第三十一話 : 彼女と彼の目的(2)
「……は、ははは、何を言っているのかわかってるのか、君は」
「ええ、充分承知しています」
微笑みを絶やさぬままそう告げるサヤ。その表情には一切の迷いも気負いも存在しない。
引きつった表情を浮かべたのは柳の方だった。
目の前にいるこの女性は、あろうことか、あの『仙堂』を敵に回しかねない行動をしようとしているのだ。
柳の頭にいくつもの疑問符が浮かぶ。
なぜそんな危険なことをする?
あの『仙堂』を敵に回しても何の得もないはずなのに。
そして、なぜそれを僕に告げる?
僕が仙堂さんと通じているのはこの女もとっくに知っているはずだ。なのに、なぜ?
「なぜ、……だと思いますか?」
柳の顔に怯えの色が生じる。
心の内を読んでいたかのようなその微笑みに。
逆らうことのできない計略に絡め取られたその事実に。
――悪魔か、この女は。
大抵の男ならば数秒は見とれてしまいそうなその微笑みは、息をすることも忘れた柳の代わりに、自らの質問に答えた。
「私はここに勤め出す前から、お兄ちゃん――日高ナツから情報を得ていました。あなたが仙堂氏と手を組んでいることも。仙堂氏がフライングマンに何かしらの執念を抱いていることも。そして、仙堂氏がある点にこだわっていることも」
そこまで言い終えて、蛇に睨まれた蛙に成り下がった柳は全てを悟った。
やはり、この女は知っている。だからこそあのウソをついたのだ、と。
「仙堂氏が何よりも忌み嫌う行動が二つある。一つは、権力を笠に弱い立場の者を踏みにじること。そしてもう一つは、人を殺すこと。……私がなぜここに居るか、理解できましたか?」
それは事実上の最後通告。
自らの要求に応える以外に選択肢はないと、その微笑みは容赦なく告げたのだ。
サヤが口にした仙堂が嫌悪する二つの行動。それは未遂とは言え、どちらも柳がサヤに取った行動そのものだった。
仙堂の協力者である日高ナツ、その妹に柳がしでかした行動は、仙堂の逆鱗に触れても何らおかしくはないものだ。
権力を矛にするものは、権力の強大さ、残酷さをよく知っている。
サヤを敵に回し、仙堂をも敵に回し、社会的な死を待つか。
それともサヤの要求を呑んで、それを回避するか。
破滅と平穏。考えるまでもない二択。
そしてそれは同時に、自らに外すことのできない手綱が取り付けられることを意味していた。
「……わ、かった……。僕の、知っている限りのことを、……話す」
隠し切れない怒りと悔しみが言葉の節々からこぼれ出る。
唸りのようなその言葉は、当然のようにサヤの表情を崩す要因にはなり得ない。
この瞬間、柳はサヤと運命を共同したのだ。
サヤが黙っている限り仙堂が柳に手を下すことはない。しかし、仙堂がサヤを敵と見なせばその関係も瞬時に終わりを告げ、粛清は下される。仙堂の情報を洩らした者として。
「仙堂、さんが……フライングマンの研究をしている理由……、それは――、」
獣の唸り声のように発せられる、裏切りの言葉。
その言葉だけは、けして崩れなかったサヤの表情を見事に瓦解させた。
◆ ◆ ◆
「――お前のことが好きなんだ、サン」
その言葉は、わたしの表情を見事にユルユルに溶かした。
わたしの目の前には、真剣な表情のナツ兄ぃ。
キレ長の眼がまっすぐにわたしを見据える。一瞬たりとも離そうとしない。
そのまっすぐの視線が、告白の言葉の真実味を増していく。
――うわ、やばい。何コレ、信じらんない!
頭の中が溶けていくような、身体中を揺さぶられるような感覚が肩から全身に走っていく。
……って言うか、やけに肩がブルンブルン揺らされてる気がするんだけど。
「――! ――って! ――――起きろ! サン!」
「……うん?」
あれぇ? ナツ兄ぃなんで怒鳴ってんの? 愛の言葉をささやいたばっかの相手に何してんの?
あ、そっか、キスだ。互いの思いを打ち明けあった二人には言葉はいらない……って、前にミイちゃんが言ってたし。
そう思って唇を突き出したら、なぜか脳天にチョップされた。
「うーん、ある意味キスより刺激的かも……うふ」
「寝ぼけてないでとっとと起きろって!」
「あー、もー! うっさーい! なんだよコラー! やんのかコラー!」
「やりあってる場合なんかじゃねぇんだよ! 逃げるぞ!」
「ふえ? 逃げるって?」
「だー、もうっ!」
ベッドに寝てるわたしの背中と足に腕をまわしてそのまま持ち上げるナツ兄ぃ。
え? なに? なんのサービスだコラ?
いきなりお姫様だっこって……ナツ兄ぃ? 今日は正月? それともお盆?
「大変なことになった……! ここにいたら仙堂さんに見つかる! 急いで逃げるぞ!」
せん、どう? 仙堂のおじさんがどうしたの?
起きたてホヤホヤで全然わけがわかんない。
眠気満タンの頭はきちんと機能せず、いまだスリープ状態。
……あ、ちょっとうまいかも。
「うまいこと言ってる場合じゃないんだよ、マジで!」
「……人の思考読まないでよね、えっち〜」
「いいかげん目を覚ませよ! マジで緊急事態なんだよ!」
必死な顔のナツ兄ぃ。眉間によったシワがちょっとダンディー。
ナツ兄ぃがこんなにダンディズムを発揮するなんて、相当なことがあったに違いない。
目をぎゅっと閉じて精神集中。まどろんでいる意識を覚醒させる。
「む〜〜……はい! 目、覚めたよ! んで、どうしたのナツ兄ぃ? なんでわたしいきなりお姫様だっこで運ばれてんの?」
「……いいか、サン。落ち着いて聞けよ!」
どっちかって言うと焦っているのはナツ兄ぃで、落ち着いてるのはわたしの方だよ。
そんなツッコミを心の中で入れつつ、わたしは黙ってコクンとうなづいた。あ、これってなんだかパートナーって感じ。
「仙堂さんのやろうとしていることがわかった! あの人はとんでもないことをしでかすつもりなんだよ!」
「とんでもないことって?」
身体の奥からぞわぞわした感覚がわき上がる。わたしにもやっと緊張感が伝わってきた。
窓の外をキョロキョロと見回しながら、ナツ兄ぃは荷物を組んだり、HPCに何かを打ち込んでいる。
「とにかくお前も早く身支度しろ! 三分後にこっから出るからな!」
「い、いきなりそんなこと言われても。何が何だかわかんないよ!」
何かのプログラムを打ち終えて、ナツ兄ぃが真剣な顔でわたしを見つめる。
その表情が、夢の中のナツ兄ぃと同じ表情だったから。
ついつい緩んでしまった顔に、ナツ兄ぃのその言葉が突き刺さった。
「あの人は、仙堂さんは、――フライングマンを自らの手で作り出そうとしてるんだよ!」
怒りにも焦りにも取れるナツ兄ぃのその叫びを、わたしは生涯でもっとも間抜けな顔で聞いていた。