The Picture 第1話
最初それを見つけたとき、誰かがこっそりとあたしを描いたんだって思った。
でもよく見ると、絵の右下には「T.K」っていうイニシャルのサインと一緒に、「30-Jul-2000」って日付が記されていた。2000年7月30日?今から9年も前だ。そうすると、この絵は9年前に「T.K」っていうイニシャルの、多分当時の生徒が描いたものっていうことになる。
でも、そんなことあるんだろうか?
物置のような美術準備室で、あたしがその絵を前にして固まっていたら、隣続きになっている美術教室から春音が入って来た。準備室があまりに静かで不審に思ったんだろうか。
志嶋 春音。二学年になって別々のクラスになってしまったけれど、一学年の時同じクラスで、部活も同じ文芸部に所属しているとっても仲のよい友達だ。あたしは彼女を親友だって思っている。例えて言うならアン・シャーリーにとってのダイアナ・バリーみたいな「腹心の友」って認め合える仲だと思っている。彼女の背中まで伸びた艶やかな黒髪は、今はゴムでひとつに束ねられていた。とても聡明で意思が強く年齢にそぐわない落ち着きと、世の中を達観したような(というよりむしろ諦観しているってあたしからは見えるような)冷めた考え方の持ち主だった。その17歳らしからぬ言動は周囲から浮いてしまうこともしばしばあったけれども、彼女の周囲に左右されることのない凛とした姿勢をあたしは尊敬していた。
「どうしたの?萌奈美」
そう聞いてきた春音は、すぐにあたしの視線を辿ってその絵に気付いた。
「何これ?萌奈美?」
普段は滅多な事では動じない彼女の声にも珍しく驚きの色が混じっていた。
やっぱり、春音から見てもこの絵はあたしに見えるらしい。あたしの気のせいなんかじゃなくて。
「でも、これ、日付が2000年7月30日ってなってる」
あたしは絵の右下に小さく記されたその日付を指差して教えた。
春音はえ、と驚きの声を上げた。
「2000年7月30日、って・・・9年前?」
小さく頷き返した。
春音は信じられないって顔をしている。あたしだって同じ気持ちだった。
だって、9年前に誰か、恐らくは当時の在校生が描いた絵があたしによく似ている、っていうよりもあたしを描いたとしか思えないほどそっくりなんだもん。こんな奇妙なことってある?
「これ何処にあったの?」
春音が落ち着きを取り戻した声で訊ねた。
「この中」
あたしはぎゅうぎゅう詰めに押し込まれているキャンバスの一群を指し示した。キャンバスはどれも長い間見捨てられ放置されたまま埃を被っていた。
9年前に見知らぬ誰かが描いた、あたしとそっくりな女の子の絵。
この絵を見つけた時、最初はとても驚いた。とても奇妙な事だとは思ったけれど、でも気味が悪いとかそういう気持ちは全然なかった。むしろこの絵を描いた人はどんな人なのか、とても気になり出していた。
絵の中の、あたしにそっくりなその少女は、淡く微笑みを浮かべている。彼女を形作る色彩は柔らかな優しさに満ちていた。見ているこちらも胸がじんわりと温まるような優しさがその絵にはあった。
ひと目見たときからこの絵にとても惹きつけられ、魅せられていた。
その時、自分では意識していなかったけれど、絵の中の自分とそっくりな少女との出会いが、あたしの中で何かを動かし始めていた。
「それにしても、見れば見るほど阿佐宮さんにそっくりよね」
まじまじと絵を見つめながら、チョコちゃんは感心した口調で同意してくれた。
“チョコちゃん”なんて気安くあだ名で呼んでるけど、チョコちゃんは本名・星野智世子、れっきとした本校の先生である。今年の四月に教師になったばかりの新米先生だ。美術を担当していて美術部の顧問をしている。
あたしと春音が所属する文芸部は美術部と仲がよく、放課後ちょくちょく美術部にお邪魔しては雑談している。それに選択科目であたしは美術を選択していることもあって、チョコちゃんとも親しかった。
チョコちゃんは今年23歳、年も他の先生達と較べて生徒に近く、小柄でちまちましていて可愛らしい。あたしより身長が低いから、多分152~3cm位だと思う。新米ということもあって(こう言っては大変失礼だけど)まだ余り先生らしくなく、あたし達生徒は友達のような感覚ですごく親近感を持って「チョコちゃん」って呼んでいる。チョコちゃんはそのあだ名を一向に気にしていないみたいだけど、一度男子生徒がチョコちゃんって呼んでいるのを生徒指導の先生が耳にして「教師をあだ名で呼ぶとは何事だ!ちゃんと星野先生って呼べ!!」ってこっぴどく叱られたらしい。それでも一向に生徒の間で「チョコちゃん」っていう愛称が改まることはなかったのだけれど。
チョコちゃんは本校に来てから、美術教室と美術準備室の物置のような惨状をずっと嘆いていた。
チョコちゃんが来る前は美術の授業は柳河先生っていう年輩の先生が受け持っていた。柳河先生はこの学校に20年以上勤めて来て、今年の三月で定年退職となり、代わってチョコちゃんがやって来たのだった。柳河先生は辞めるまでに私物だけはなんとか整理して持ち帰ったけれど、20年以上の間、主として我が物顔で使っていた美術教室と準備室は、色んなものが物置のように仕舞い込まれていて、結局大半を片付けられないまま退職してしまったのだった。
あたし達は普段美術部にもチョコちゃんにもお世話になっていることだし、部屋の片付けを手伝ってあげることにした。
そして準備室を任されたあたしが片付けをしている最中に、放置されていた沢山のキャンバスの中からその絵を見つけたのだった。
夕方に差し掛かり、今日の片付けはここまでということになった。
埃で汚れた手を美術室前の廊下にある手洗い場で洗っていると、チョコちゃんも汚れた手を洗いに来た。
「今日は手伝ってくれて本当にありがとね」
二人並んで石鹸で手を洗いながら、先生はあたしに言った。
「いえ、とんでもありません」
ちっとも迷惑じゃなかった。片付けを手伝っていたからこそあの絵を見つけることができたんだから。そう思った。
手を洗いながらあたしは気になっていることを聞こうかどうしようか迷っていた。それでも思い切って口を開いた。
「先生、あの絵を描いたのが誰か調べられませんか?」
何気ない素振りでチョコちゃんに訊ねてみた。
「そうねえ・・・」
チョコちゃんはうーん、って唸って眉間に皺を寄せて少し考え込んでいた。そして少しして思い当たったように言った。
「描いたのが美術部の部員だったら、当時の卒業アルバムを見ればT.Kのイニシャルが誰か判るかも。ほら、卒業アルバムには部活ごとに撮った写真も載ってるでしょ?」
なるほど、卒業アルバムか。あたしはチョコちゃんにお礼を言って、明日図書室に行く事を密かに心に決めていた。
その日の間中、あたしはずっと何処かぼんやりしたままだった。心ここにあらずっていう言葉がぴったりあてはまった。
どうやって家まで帰ったのかも、「ただいま」って言ったかどうかさえも覚えていなかった。記憶にないままお風呂に入り、食卓に座っていた。
ぼんやりして殆ど無意識の内にお茶碗のごはんを口に運びながら、ろくにおかずに手を伸ばさないでいたら、名前を呼ばれた。
「どうしたの、萌奈美ちゃん?」
下の妹の香乃音が不思議そうな顔をしてあたしを見ていた。
妹の声に食卓を囲んでいた家族全員の視線があたしに集まっていた。
うちは五人家族だ。パパ、ママ、長女のあたし、一つ下の妹の世玲奈と末の妹の香乃音。
世玲奈はあたしと同じ高校の一学年に在籍している。香乃音は今中学三年生だった。
「あまり食べてないけど、具合でも悪いの?」
ママも気になっていたのか、心配そうな顔で聞かれた。
みんなの視線が集まっていたことに、慌てて作り笑いを浮かべた。
「ううん、大丈夫。今日学校で部屋の片付けを手伝ったから少し疲れちゃったのかも」
「本当に?」ママはまだ心配げな眼差しであたしを見ていた。「それならいいけど」
「じゃあ、今日は早く休みなさい」パパも食事の手を止めて言った。
「うん、そうする」
作り笑いを口元に貼り付けたまま、どこか上の空で答えていた。
パパに言われて夕食を半ばで終えて、すぐに歯を磨きその夜は勉強もせずにベッドに潜り込んだ。部屋の明かりを消してベッドに横になっていても全然眠くならなくて、静まった暗闇の中で目を開けたまま、あの絵を思い浮かべていた。
あの絵の中で、あたしにそっくりな女の子は優しく笑っていた。彼女は誰に笑っているんだろう。微笑んでいる彼女の視線の先には誰がいるんだろう・・・。
多分、とあたしは思った。あの子の嬉しそうな視線が物語っているのは、彼女が微笑みかけている相手は、多分彼女が好意を寄せている人なんだ。彼女はその人に恋をして、彼を愛している、そしてその彼もまた彼女を深く愛しているんだって思った。だから彼女はあんなに幸せそうな笑顔を浮かべて、満ち足りた眼差しを向けているんだ。
あたしには何故かそれが分かった。自分で空想したとかじゃなくて、あの絵をひと目見たとき、その全てがあたしには分かった。あの絵には描かれてはいないあの絵の周りの世界全てがあたしには見えていた。
それは手を伸ばせば触れることができそうな程、確かな輪郭を持ってあたしの目に映っていた。
ただ、絵の中の彼女が微笑みを向けるその視線の先にいる人の姿だけは、どうしても確かめることができなかった。そこだけが不思議と靄がかかっているかのようにその人の姿は朧げだった。目を細めてその人の顔を確かめようとしても、どうしても見ることはできなかった。