第四十話 : 開戦の合図
「……さて、そろそろかな」
『何がですか?』
大きな瞳をパチクリさせながらフカサワちゃんがそう尋ねてくる。
一向に引く様子のない人波を眺めながら、わたしはゆっくりと立ち上がった。
『世界の意思』による強制時空間移動。向こう側の歴史が作り出した青白いゲートに、フゥは吸い込まれてしまった。
こんな通りのど真ん中で、あんなにも激しい光や風が吹き荒れたってのに、通りを行く人たちは全くおかまいなし。歴史が正常に動いてる人たちにはフライングマンは全く干渉出来ないってのはどうやら本当のことみたい。
人通りの少ない路地裏まで移動する。わたしはフカサワちゃんやフライングマンとは違って他の人からも姿が見えるんだから、ちゃんと立場をわきまえないとね。
「うん、ここらへんならゲートが開いてもも目立たないかな」
『……あの、そろそろわたくしにも説明をもらえますか?』
「ん? 何の説明?」
『サン様とサヤ様がこれから何をしようとしているのか、どうやってあのフライングマンを捕獲するのか、その算段についてです』
「だから言ったじゃん。追いかけるだけが能じゃないって」
『その真意を訊きたいのですが』
「だから――」
その瞬間、フカサワちゃんの瞳がキュインと音を立てながら色を変えた。
その視線の先、路地裏の奥の壁からオレンジ色の光が軌跡を残しながら縦に走っている。
この光景はさっきも見た。光の門、ゲートの開放だ。
「話すよりも直接見た方が早いかもよ、フカサワちゃん」
フカサワちゃんはゲートを開くための座標の役も担ってる。だから今は話しかけても応答出来ない。わたしとサヤ姉ぇが何をしようとしているのかこの場で言ってもいいけど、せっかくだからもう少し勿体つけてもいいかも。
ゲートが完全に開き、わたしたちの身体は光の粒子に包まれる。
向かう先は、フゥが移動した時代。
今度こそ捕まえてみせる。とっ捕まえて、あの娘に言いたいことがある。
そしてわたしは、完全に光に包まれた。
◇ ◇ ◇
目を開けると、さっきとは対照的に、辺り一面が闇に包まれていた。
フカサワちゃんの機体がボォっと光っている以外には何も見えない。そんな中、身体に突き刺さるくらいに冷たくて、吹き飛ばされそうなくらいに強い風が吹き付けてくる。
「うわ、さぶっ! 一体どこなのよここ? それに何でこんな寒いの? ……服はちゃんと用意してあるよねサヤ姉ぇ」
『衣服はサン様の足元にありますよ。それと、あまり動かない方がよろしいかと』
「なんで?」
『落ちますから』
「……落ちる?」
真っ暗だった視界にようやくぼんやりとだけど周りにある物の輪郭が見えてくる。
薄暗い光をぼんやり灯す街灯。やけに長い煙突が突き出た工場。ペンのように細長い家々。そしてわたしは、その家の屋根の上に居た。
……寒いわけだ。さっきから風がビュービュー吹いてるし。サヤ姉ぇ、なんでわざわざこんな場所に転送してんのよ……。
『サヤ様から送られてきた情報では、あのフライングマンもこの辺りに転送されているはずです』
「あの娘もどっかの家の屋根にポツンと佇んでるっての? ……なんか似合いすぎだけど」
『それともう一つ、サヤ様から伝言が。「仕掛けは今からちょうど十分後に」だそうです』
「たった十分!? ……なんか、らしくないなぁサヤ姉ぇ」
いつもは行動の中に余裕を残しておくサヤ姉ぇなのに。さっきは確かに移動してきてからすぐにフゥを見つけることは出来たけど、今回もそうとは限らない。
……余裕を組み込めない程、サヤ姉ぇの方も切羽詰ってるのかも。
急いで足元の服を着る。最近じゃあまり見かけないポンチョみたいな服だけど、寒さをしのぐには丁度いい。着終わる頃にはもう夜の暗さにも目が慣れてきていた。
……さて。
「で、ここからどうやって降りればいいわけ?」
眼下にそびえる町を見渡しながら、わたしは一人呟いた。
◆ ◆ ◆
「どうするんだ! どうすればいいんだ!」
誰もいない廊下をドタバタと走りながら、柳は一人叫んでいた。
サヤと柳は非常通路から離れ、今は第三オペレータールームへと向かう長い直線の廊下を走り抜けている最中だった。
柳の叫びに反応を返すことなく、サヤは絶えずキーボードにプログラムを打ち込んでいる。ホログラムの射出装置を提げながら全力疾走までしているのだから、さすがのサヤも返事をする余裕がない。
柳の中に不安が広がっていく。
こんなことなら最初から警護官をそばに置いておくべきだった。職員に休みを出すべきではなかった。誰か身代わりになる者がいれば、それだけあの冷たい声の男から逃れる時間が増えたのに……!
「くそ、くそ……! なんで、僕が、こんな目に……!」
ついこの間までは仙堂の重要なパートナーだったはずなのに、仙堂が野望を達成するその横で柳も自らの夢を成し遂げているはずだったのに、今やその仙堂に仇を為す者として命を狙われている。
力のある者の隣で、力のある振りをしていればよかった。そうしていれば、誰にも本当のことは知られはしない。祖父や父から与えられた権力以外に自分が何にも持っていない可哀想な存在だと、誰にも知られることはなかったのに。
「くそ、くそ……ッ!」
「――止まって!」
突然、サヤが叫んだ。
隣の棟へと続く長い廊下。目的の部屋まではまだ遠いはずだった。
二人の息が廊下に響く。何があったと柳が尋ねる前に、サヤは額に汗を浮かべながら答えた。
「……奴の姿を見失いました」
「なっ……!」
柳が絶句する。
サヤは管制塔のシステムをハッキングし全ての権限を持っている。監視カメラや視聴マイクの張り巡らされたこの管制塔の中にいる以上、相手の動きはサヤの手中にあるはずだった。
今や管制塔内に限り神にも等しい権限を持ったサヤが、プログラミングに気を取られていたとは言え、自らを狙う敵をこの短時間で見失ったと言うのだ。
「何だよそれ! どういうことだよ! 何をしてるんだお前は!」
「…………」
廊下中に響き渡る柳の怒号。柳の不安と焦りはもう限界にまで来ていた。
一方、サヤにも何が起こったのかが全くわかっていなかった。監視カメラにだけではなく熱探知にもソナーにも引っかからないなんて普通ではあり得ない。あの警備室でかなりの量の水を浴びせたのだ。靴の音、低下した体温、足跡代わりの水滴がサヤに奴の居場所を教えてくれるはずだった。
その中で奴は姿を消した。考えられる理由は、一つしかなかった。
「うわあああァァァァアァァ!!」
サヤがある考えに辿り着いたその瞬間、数発の銃声と断末魔のような絶叫が響く。絶叫の主は、あまりの不安と焦りで錯乱した柳だった。
放たれた銃弾は轟音と共に壁や天井にめり込んでいく。フルオートの拳銃からは次々に次が装填され放たれていく。
突然の出来事にサヤは動けない。その場で固まったまま、柳を鎮めようと叫び出す。
「室長! 落ち着いて下さい!」
「くそ、くそ! お前さえ僕の前に現れなければこんなことにはならなかったのに! どうしてくれるんだ! どうするんだよッ!」
「…………」
「もう少しだった! もう少しで僕の願いは果たされるはずだった! なのに! どうしてこんなことになるんだよぉッ!」
柳の叫びが廊下に響き渡る。それが反響してくる頃には、柳の手元からはカチカチと、弾倉が尽きたことを知らせる情けない音がしていた。
柳の目から次から次へと涙が零れる。それはまるで、小さな子供が泣きじゃくるように。
「僕は、……僕は、落ちこぼれだった。柳家の中になんでお前みたいな出来損ないが生まれたんだって、いつも父さんは僕を蔑んだ……」
弾の出尽くした拳銃が力なく床に落ち、同じように柳の身体が崩れ落ちる。
膝を床につけ泣きながら天を仰ぐその姿は、まるで神への祈りにも、懺悔にも見えた。
「お前には何も出来ない……、お前には何も期待してない……、父さんからそれ以外の言葉をかけてもらえた覚えなんてない……。だから! 復讐したかった! この僕にしか為し得ない、僕だからこそ為し得た偉業が欲しかったんだ! フライングマンの性質を利用したステルス兵士! 相手の攻撃を一切無効化し、こちらの存在さえ知られずに目的を達成する、まさに無敵の兵士! 次世代の最強兵器だ! それを作り上げたのは誰だ!? ――僕だ! この柳ヌエが、時代を変えたんだ! ……変わる、はずだったんだ……!」
「…………」
「なのに、仙堂さんは僕を見放した……。仙堂さんまで、僕を、役立たずだと、……思って、たんだ……」
「――大正解。よくそのことに気付いたな」
不意に聴こえたその声に、二人は背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
二人が向かおうとしていた第三オペレータールーム。その入り口に上下共に黒尽くめの格好をした男が立っていた。
サヤは目を見開き、柳は嗚咽を止めることも出来ない。そんな二人の様子を眺めながら、男は実に嬉しそうに顔を歪ませた。
「自分が特別視されていると期待でもしていたか? 主は最初から、俺もお前も、自分以外の誰をも駒の一つとしてしか見ていない。気付けただけでも表彰もんだ。良かったな、坊や」
「ぐッ……、くっそおおぉぉぉ!!」
「唯一の例外は日高ナツだけだったが……ま、もうそれも過去のことだな」
「――訂正して」
「ん? 何をだ?」
頬の釣りあげたまま醜く笑う男を、サヤは鋭い視線で射抜く。常人であれば身がすくむだろうその強烈な視線を、男は楽しいものでも見るようにニヤニヤと表情を崩さない。
大声で泣き崩れる柳をチラリと見つめ、サヤはその視線に相応しい強い口調で語りかける。
「室長、このままでいいんですか? 役立たずの烙印を押されたまま、おとなしく泣き寝入りでもしますか?」
「う、っぐ、……うぅ……!」
「初めて会った時にも言いましたね。あなたには何もない。最初から何も持っていない。無くすものすらもない。そうでしょう?」
「…………」
「私が言いたいこと、わかりますか? それとも、わかりやすく説明してあげましょうか?」
「……バカに、するな……!」
わかり易すぎるサヤの挑発。柳はその挑発にあえて乗った。
唯一の理解者だと、蔑みばかりの世界からの救世主だと信じていたものは、全て虚構だった。
目の前には醜く微笑む男と、厳しい眼差しをよこす女しかいない。柳を庇護してくれるものは誰一人としていない。
涙にまみれ、地にひれ伏し、絶望に暮れたその姿にたった一つだけ残されていたもの。サヤだけはそれを知っていた。
柳に残されていたのは、その身に余りあるほどの巨大すぎる自尊心。それは、誰からも認められることのなかった柳の唯一にして最後の自衛手段だった。
「やってやる……、やってやるよぉ! 仙堂の力なんてもう要らない! こっちから願い下げだ!」
「ほう」
「日高サヤ! これでお前の脅しにはもう何の拘束力もない! 告げ口でも何でもすればいい! 仙堂なんか、僕の、僕自身の力で返り討ちにしてやる!」
「…………」
サヤの眼光は相変わらず鋭く、その光だけで対象者をくびり殺すかのような冷徹な視線だった。その視線の端で口元だけがかすかに歪んだ。
ほんのわずかな変化。その口元は誰にも変化を知られることなく言葉を紡ぐ。
「それは困りましたね。では、どうしますか?」
「あの黒い男をどうにかしろ。! 室長命令だ!」
「もし断れば?」
「即、クビだ」
サヤの顔にハッキリと笑みが浮かぶ。瞬きの後開かれた瞳には、どこか満足そうだった。
やはりこの男は虚勢を張っている方が、らしい。
「ようやく仕事にも慣れてきたのにクビは困ります」
困った様子などその表情には微塵もない。それを見とめて、柳はしたり顔で歪に笑う。
やっぱりこの女、食えない奴だ。
サヤと柳、二人が並び立つ。見据える先には黒ずくめの男が一人。
爽やかさとはかけ離れた笑みを浮かべる三人の男女。その場に広がる緊張感を断つように、一人の男が叫んだ。
「さぁ、行け! 僕は後ろから援護する!」
「了解です、室長」
それが開戦の合図。しかしその戦いは、ほんの一瞬で終わった。