幕間 : イオとオズ(2)
温厚で、聡明で、思慮深く、落ち着いた雰囲気に包まれた、兄のオズ。
純粋で、潔白で、天真爛漫で、溢れる笑顔が魅力的だった、妹のイオ。
入院中の私の身体に繋がる管をぶちぶちと千切ったイオは、満面の笑みで私を外へと引っ張り出した。看護師や医師は引きずられる私の姿を見て顔を真っ青にしていた。イオの兄、オズも例外ではなく、男の子を引きずったまま大人たちから逃げる妹を見て驚いていた。
私の覚えている限り、オズの驚愕の表情を見たのはあの時が最初で最後だ。
「お兄ちゃん、一緒に逃げよう!」
イオのあの時の言葉は印象的だった。
私にとって、世界は家と病院の二つしかなかった。その中でも多くの時間を過ごしたあの病院は、私の世界の中心地だった。そこからイオは逃げようと言うのだ。
その時、強く思った。この病院の外にも世界があるのだと。私の知らない世界がこの病院の外に広がっているのだと。それを知らずに死ぬなど、なんと勿体のないことか。
「逃げよう!」
イオの放った言葉が私の口からもこぼれ出た。
久しく発していなかった大声。イオはその声に微笑み、オズはやれやれと言った顔で一緒に走り始めた。
結局、私たちは外に出られることなく病院の門の前で大人たちに捕まってしまったけれど、あのイオの言葉が、笑顔が、私を生に執着させた。
外の世界を知る前に、死んでたまるものか。
私の身体はそれからみるみるうちに良好の兆しを見せ始めた。意志とは精神にだけでなく身体にまで影響を及ぼすのだろうか。あれほど虚弱だった私の身体は普通の運動をこなせる程にまで回復した。医師に隠れてイオたちと病院内で追いかけっこをしていたせいもあるだろう。
毎日毎日イオとオズが病室を訪れるのを心待ちにしていた。
今度は何をして遊ぼう。今度は何を話そう。今度は何を教えてもらおう。今度は何を競おう。
同じ年頃の子などその病院には居なかった。ある程度の経済力を持つ者が御用達にしていたこともあり、その病院には大人や老人が多かった。仙堂の家は資産家としては成り立ての下級クラスの門だったが、あの病院自体が他の資産家や官僚との交流の場にしていたのだろう。随分無理をして私を入院させていたようだ。
イオとオズの親も私の家と似たような境遇で、子供同士の親交がきっかけとなって家族ぐるみの仲となった。私の退院後もそれは続き、私の知らないところでイオと私の婚約の話まで出ていたようだ。
……今となっては笑い話にもならない。
私とオズは同い年と言うこともあって、良き友人であり、良きライバルだった。
彼は私よりも先のことを見通していたし、人の心を察して気を配ることもしばしば見かけた。人間としての格が違うように思えた。それでも妬みや嫌みは全く覚えず、そんな彼を友人に持てたことを誇りにさえ思った。
イオは年が経つに連れて綺麗になっていった。昔からの純粋さは損なわれず、女性としてのたしなみや教養を身に付けていく彼女に、私だけでなく周りに居る多くの者が心を奪われていたことだろう。
「イオの笑顔は俺の宝だ」――それがオズの口癖だった。
「イオが笑顔で居られるなら、俺はどんなことでもしよう。イオの笑顔を奪う奴が居るなら、それが例え君でも、俺は許さない」
オズにそう真顔で言われた時、私は一瞬たりとも視線を外さなかった。私もオズと同意見だったからだ。
思えば、オズはその時すでに両親同士が決めた私とイオの婚約のことを知っていたのかもしれない。だからこそ私の覚悟を試すようなあの言葉を口にしたのではないか。だからこそ、私の手を固く握り締めたのではないか。
「お兄ちゃんたら、大げさなんだから」
そう言いながら微笑むイオは、もう出会ってから二十年近く経っていたと言うのに、初めて会った時の印象を全く損なっていなかった。まるで天使のように、見る者全ての心を光で包むように暖かくさせた。
その時、私の両親だったか彼らの両親であったかはもう覚えていないが、誰かが私たち三人の姿を写真に納めた者がいた。幸せの瞬間を切り取ったその写真は、今も私の書斎に飾ってある。
私たちは強い絆で結ばれている。私たちの仲を裂くものなど何もない。
そう、信じていた。
それから一年後、私たちの絆は、あっさりと引き裂かれた。
ある晴れた日のことだった。
一本の電話が、イオとオズに出会って以来光に包まれていた私の心に、一滴の闇を落としたのだ。
「イオが、……襲われた」
温厚なオズの声とは思えない程、感情を必死に押し殺した、抑揚のない冷たい口調だった。
その口調から語られた事実に、私は我を保つことが出来なかった。オズはよく私に報告出来たと思う。もしあの時の私なら、すぐさま犯人を見つけ出すために何のあてもなく街中を走り回っていただろう。
その日の早朝。イオは日課にしていた公園の散歩に出かけていた。彼らの家の近くにある公園でジョギングする者や同じく散歩に使っている者も多く、オズも家の者も、毎朝イオが一人で出かけることに何の心配もしていなかった。
不幸は幾つもの不運を重ねて突然やってくる。
その日に限って散歩やジョギングをする者が少なかったこと。前日の夜、その公園でたまたま数人の若者が酒を飲み明かしていたこと。その若者たちが帰る道と、イオの散歩コースがたまたま重なってしまったこと。
イオは、その若者たちに拉致され、輪姦されたのだ。
全身の毛が逆立つ感覚。足元から脳天にかけて一つの感情が全身を駆け巡る。それは怒りではなく、純粋な殺意だ。何度殺しても足りない程に、殺意が泉の如く湧き上がる。
だが今やるべきことはそんなことではない。殺意に染まった頭でも、最優先にすべきことはわかった。
イオの状態が知りたい。イオの顔が見たい。イオの笑顔が失われていなければいつかは忘れられる事故として処理できる。無論、私とオズは犯人を許しはしないだろうが。
イオに会うために、私はすぐに彼らの家へと向かった。車を使うことなど思いつきもしなかった。身体を動かさなければ正気を保つことは出来なかっただろう。心に落ちた闇は、次第に私の心を染めてゆく。
何故、イオがこんな目に遭わなければならない?
何故、イオにそんな苦難が与えられなければならない?
何故だ――何故だ! あんなにも毎日に感謝し、神に祈りを捧げることを絶やさず、人の喜びを自らのものとし、人の悲しみを共に嘆いてきた彼女に、何の罪があったと言うのだ!
「ウオオオオォォォォッ!!」
天に叫びつつ、私はひと時も足を休めなかった。狂ってしまいそうな心を、そうすることで繋ぎ止めていた。
二人の家へ息を切らせて辿り着き、温厚さを失ったオズの隣を通り過ぎ、私はイオの部屋の扉を開いた。
その時から、私はこの世に生きる意味を、再び失った。
イオの笑顔には拭いようのない影が生まれてしまっていた。
気丈な彼女は何事もなかったかのように振舞う。だがしかし、そこにはあるべきはずだったものがない。天使と見紛うような輝きが、オズが守り通したかった宝が、私に生きる意味を指し示してくれたものは、もうそこにはなかった。
泣きたかった。しかし、泣くことは許されない。
イオは必死に私たちに笑顔を向けてくる。その笑顔を前にして泣くことは許されない。それはあの事件に屈さぬイオの誇りを無にしてしまうからだ。
やる瀬のない殺意など捨ててしまえ。捨ててしまえぬなら、己の内にある怒りを殺せ。そうすることでイオの誇りを守れるのなら、私はいくらでも自分を殺す。感情など無視すればいい。イオのためなら、容易いことだ。
そして私は、自分を殺した。
おそらくオズも同じことをしたのだろう。ただ、オズは別のものも殺してしまった。
「法は、誰かを守るためにある。ならば、それを破った者に罪を与えるのは、守る者の使命だとは思わないか?」
定まらぬ視点で、オズは抑揚なくそう言った。
イオと居る時には温厚に振舞っているオズは、私と二人きりの時には無感情になり、私も居ない時には暴れることさえあったと言う。彼らの家の従者からそれを聞いた時、私はオズの変化を確信した。
イオは天使でなくなり、オズは悪魔になってしまったのか。
ならば私はどうすればいい? 償いを求めるオズを止めるべきか、それとも追従するべきか。
迷っていた。生きる意味を見失った私が、進むべき道を見出すのは、とても困難なことだった。
数日間迷いに迷い、ついに私は為すべきことを見定めた。
今のイオを支えることが出来るのは私とオズの二人だけだ。私たちにとって一番大切なことは、二人でイオを支え、あの時の天使の笑顔と輝かしい日々を取り戻すことだ。
迷いは振り切れた。この答えに間違いなどあるはずがなかった。
あるとするなら、ただ一つだけ。この決断が、ほんの少しだけ、遅かったと言うこと。
あの事件と同じ、ある晴れた日のこと。オズは殺された。
全身打撲による外傷性ショック死だった。




