第三十二話 : 逃避行
「――絶対ヤダ」
「……そう言うと思ったけどな」
わかってんならそんなこと言わなきゃいいのに。
そう言いたい気持ちをグッとガマンして、わたしはナツ兄ぃを強く睨みつける。
何日か前の出来事が頭に浮かぶ。あの時も今とまったく同じことをしてた気がする。
違うのは時間と場所、そしてナツ兄ぃの表情。
こんな真夜中の、誰も通らないような路地の隙間で、ナツ兄ぃはとても真剣な表情で私を見つめながら、さっきと同じ言葉を口にした。
「もう一回言うぞ。――サヤのところに避難しろ、サン」
「じゃあ私ももう一回言うね。――絶対ヤダ」
返事は当然のように平行線。なのにナツ兄ぃは表情を崩さない。
いつもならこの辺で「ったく、しょうがねぇなぁ」なんて言いながら結局はわたしの言い分を通してくれるのに。
今回の件は、ナツ兄ぃにとってそれくらい非常事態なんだ。
『あの人は、仙堂さんは、――フライングマンを自らの手で作り出そうとしてるんだよ!』
フライングマンを作り出す。確かに、とんでもないことだよ。
ナツ兄ぃから聞いたフライングマン、フゥについての話を思い出す。
――『絶対孤独』。
誰かと会話をすることも触れ合うこともできない、干渉不可の呪い。
そんな状態が何年も、何百年も続く。フライングマンの歴史は、その身になってしまった時点で止まってしまうから。
永久に続く孤独。死を得られない身体。いくら叫んでもいくら望んでも、誰も応えてくれない。
……そんなの、想像するだけでゾッとする。
そんな存在を仙堂のおじさんは作り出そうとしている。確かに、とんでもないことだよ。――それが本当のことなら、ね。
「わたしはあのおじさんがそんなことする人だなんて思えない」
「そりゃ、俺だって……」
「だったら! ちゃんと確かめもしないでこんな風に逃げなくてもいいじゃん!」
「確かめなくてもわかる」
「どうして!」
「仙堂さんの目を見たから」
「……それだけ?」
「ああ」
ナツ兄ぃの表情は真剣なまま。こちらを見つめる視線には一切の淀みもない。
その顔でそんなことを言われたら、わたしからはもう何も言えないじゃない。
こうなったナツ兄ぃはテコでも動かないんだ。だったら、わたしが取るべき行動は一つしかない。
「……わかった。ナツ兄ぃの言うこと、信じる」
「そうか」
ナツ兄ぃの表情が緩んだ。明らかにホッとしてる顔だ。
だけどナツ兄ぃ、忘れてないかな?
わたしもナツ兄ぃに負けないくらい、超がつくほどのガンコな性格だってこと。
「じゃあ、なおさらナツ兄ぃのそばを離れるわけにはいかないよね」
「そうそう、おとなしくサヤのとこに……って、なにぃ!? 何でそうなんだよ!」
「今ナツ兄ぃは仙堂のおじさんから狙われちゃってるんだよね? だったらボディガードが必要でしょ? 今からそんなの探してたんじゃ間に合わないし、信用できるかどうかも怪しいもんだよ。だったらもうわたししかいないじゃん」
「バ、バカ! 相手はあの仙堂さんだぞ!? 危険すぎる!」
「わかってるよ」
「わかってねぇよ!」
「ううん、わかってたよ」
過去形のその言葉に、ナツ兄ぃは口をつぐんだ。
そう、わかってたんだ。もう六年も前から。
ナツ兄ぃが何か危険なことに首を突っ込んでるなんて、六年前のあの日からわかってたことだ。
だからわたしは力を身に付けたんだよ。
ナツ兄ぃの力になれるように。ナツ兄ぃの助けになれるように。ナツ兄ぃのそばに居られるように。
そして何より、もう置いてけぼりにされないように。
冷たい風が頬を撫でる。
建物の隙間から月明かりが漏れてくる。
空にはニヤけた目つきのお月様。
目の前には、小さな頃からずっと追い続けた、大好きな人。
せっかく追いついたのに、離れてなんかやるもんか。
「覚悟なんてとっくの昔にできてる。連れてってよナツ兄ぃ」
「…………」
「わたしはもう子どもじゃないんだからね」
「……はぁ」
ため息を吐き出しながら、ナツ兄ぃは頭を抱えた。
「……中途半端な覚悟だったのは、俺の方かもな」
ナツ兄ぃらしくない、弱々しい声。
真夜中の路地裏。人はまったく来ないけど、風だけはやけに通り過ぎる。
風はナツ兄ぃの背後から吹いてきて、ナツ兄ぃの言葉をわたしまで届けてくれる。
それはまるで、風がナツ兄ぃの背中を押しているかのようで――。
顔も知らない一人の少女が、ナツ兄ぃの背中に手を添えているようで――。
「誰も巻き込まないなんて言っときながら、サヤを巻き込んだ。自分一人で約束を果たすなんて言っておきながら、お前まで巻き込んだ。『世界の意志』にはもう危険はないからって安心して、仙堂さんにフゥのことを話しちまった。……そのせいで結局、皆を危険に巻き込んだ」
「…………」
「やっぱ俺、バカだ。バカなくせにいろんなことをしようとするからダメになる。だったらもう、何も考えずに突っ走りゃいい。そんな簡単なこと、また忘れてたんだな俺は」
そう言った瞬間、ナツ兄ぃは私の手を取って走り出した。
驚く間もなく、私はナツ兄ぃに引きずられるようにしながら一緒に走る。
月明かりがわたしたちの進む道を照らす。
こんな真夜中だと言うのに、ずいぶんお節介なお月様だ。
「――はっ、ハハハハッ! ワハハハッ!」
「ナツ兄ぃ、なんで笑ってんの!? って言うか、なんで突然走ってんのわたしたち!? 追っ手が来たの!?」
「いや、なんか懐かしくてさ! ハハハハッ! やっぱ俺バカだ! 大バカだーッ!」
全力疾走しながら笑顔で大バカ宣言のナツ兄ぃ。
でも……確かにこっちの方がナツ兄ぃらしいかも。ナツ兄ぃに真顔なんて似合わないよ。かっちょいいんだけどね。
結局なんで走ってんのかわかんないけど、懐かしいってのはわたしも同感。
小さい頃、ナツ兄ぃの手を引いて無理やりデートした時のことを思い出した。あの時照れ隠しで言った、この言葉も。
「うっきゃ〜! いっくぞ〜!」
手を取り合って逃げる二人。映画やドラマにあるような、恋人たちの逃避行。
危機的状況だってことはわかってるつもりだけど、今だけは成りきってもいいよね?
大声でバカ笑いしながらの全力疾走。わたしたちは逃亡者にあるまじき行動で夜の街を駆けていく。
お月様はそんなわたしたちを笑うように、ニヤリと歪んだ目つきのまま、進むべき道を照らしてくれた。
そしてこの四日後。
照らされた道を覆い隠すように『影』は現れた。