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splash 第3話

あたし達はまず、日陰を探してレジャーシートを広げることにした。まだ開園したばかりなのに良さそうな場所はもう結構取られてしまっていて、意外と場所を探すのに苦労した。なんとかまあまあの場所を見つけることが出来て、レジャーシートを広げて休憩場所をキープした。

それから持ってきた浮き輪を膨らませに自動式の空気入れがある所へ行ったら、こちらも長い列が出来ていた。列待ちをしながら何となしに他の女の子達の水着姿をチェックしてみた。みんな色とりどりの鮮やかで可愛い水着を着ていて、或いは可愛くてそれでいてセクシーな(よくいうところのエロかわいいってやつ?)水着を着ていて、買った時はベストな一着だってご満悦だった水着も、何だかありふれたものに見える気がした。

「どうしたの?」

俯いていたら匠くんに声をかけられた。

「ううん、別に」

ちょっと無理やり笑顔を作って答えた。

「そう?」

腑に落ちない感じで聞き返す匠くんに、「うん」って頷くだけだった。

不意に匠くんは顔を寄せて来た。屈みこんであたしの耳元で小さな声で囁いた。

「やっぱり萌奈美の水着姿が一番可愛いよ」

突然匠くんがそんなことを口走ったのでびっくりした。

目を瞬(しばた)いて匠くんの顔を見ると、匠くんの顔は笑っていたけどふざけてなんていなかった。

「すごい可愛くてドキドキする」

更に耳元で囁いたので、みるみる顔が熱くなった。そんなこと囁かれたらあたしの方がドキドキするってば!

つんと背中を突付かれたので慌てて振り返ったら、後ろに並んでた千帆がしっかり聞いてたみたいでニヤニヤして笑っていた。隣の宮路先輩もご馳走様っていう顔で笑っていた。

もお、匠くん!友達がいるのに突然そんなコト言わないでよ!恥ずかしくて困るよ!心の中で匠くんに抗議した。

心臓が止まるかと思った。でもやっぱり本当はすごく嬉しくて、今度はあたしが匠くんの耳元に顔を寄せて囁いた。

「もう、恥ずかしいよ」

そのまま匠くんと腕を組んで寄り添ってしまった。後ろからやれやれって感じの視線を浴びてるような気もしたけど、そんなの全然気にしなかった。


浮き輪を膨らませてから波のプールへやって来た。気温は34度を超えているのにプールへ入ったら水はすごく冷たくて、入ってすぐはその冷たさにみんなひえーって悲鳴を上げて身を竦(すく)ませていた。

プールなのに波が打ち寄せて来るのが面白かった。あたしは浮き輪に捕まりながら匠くんにしがみついて、波が打ち寄せる度に上下するのに身を任せて楽しんでいた。

その後、噂のウォータースライダーに挑戦した。いざ階段を登り、スタート地点まで来たらそのパイプの長さを改めて実感して、急に胸がどきどきして来た。かなり高いし。スライダーは三本あって三人ずつ一斉に滑るようになっていた。人数からあたしと匠くんと春音、次の番で結香、誉田さん、冨澤先生、最後に千帆と宮路先輩っていう順になった。

どきどきしながら待っていると、次がいよいよあたし達の番になった。

ちょっと緊張した顔をしていて、匠くんが傍に来て「大丈夫だって」って軽い口調で励ましてくれた。

「うん」

頷いて息を吐いた。少し気が楽になった。見ると春音は一人涼しい顔で遥か下の方を見ている。流石は春音。滅多なことでは動じない。

「次の方どうぞ」

係員の人の声に、あたしと匠くんと春音はパイプに手をかけて入り込み身体を寝かせた。そして指示されたとおりに胸元で手をクロスさせ、爪先もクロスさせた。そして身体を少し前に進ませると水の流れで滑り出し、後は落下の慣性でどんどん速度が増して行った。

途中までは楽しい気分でいられたけど、余りの長さに段々と不安を感じ始め、おまけにスピードも上がっていく一方で少し恐怖を感じる位だった。

怖いって思った次の瞬間、下に到着してパイプから吐き出されたあたしは、水中で一瞬上も下も分からなくなって、混乱して口を開いてしまい水を飲んでしまった。なかなか水上に出られないで恐怖を感じたその時、ぐいっと水上に引き上げられた。げほげほと咳き込みながら周りを確認したら、匠くんが両脇を抱えてあたしを助け起こしてくれていた。

匠くんはひどく心配げな面持ちをしていた。

「大丈夫?」

まだけほけほと咳をしながら、でもほっとして笑顔を作って「うん。大丈夫。ありがとう」って答えた。

「次の人達が来ますから」注意する係員の人の言葉に、あたしは匠くんに抱きかかえられるようにしてプールから出て、観覧エリアに移動した。

一足先に移動して来ていた春音が近寄ってきた。

「萌奈美、大丈夫?」

少し心配そうな顔をしていたので、出来るだけ平気そうな笑顔を作った。

「うん。ありがと」

そう言えば春音もあたし達と一緒に滑った筈で、確かに身体からは水が滴っていたけど、でも大して乱れた様子もなく平然としていて、一体どういう滑り方をしたんだろうって不思議になった。

やっと気分が落ち着いて来て、「思ったより長くてすごかったね」って笑いかけた。

ほっとしたように匠くんは笑い返した。

「うん。思ったよりスピード速くて、最後の方なんて少し不安になった」

「あ、匠くんも?あたしも、恐くなっちゃった」笑い合っている所に、けたたましい悲鳴(結香の悲鳴だった。)と共に結香、誉田さん、冨澤先生が滑り降りて来て、全員揃ってパイプから勢いよくプールに放り出されていた。

冨澤先生は勢いの余り逆さになって上下分からなくなってしまったみたいで、半ば溺れているんじゃないかって感じでじたばたもがいているのを見て、春音が指をさしてけたけた笑っていた。そこには恋人を心配する気配は微塵も感じられなかった。

春音を笑わせるなんて流石は冨澤先生・・・って言えるんだろうか?この場合?

冨澤先生は下に待機している係員の人に救助されるようにしてプールから這い上がって来た。結構水を飲んでしまったみたいで、まだ激しくげほげほと咳き込みながら力なく笑っていた。

「いや、これは結構スリルあったね」

「そう?あたしはこんなに笑えると思わなかった」

まるで駄目夫と鬼嫁の夫婦漫才のようだって二人を見ながら思った。

最後に千帆と宮路先輩が滑り降りて来て二人とも大笑いしながら上がって来た。

結香、誉田さん、千帆、宮路先輩の四人は更にスピードの出るスライダーに挑戦しに行ったけどあたしは遠慮しておいた。

匠くんにあたしのことは気にしないで行ってきていいよって言ったけど、匠くんは別にいいよ、って言ってあたしの傍にいてくれた。

冨澤先生もさっきので懲りたのかやめておくって辞退した。春音は恋人を気遣う素振りもなく、結香達と一緒に行ってしまったのは言うまでもなかった。一人ぽつんと取り残されてしまった冨澤先生が他人事ながら憐れを誘った。

あたしと匠くんと冨澤先生はウォータースライダーの観覧エリアで滑り下りてくる人達を眺めながら、結香達が滑って来るのを待っていた。階段の上の方には行列が出来ていて、滑り降りて来るにはまだ時間がかかりそうだった。

「あの、冨澤先生」

冨澤先生にぽつりと声をかけた。

「はい?」

「えーと・・・」

聞きたいことは沢山頭の中に浮かんでいたけれど、聞いてもいいかどうか躊躇っていた。

「春音のことかな?」

冨澤先生は気付いていて先生の方から切り出してくれた。

「何が聞きたい?馴れ初めとか?」

「・・・はい、それもあります」

「そうだね・・・春音は、すごく自分を嫌っていたように見えたな、あの頃」

先生は少し遠い目をして話し始めた。あの頃・・・春音と出会った頃の事を思い出しているみたいだった。

「自分を嫌ってた?」

よく分からなくて聞き返した。

「うん。自分を嫌っていて、でも嫌っている自分以外にはなれなくて・・・だから、嫌いな自分を半ば憎みながら、自分を諦めているように思えた」

そう話す先生の口振りはさらりとしていて、聞いているとそれは全然大したことじゃないように感じられる位何気ない口調だった。

だけど、先生が春音と出会った頃、それはあたしが春音と出会った頃でもあった。それなのにあたしは春音のそんな心の有り様には全然気付いていなかった。ただ、周りのみんなより大人びていて、高校一年生にしては何だかすごく醒めているなっていう印象を持っただけだ。

初めは冷たい感じの態度が苦手だったことを覚えている。市高に入学して、同じ中学出身のコがクラスにいなくて、ちょっと不安に感じていて、たまたま前後の席になったのだった。あたしの席のすぐ後ろだった春音は、クラスの中でも話をしなかったし笑わなかった。それで不安を感じながらも、せっかくクラスメイトになってしかも席が前後になったんだからって思って、何度か笑って話しかけてみたんだった。でも春音は愛想笑いひとつ返してくれずに、とても素っ気無い口調で二言三言返事をして、またすぐ開いていた文庫本に視線を落としてしまった。まるであたしの存在なんか関知していないかのような素振りだった。春音の取った態度がショックで、その時春音の事を苦手な人だって意識したんだった。できるだけ彼女と関わり合うのをやめようって思った。

冨澤先生の言葉に、春音と出会った頃の幾つもの場面を思い出していた。

冷たくて付き合いづらい人。あたしが春音をそう思っていた時、冨澤先生は春音の中にそんな姿を見ていたんだ。すこしショックを感じていた。

「それが何故なのか、不思議だった。とても。何か過去の原因があってそうなってしまったのか気になって。何だかとても気掛かりだったな」

先生はあたしの動揺には気付かずに話を続けた。

手摺を握った自分の手が小刻みに震えているのを見つめていた。

すっと、あたしの震えている手を覆うように重ねられた温かい手。

はっとして隣を見上げた。

匠くんがあたしを見つめていた。重ねられた手にぎゅっと力が込められ、あたしの震える手を強く握った。冷えた指先が温もりに包まれる。あたしは安堵して目を閉じ大きく息を吐いた。

先生の声がまた聞こえて来た。

「いつの間にか何かにつけ春音に話しかけるようになっていたんだ。まあ、話しかけるのに副担任という立場もあって助かったな。それに彼女一年の時、図書委員だったでしょ。僕も図書委員会の担当していたんで、意外と接点があったんだよ。そうそう、彼女、休み時間とかにも熱心に読書していたし図書室の本もよく借りてたし、本の話題を持ちかけると、無愛想ながらぽつぽつと返事をしてくれて」

そうだ。春音は休み時間、自分の席でずっと読書をしていた。文庫本だったり図書室で借りた本だったり。お昼休みも誰とお昼ご飯を一緒に食べるでもなく、一人自席で持ってきたお弁当を食べ、終わるとすぐに本を開きずっと読み続けていた。

読書が好きなんだなって、ちょっと気になっていたんだ。あたしも本を読むのが好きだったから、何を読んでいるのかなとか、あ、あれ村上春樹だとか、苦手だったけれどとても気になっていたんだった。ねえ、それ面白い?あ、それあたしも読んだことある・・・本当は話しかけたくてたまらなかった。あの頃、すごくもどかしかったな。その頃を懐かしく思い返していた。

「段々と僕を見る最初のうざったそうな視線も諦め顔になって、それなりに会話を続けてくれるようになって、僕の粘り勝ちというところかな」

先生はそう言って、ははは、って自分に呆れたような笑い声を上げた。

その時の先生の涙ぐましい努力が想像できた。先生は本当に打たれても打たれてもけっしてめげない性格だったのだ。あたしは先生を心から尊敬した。

「それで、原因はあったんですか?自分を嫌ってた」

匠くんが口を開いた。

「いや、何か明確な原因や理由は結局分からなかったんですよね。なんて言うんだろう、気付いた時には芽生えていた自分に対する違和感、猜疑心、不信・・・」

そう先生は呟くように語った。

「理由がないだけに出口が見えなかったりしますよね。自分自身に対する不信感故に、考える全てが空虚にならざるを得なくて自分を否定するしかない。自己批判、自己否定さえ自分を救済しようとする詭弁になる」

匠くんのその言葉は何処となく匠くん自身に憶えがあるかのような感じに聞こえた。

冨澤先生はふっと笑って匠くんのことを見たようだった。その言葉に潜む自嘲の色を感じ取ったみたいだった。

「・・・僕は春音をほっとけなかった。何かきっかけでもあれば自分に対する否定は具体的な現実の形を取りそうに見えて。なんでもいい、毎日ちょっとでも気晴らしになること、馬鹿みたいに思えること、気が紛れること、それで彼女を救えるかも知れないと思って。だから、本当にくだらないこと些細なことで彼女に話しかけて接してた。まあ、あんまりくだらないこと喋って彼女から白い目で見られることも都度都度あったけど」

そう話して先生はまた笑った。

「実際、世の中なんて思ってる以上にくだらない事の集積で出来上がっていると思いますけどね」

そんな皮肉っぽいことを匠くんは言った。

・・・時々、匠くんはこういう話し方をする。あたしにはそんな顔見せたりしないけど、知ってる。こういう事を言う時の匠くんはとても沈んだ眼をしている。そこには何も映っていないみたいだった。あたしさえ映っていないように思えた。

そんなことを言う匠くんが不安で、そんなことを言う匠くんが嫌で、眉間に皺を寄せて匠くんを見た。

あたしの視線に気付いた匠くんは表情を和らげた。あたしを安心させる笑顔を浮かべた。匠くんの瞳にはちゃんとあたしが映っていた。

あたしは安堵して笑い返し、匠くんは無言で頷いてくれた。

重ねられていた匠くんの手に指を絡ませて、今度はあたしからぎゅっと握り返した。

「教師としてはあるまじき事だけど、僕は彼女を好きになった。僕の存在で彼女の日々を救えるのなら、それも教師としての務めのひとつかな・・・とは勝手な言い分かな。まあ弁解はしないけど。彼女への想いは真実だと自負してるから。僕はあらゆる手段を使って彼女を現実に繋ぎとめたいと思ってる。彼女の魂を救いたいと思う。肉体的なものも含めてあらゆる手段で。肉体的な快楽は刹那的でもあるけど、極めて強い現実との接点をもたらすから。それで責任を取れというならその覚悟はあるつもりだ。ただし、春音と離れるつもりは絶対にないけど。どんな責任を負うにしろ、春音の傍にいるつもりなんだ」

先生の言葉はゆるぎない意思を伝えていた。

春音は幸せだって思った。こんなに想ってくれる人が傍にいてくれるんだから。

砂漠のように乾ききった心を潤してくれる人がいたから、だから春音は変わったんだ。初めて春音の変化の訳が分かった。あたしが出会った時と春音は変わった。段々と、少しずつ、ちょっとずつ。

「でも、春音を変えて、救って来たのは僕だけの力ではないんだよ」

急にそれまでとはうって変わった親し気な口調で先生は語りかけて来た。

あたしは突然でびっくりして目を瞬(しばた)いた。

「阿佐宮さんがいてくれたからなんだよ」

先生はそう言った。でもあたしには全然理解できなかった。あたしがいたから?どうだっていうんだろう?

あたしが驚いているのを見て、先生はおや?っていう顔をした。

「・・・なんだ、阿佐宮さんは気が付いてなかったんだ」

気が付いてないって、だから、何を?あたしは訝(いぶか)しんだ。

「春音は言ってたよ。・・・僕のことはちっともそうは言ってくれないんだけどね。ちょっとひどい気もするけど、まあ、それは置いといて。春音が変わったのは阿佐宮さんがいたからだって」

「は?あたし?」

全然訳がわからなかった。

「うん。阿佐宮さんと同じクラスになって、席が並んでたよね」

あたしは頷いた。

「僕も見ていたから知ってるんだけど、あの頃の春音はクラスの中で浮いた存在で、ひたすら本を読んでいて、一人きりだったろ。誰とも口をきかず、笑ったりもしなかったよね」

もう一度あたしは頷いた。あたしと先生はあの頃の同じ春音を知っていた。

「かなりの意地っ張りだよ。何月くらいまでそんな感じが続いてたかな?5月?6月?」

少し考えてから答えた。

「多分、5月の半ばくらいだったんじゃないかなって思います・・・」

冨澤先生は全く呆れたって感じの笑顔を浮かべた。

「そうだったっけ。ねえ、すごい頑固だよね、彼女って」

それにはあたしも同感だったので頷いておいた。

「で、5月の半ばになる訳だけど、自習になった時だったよね、突然阿佐宮さんが春音に話しかけて来たって」

ええと・・・そうだったっけ?


確か雨が降っていた日だった。

化学の授業が自習になってプリントが配られた。先生はいなくなってしまったので、さっさとプリントを終えた生徒は教室のところどころでグループを作って喋っていて。あたしもプリントを終えて手持ち無沙汰できょろきょろしていたら、やっぱりプリントを終えて何時ものように読書を始めていた春音が気になった。その時読んでいたのは図書室から借りてきた本で表紙が見えた。村上春樹さんの『海辺のカフカ』だった。

「ねえ、村上春樹さん好きなの?」

前にも村上春樹さんの本を読んでいるのを見たことがあった。

春音はついと顔を上げた。

「・・・別に」

「でも、前も村上春樹さんの本読んでたよね?」

その時読んでいたのは確か・・・

「確か『ねじまき鳥クロニクル』だったっけ?」

あやふやな記憶を辿って言う。春音は黙っていた。ちょっと挫けそうになる気持ちを踏ん張って、もう一度口を開いた。

「あたし、『ノルウェイの森』が好き。あと『スプートニクの恋人』も読んだよ」

「ふーん」

・・・そ、それだけ?もうちょっと感想とか、言ってくれないの?

「ええっと、志嶋さんは好きな作家とかって誰?」

「・・・別に・・・」

「え、でも、いつもそれだけ本読んでるんだから、誰か好きな作家とかいるんじゃないの?」

好きな作家がいないなんて信じられなくて目を丸くして聞き返した。

「ちなみにあたしは瀬尾まい子さんとか川上弘美さんとか結構好き」

「ああ・・・川上弘美は何冊か読んだ」

ぽつりと呟いたのを聞き逃さなかった。

「ほんと?何読んだの?」あたしは畳み掛けるように聞いた。

「・・・『蛇を踏む』と『光ってみえるもの、あれは』あと『物語が、始まる』」

春音は警戒するかのような眼差しをあたしに向けながら答えた。

「あたしも『光ってみえるもの、あれは』読んだ。あと『古道具 中野商店』と『おめでとう』も。川上さんの文章とか心地よく感じられて好き」

「そうなんだ」

春音の返事は素っ気なかったけど、それでも何処となくいつものにべもない感じが和らいだような気がした。

「ねえ、瀬尾まい子さんて知ってる?すごくいいよ。気持ちがじんわりするっていうか、ねえ、もうちょっと力抜いてもいいんだよ、甘えてもいいよ、ってそんな感じ。すごく素敵なの」

一人で勝手に勢い込んで語りかけた。

「ね、今度読んでみて。あたし貸してあげるから」

半ば強引に話すあたしに、春音は二の句が告げなかったみたいだった。

「ね、絶対」

にっこりと笑った。

「・・・はあ」

対照的に春音は根負けしたかのような浮かない表情をしていたのに、あたしはちっとも気付かなかった。

次の日、鞄に瀬尾まい子さんの文庫本を四冊も詰め込んで持って行き、春音に差し出した。

辟易としている春音に向かって得意顔で説明した。

「これが映画にもなった『幸福な食卓』。ミスチルの『くるみ―for the film-』良かったよね」って一人盛り上がって喋った。(あとで春音から映画は観てなかったって聞いた。)

「『優しい音楽』は短編集。『図書館の神様』これ、部員一人の文芸部の生徒と顧問の先生の話で面白いよ。『卵の緒』はデビュー作なんだって」

一通りの説明を終えたあたしの顔と、机の上に並べられた文庫本を見比べてから、春音はただ一言「ありがとう」って呟いた。


「よく憶えてるんだけど、春音がイラッとした顔で言ってたよ。勝手に押し付けて来て貸してあげるって、どういうつもりなのかって」

くすくす笑いながら冨澤先生がその時の真相を明かしてくれた。

あたしは今になって知ったその時の春音の心境に冷や汗をかいていた。

「でも、満更でもなかったみたいだよ。阿佐宮さんが瀬尾まい子さんの本の印象を評して春音に言った、もうちょっと力抜いてもいい、甘えてもいいって言葉、偶然にも春音は自分に言われたみたいに感じてどきっとしたって言ってた。春音、阿佐宮さんが貸してくれた四冊、一気に読んでたみたいだよ」

そうだ、確か二日位で返してくれたので、もう全部読んだの?ってびっくりしたんだったっけ。

どうだった?って聞いたら、春音、「たまにはこういうぬるいのもいいかもね」って言ったんだった。ちょっとカチンと来るような返事だったけど、でも言葉の割にはその口調に嫌味を感じなかったのを覚えている。

それから「志嶋さんもいい本あったら教えて」ってお願いしたら、島田雅彦さんって人の『僕は模造人間』『天国が降ってくる』っていう二冊を貸してくれて、読んだけど何だか奇妙でよく分からなかったんだった。それでお返しに佐藤多佳子さんの『しゃべれどもしゃべれども』を貸して上げて。

・・・そんな感じで少しずつ春音とは本を貸したり借りたりして、春音はあたしには難しく感じる外国の作家の本や純文学まで広範囲に読んでいて、ちょっとついていけないところもあったけれど、すごく色んなことを知っていて、段々と話すようになって、すごく深い考え方を示してくれて、何かの折にあたしが物語を書いているのを打ち明けて、春音がそれを読んで(春音だけに)きつい、けれども深く掘り下げた指摘をしてくれて、落ち込みと励みで気持ちが浮き沈みして。でもその分鍛えられてるような気がした。

そう言えば、ふとした時に春音は言ってくれたことがあった。

「萌奈美の書く話、あたし好きよ。すごく頼りなくて儚げだけど、でも萌奈美の書く話には、希望があるよね。それがどんなに頼りなくて儚げでも、萌奈美はそれを信じているよね。あたしの中にもそれを信じたいって思ってる自分が確かにいる。萌奈美の話を読むとそう思う」

不意にそんなことを言われてびっくりして何も答えられなかった。春音もそう言ってあとは何も言わずに黙ってしまって。

夕方の部室に二人っきりだった。あたし達はお互い無言でしばらく見つめ合っていたっけ。(その後、妙に気恥ずかしくてぎこちない感情のまま二人して無言で帰ったんだった。)

あの時の春音の言葉が甦っていた。


「春音は僕には打ち明けてくれるんだけど、阿佐宮さんがいるから信じられるって。阿佐宮さんが信じていることを信じてる、阿佐宮さんを信じてるって、いつだったか話してくれたんだ。僕としてはちょっとうらやましいというかヤキモチを焼きたくなる」

冨澤先生はちっともそんな感じではなく、穏やかな笑顔であたしに笑いかけていた。

「・・・でも、それを打ち明けられるのは冨澤先生だけなんですよね。春音にとってそういう弱味を見せることができるのは冨澤先生唯一人なんですね」

あたしは思った。

「あ、やっぱり?春音が弱味を見せてくれるのは僕一人だけだろうとは実は思っているんだけどね」

ずるっ。何処まで本気で何処まで冗談なのか、いまいち掴めない人だ、冨澤先生って。

「でも、その割には志嶋さんの冨澤さんに対する態度ってあんまりじゃないですか?とても心を許してる相手への接し方じゃないように見えますけど?或いは恋人に対する待遇でもないかと」

匠くんがそう言ったけど、冨澤先生は涼しい顔で笑って答えた。

「いやいや、春音は筋金入りの照れ屋だからね。ほんとは優しい子ですごく可愛い子なんだけど、みんなの手前、恥ずかしがってあんな態度を取ってるんだよ。僕にはちゃんと分かってる」

冨澤先生は幸せそうな笑顔で言っていた。

・・・果たしてそうなのかはちょっと疑問だった。・・・冨澤先生は心から春音を理解しているのか、それとも果てしなく脳天気な性格なのかよく分からなかった。

呆れた眼差しであたしが冨澤先生を見ている横で、匠くんは手摺に突っ伏していた。微妙に肩が震えている。・・・笑いを堪えているんだった。


スライダーを滑り降りて来た結香達と合流し、そろそろお昼時ってことでお昼ご飯を食べることにした。

売店で焼きそば、醤油ラーメン、フランクフルト、チャーハン、カレーライス、唐揚げ、アメリカンドッグと買い込んで、ペットボトルのお茶とアクエリアスも人数分買って、レジャーシートを敷いた場所に戻った。プールって水の中で身体を動かすので結構体力を使うのか、おなかぺこぺこでとても美味しかった。あたしはチャーハンをメインに匠くんのカレーライスも味見させてもらった。(味見というには三分の一近く食べていたけど。その分、あたしのチャーハンも匠くんにあげたんだから。決してあたし一人大食いだった訳じゃないんだから。断じて。)

「スライダー最高だったよね」

結香が本当に楽しかったっていう笑顔で言った。

「うん。また後でもう一回行こうぜ」

誉田さんも乗り気で誘っていた。

「うん、行こう行こう」結香もそのつもりみたいだ。

「千帆はどうする?」

宮路先輩が醤油ラーメンを食べていた千帆に聞いた。

「あたし、流れるプールに入りたいな」

千帆はもうスライダーはいいみたいだった。

「あたし達も流れるプールに行こうか?」

匠くんを誘った。匠くんはいいよ、って頷いた。

「春音、どうする?」

冨澤先生は春音にご意向を伺っていた。(っていう風にしか見えないんだもん、だって。)

「んー、別に。どっちでもいいけど」

出た。春音の「別に」攻撃。こう言われちゃうとじゃあどうしていいか判断に迷うんだよね。

「春音、流れるプール行こうよ?」

助け舟を出してあげた。冨澤先生がおたおたするのを見るのは忍びなかったので。

「うん、じゃあそうする」

春音は打って変わった調子であっさり頷いた。

見ると冨澤先生が所在無さげに口を開いて固まっていた。

周りでは誉田さんも宮路先輩も匠くんも必死で笑いを堪えていた。身体が震えている。結香に至ってはお腹を抱えて声を殺して笑っていた。その目にはあまりの苦しさに涙が浮かんでいる。心優しい千帆一人が声を潜めて「笑っちゃ悪いよ、笑っちゃ悪いよ」って宮路先輩に声をかけていた。

無性に春音に確認したい気持ちだった。貴女は本当に冨澤先生に恋しているの?(そう聞いたら「向こうがしつこく近寄って来るから相手してあげてるだけ」って平然とした顔で言われそうで、恐くて実際にはとても聞けなかったけど)


流れるプールはとても混んでいた。その光景を見て匠くんは「芋洗い状態だ」ってぼやいていた。それでも混んでいるのは仕方ないって覚悟してプールに入ることにした。

流れに乗って泳いでいるとすぐに前が詰まってしまって思うにように進むことができなかったけど、みんなそれなりに楽しんでいた。

あたしは浮き輪に入って匠くんの横をぷかぷか進んでいた。千帆も宮路先輩とはしゃぎながらあたし達のすぐ隣を流れている。春音はとその姿を探すと人混みを縫うように泳いでいた。それを追いかけながらもすぐ人にぶつかってぺこぺこ謝っている冨澤先生・・・面白すぎる。

匠くんがあたしに向かってこそっと「冨澤さん達とばらけよう」って囁いた。二人きりにしてあげようってことだった。・・・ただ少し気懸かりなのはいざ二人きりになったからって、あの二人が甘いムードになるかどうか疑問ではあったけれど。でもあたしだって匠くんと二人きりになりたいなあって思ってたところだった。今日はみんなの目を気にして匠くんに思いっきり甘えてないんだもん。

あたしは「千帆、あたし達はぐれるから」って言って隣の千帆と宮路先輩に手を振った。千帆と宮路先輩はすぐに理解したみたいで笑顔で手を振り返した。匠くんも二人に軽く手を掲げると、流れに逆らってブレーキをかけた。みるみる千帆達と離れ離れになっていった。

「今日初めて二人きりになれたね」

顔を綻ばせて言ったら、匠くんは少し意地悪く「朝、待ち合わせ場所までは二人きりだったよ」って笑い返した。

あたしはちょっとほっぺたを膨らませた。

「プールに来てから、初めて二人きりって言ったの」

匠くんは「あ、そういう意味だったの?」ってとぼけた返事をした。

「もおっ」

プロレスみたいに匠くんの首を後ろから絞める振りをした。

「チョーク、チョーク!」匠くんも悪乗りして水をばしゃばしゃ跳ねながら、首に巻きついたあたしの手をタップして降参の合図を出した。周りが何事かって目を丸くしている。そのまま匠くんの首にしがみつきながら声を上げて笑った。匠くんも一緒に笑い出した。

すごく楽しくて、嬉しくなって匠くんにぎゅうっと抱きついた。そしたら匠くんは「ちょっ、萌奈美」って突然慌てて離れようとしたので、不思議に思って匠くんの顔を見た。

匠くんが顔を赤くしていたのでどうしたの?って聞いたら、匠くんはあたしの耳元に口を寄せてその理由を囁いた。

「水着でしがみつかれるとなんか胸の感触とかすごいはっきり伝わってすごい焦るんだけど」

あたしがそれを聞いて忽(たちま)ち真っ赤になったのは言うまでもなかった。でも今日は匠くんを誘惑してやろうって密かに企んでいたので、その後もあたしは匠くんにべったり抱きついて匠くんを慌てさせたのだった。


あっという間に時計は午後三時を回っていた。午前中からたっぷりプールで遊んで十分満足したし、一方で身体は結構疲れを感じていた。あたし達はそろそろ引き上げることにして着替えを済ませた。

更衣室で春音に流れるプールでどうだったかそれとなく聞いてみたら、何事もなかった顔で「別に」って即答された。あ、やっぱりって思っていたら、「余計な気回さなくていいから」って釘を刺されてしまった。

「でも」春音が言葉を続けた。

「いつにも増して、冨澤の間抜けぶりが見られて面白かった。楽しかったね」

ふわりと笑みを浮かべた。

ああ、良かった。まあ、ばればれだったけど、それでも一応それなりに成果はあったみたい。あたしは嬉しくなった。

春音の話を千帆と結香も聞いていたみたいで、二人は目配せして笑顔になっていた。

「ねえ、今度はこのメンバーでディズニーランド行こうよ」

結香が思いついたように言い、千帆も「賛成」って勢いよく手を挙げた。あたしも同意したのは言うまでもなかった。

更衣室前で待っていた男性陣にそう報告すると、一様に「はあ」っていう気のない返事が返ってきた。それでも誉田さんはすぐに「うん、いいんじゃない。楽しそうだね」ってにこやかに笑って賛同してくれたのは流石だった。宮路先輩は千帆にそうなの?って確認していた。

匠くんはというと、あたしにひそっとした声で「この夏だけで何回ディズニー行くの?」って聞いてきた。

あたしはきっぱりと「何回行ったって楽しいんだもん」そう断言した。

「・・・そうですか」

匠くんは力の無い声でかろうじてそう答えた。


行きと同様に車二台に分乗して帰路に着いた。自宅の方面によって、匠くんのオデッセイにあたしと、千帆が北浦和、宮路先輩が与野ということで同乗し、上尾に住んでいる誉田さんのヴェルファイアには当然結香と、宮原の冨澤先生、大宮の春音が同乗することになった。ちょうど往きとはメンバーが入れ替わった形だった。

誉田さん達とは走っている途中で別れた。別れ際、携帯で電話してさよならを言った。

誉田さんが匠くんに「じゃあ、今度はディズニーランド行く前に一度、飲み屋で会いましょうよ」って誘っていた。

それにはすかさずあたしと結香がクレームを出した。飲み屋じゃ未成年のあたし達が入れないじゃないって抗議して、誉田さんはすぐに降参の体で「じゃあ食事会ということで」って訂正していた。

結香が「それなら良し」って偉そうに威張った口調で答えているのが携帯から聞こえて大声で笑ってしまった。

「じゃ、またね」

結香が言ったのであたしも「うん、じゃあね。気をつけてね」って答えて、千帆に携帯を回した。

千帆も「今日は楽しかったねえ。またみんなで行こうね」って告げていた。

そうやって順番に携帯を回していって代わる代わるさよならを告げて、あたし達は別れた。

与野の自宅前で宮路先輩を降ろしてから北浦和の千帆を送り、匠くんはあたしを送るため西浦和へ向かった。

匠くんも疲れているのに運転してくれてるんだから自分も頑張って起きているつもりでいたのに、千帆と別れてから間もなく、とうとう瞼が閉じてあたしは眠ってしまった。


気が付くと匠くんが自宅近くで車を停めてあたしを起こしてくれていた。

「ごめんなさい。一人で寝ちゃって」

匠くんに申し訳なくて小さくなりながら謝った。

「ん、いいよ。疲れたもんね」

匠くんは全然気にしてなくて優しく笑い返してくれた。

「・・・うん、疲れたけど、今日は楽しかったね」

匠くんに本当に楽しかった気持ちがちゃんと伝わってるかなって思いながら言った。

「今日はありがとう。匠くん」

「僕も楽しかった」

そしてちょっと言いにくそうにしていたけれど、「その、みんな、面白くて、素敵な、いい友達だね」って匠くんが言った。

こういう事を改まって言う時、匠くんはいつも少し照れくさそうで、視線が合いそうになるとふいとそっぽを向いてしまう。そんな不器用な感じで、でも大切なことをちゃんと口に出して言ってくれる匠くんが、あたしは大好きだった。

「うん。大切な友達だよ」

満面の笑顔であたしは答える。

「ありがとう。匠くん」

あたしの大切な友達をそう言ってくれて。匠くんの頬に触れ顔を寄せた。匠くんも身体を傾けた。

まだ完全には夜が訪れていなくて、誰かに見られたりしないかちょっと不安だったけど、黄昏が深くなりつつある通りは誰ひとり通りかかることもなかった。

あたし達は車の中でお別れのキスをした。いつものように。でも今日はもうちょっと親密な感じで。プールでいつもより沢山肌が触れ合って、いつもよりその体温を感じて、昨日よりもずっと親密な感じで。あたし達はいつもより長い間、いつもより親密な感じのするキスを交わした。


自宅の門扉を静かに開いて中に入った。入るとき、少し離れた所に車を停めている匠くんに向かって手を振った。運転席の匠くんが笑顔で手を振り返した。以前、家の前で車を停めて聖玲奈にばれた一件があってから、家から少し離れた位置に車を停めてもらうことにしていた。それからは匠くんは必ずあたしが家に入るのを見届けてから車を発進させるようになった。匠くん曰く「ほんの少しの距離で事件に巻き込まれることだって有り得るんだから」とのことだった。意外と心配性なんだ、匠くん。

鍵を開けて家に入る。扉を閉めてから玄関に突っ立ったまま耳を澄ませる。扉の向こうから微かに車の発進する音が聞こえて遠去かっていった。この音を聞く度にちょっと寂しくて切なくなる。

そう思っていて丁度リビングから出てきた聖玲奈に目撃された。

「何やってんの?そんなとこ突っ立って」

不審そうな眼差しで聞かれて、余韻も何もあったものじゃなかった。

「べっ、別にっ。ただいまっ」

焦りまくりながらただいまを言った。

「・・・お帰り」じと目で見られた。


お風呂に入ると、日焼けしないように気をつけて入念に日焼け止めを塗っていたのに、それでもやっぱり完璧には紫外線をブロックできなくて、水着で隠れていた部分とは明らかに肌の色に差が出来ていた。夏の思い出の代償と思って仕方なく諦めることにした。

お風呂上りの火照った身体をベッドに投げ出した。プールで一日中遊んで全身が疲れ切っていた。ぐったりとベッドに身体を埋(うず)める。

夕飯はまだだったけど、急激に睡魔が襲ってきて、あっという間に意識が眠りの中に雪崩れ落ちていった。

結局その日はすっかり熟睡してしまい、夕飯に起こしに来た香乃音の声にも全く反応せず、よっぽど疲れてるんだねってことでそのまま寝かせておいてくれて、あたしは夕飯も食べないままぐうぐうと翌朝まで眠り込んでいた。

当然匠くんへの電話も出来なかった。あとでちょっとショックだった。

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