施された人間は、ときに数千もの意識を同時に使い分ける。
それはつまり常人よりも、学習や思考のリソースが数千倍多いことを意味し、故に彼女の様な人間は、年齢の割には極めて大きな実績をあげることが多い。
しかし、そのような人に評価され認められる趣味以外にも、彼女は自分だけの密かな趣味を幾つか持っており、その一つが、メイドについての資料の蒐集、研究であった。
旧地球のイギリスにおけるビクトリア女王、エドワード王の時代を中心としたメイド関連資料、ひいてはその当時のメイドをよく理解するための当時の社会・風俗に関する資料の蒐集。
さらには、そこから百年ほどの時間が過ぎて、極東の島国である日本に飛び火し、元々が何であるかが分からなくなるほど変形して花開いたメイド文化。
その総てについて、クロイムツェルトは、時にオンライン上の電子の海を漁り、またあるときには義体を使って現物を入手し、と極めて網羅的に資料を収集して分析しているのである。
彼女はその知的蓄積の総てを駆使し、眼前のメイドを観察する。
それはもう穴があくほど。
そして、ああ、うちのメイドの制服と似てるなあ、とのわりかしどうでもいいような感想を抱く。これもジーヴスの言っていた文化の類似している部分というやつであろうか。
メイドの彼女はお茶を用意してくれている。
彼女がきびきび動く姿を、クロイムツェルトは、なんだかうれしくなってぼんやりと眺めていると、
「どうぞ」
と目の前に紅茶を置いてくれた。
「ありがとう」
クロイムツェルトはそう言って、にっこりすると、メイドの彼女は小さく微笑み返してくれた。
ああ、やっぱりメイドは好い……と、メイドが対人関係のほぼ全てであったクロイムツェルトは思う。
離宮船にあるメイド達のロッカーでも適当に漁れば、予備の制服くらいあるかもしれない。今の自分には、特にしなきゃならないことも無いから、いっそここでメイドとして働こうかしら、ともクロイムツェルトは思う。
◆
クロイムツェルトを邸に泊めることにしたリオン・デ・オネット副伯爵は、もともとは大きな商家の出であった。
けれども、貴族趣味にかぶれたリオンの父が、リオンが10歳の時に、副伯の爵位を買い、それにともなってリオンも貴族になった。
リオンの父の貴族かぶれは、爵位を買うことのみならず、貴族風の生活を実践することにも及んだ。家の中でもまるで外出でもするかのようなきちんとした身なりで生活することもそうであったし、夕食を正装してとること、四六時中、社交の集まりや催しを開いたり、招待されたりすること、用途がそれぞれに定められた部屋を、一日の“正しい”スケジュールにしたがって、渡り歩いていくような生活をおくること、そして喜怒哀楽の感情をあまり面に出さないようにすることもまたそうだった。
リオンも十歳のとき以降、父に合わせて、父の願いどおりに、そのような生活をして成長し、少なくとも表面上は謹厳な、まさしく貴族的な男に成長した。
リオンは二十六歳のときに結婚した。
リオンの父が生きていれば、何としても貴族の娘をリオンの嫁に迎えようとしたであろうがリオンはそうしなかった。そのとき既にリオンの両親はともに亡くなっていたし、リオンが結婚の相手を探すなかで、貴族の娘というものに良い印象を持たなかったからだった。
リオンからすれば貴族の令嬢は気位が高く思えた。
投射晶術や晶体術をはじめとした、武威に優れた個人とその家系を、体制の側に取り込み、社会を安定させることが、貴族制度のそもそもの成り立ちであったから、そのような戦闘の技術をなんら持たない新興の商人上がりのオネット家が、相手の貴族や、その家の令嬢に軽く見られるのは、ある意味では当然ではあった。
それでリオンは中堅どころの商家の娘であった七つ年下のシャンテを妻として向かえた。
そうして、リオンの、すなわちオネット家の生活は変わり始めた。
はじめのうち、シャンテは夫の家の家風にあわせて様子を窺っていたが、そのうちに彼女は、徐々にオネット家の生活を貴族風の堅苦しいものから、彼女の実家のように、あるいはリオンの小さかったころのように、夫婦でくつろげる気楽なものに変えはじめた。
例えば、彼女は、夫と自分の衣服を貴族らしく堅苦しいものから、簡素なものに替えたし、食卓も静かなものだったのが、シャンテの盛んなおしゃべりを伴うものにかわった。
用途それぞれに定められた部屋を用いる習慣もやめて、彼女は夫婦の寝室に、茶箪笥と茶器、書棚に本に、お気に入りの楽器やボードゲーム、お酒やちょっとしたお菓子なんかを持ち込んで、寝室をくつろげる巣のようにしてしまったのもそうである。
このシャンテの、寝室になんでも持ち込むというやりかたは、見方によってはだらしない習慣とも言えるけれど、リオンは、貴族風の教育のせいで、あまり表情には出さなかったけれども、この寝室をとても気に入っていた。
シャンテと一緒にこの部屋に入ると、暖かいというか、気持ちがほぐれるというか、のんびりできるというか、父が死んで以来、自分のほかには使用人たちだけしかいない屋敷で、自分がどれほど孤独に寒々とした思いを抱えて生活していたのかを、思い知る様な気がするのだった。
つまり、この寝室はリオンにとって、自分の家である屋敷のなかにある、本当の自分の家というようなものだった。
そういうわけで、リオン・デ・オネット副伯爵は、クロイムツェルトを応接してから、妻のシャンテ・デ・オネットと共に、のんびりくつろぐために寝室へ引き上げた。
リオンが貴族らしく表情の出ない顔で、手ずから紅茶を入れてくれている妻の白い手を、のんびりと眺めていると、
「ねえ、あの子のことどう思う?」
シャンテがそう話しかけてきた。
「ふむ……」
印象として、最初に思い浮かんだのは、あのクロイムツェルトと名乗る少女は、とても可愛らしく、人形か美人画のように整った、綺麗な顔立ちで、ほとんど怖いくらいだったということだったけれど、そんなことを言って妻にあらぬ誤解をうけるのは嫌だったので、
「……育ちが良さそうで、世間知らずな印象を受けたし、たかりや泥棒なんかではないと思う。歳だってまだ十四か十五かそのあたりだろう」
と用心深く答えた。
「そうよねえ! 泥棒なんかじゃ絶対ないわよ。手も爪もすっごいきれいだったし、あの服だって質素な感じにしてあるけど、あれ良いものよ。それにあの綺麗な顔! もうほとんど妖精よねえ。森族だってあんなに綺麗な娘はいないんじゃないかしら。それに黒曜石みたいに輝く瞳! 闇夜みたいに黒いのに光の輪ができるくらい艶のある髪! ああ、もう完璧だわ!!」
シャンテは胸の前で両手を握りしめて悶えた。
オネット副伯爵家の使用人を採用するとき、男性使用人についてはリオンが行っているが、女性使用人の採用は妻のシャンテが行っていた。
使用人を選考するときの基準は、もちろん面接しただけではわからないことも多いが、第一には正直さで、あとは仕事ができそうな順に選んでいく。けれどもシャンテの場合は、どちらも同じくらい良さそうだと思ったら、必ず美人のほうを採用するのをリオンは知っていた。
つまりシャンテは美人、とりわけ美少女好きなのである。
普通、妻というものは夫の浮気を防ぐために、メイドを不美人や初老の女性で固めたりするものではないのかな、とリオンは思わないでもなかったのだが、まあ妻が、自分を信頼、というか浮気など考えもしないくらい、のんきにしてくれているのは嬉しくもあるけれど、もう少し嫉妬深い妻であってほしいような気もしたりして、しかし取りあえずは、いつも通り表情に出さずに、
「そうか」
とリオンは短く答えた。