第二十八話 : 隠された物語
十四年前、日高家は『過去』への旅路を果たし、帰還した。
それは何かの喩えなんかじゃなく、そのまんまの意味。
時と空間を隔てた、今は亡き緑の溢れる大地が存在していた『豊穣の時代』と呼ばれる時代。その時代にママとナツ兄ぃたち日高家は訪れて、そしてその旅の同行者であるフカちゃんと呼ばれる『俯瞰の眼』と別れた。
だけどそこには、わたしの知らない物語が存在していたんだ。
「あの娘はいつも一人きりで、すげぇ寂しい唄を歌ってたんだ」
無表情で淡々とそう語るナツ兄ぃが、わたしには怒っているように見えた。
ぶつけようのない怒りを必死に抑えている。そんな感じ。
『あの娘』っていうのが誰のことなのかもそうだけど、なんでナツ兄ぃがそこまで怒っているのか理由もすっごい気になる。
……だけど。
「彼女は今でも俺を待ってる。フカちゃんと一緒に、俺を待ってる」
今は余計なことを口を挟むことはできない。
マルちゃんが告白してくれた時と同じように、わたしはナツ兄ぃの話を全部聞かなくちゃいけないんだ。
無表情のナツ兄ぃから、真実が告げられる。
それは、わたしが産まれる前の話。
わたしの知らない物語だった。
◇ ◇ ◇
――十四年前。
過去旅行の最中に、ナツ兄ぃはその時代で知り合った友達から不思議な噂話を聞くこととなる。
『最近この学園に幽霊が出るって噂があんだよ』
幽霊なんてフレーズを聞いて好奇心旺盛なナツ兄ぃが黙っているはずがない。当然のように、その幽霊に会いにいくことになったわけで。
幽霊の声の発生源となっていた林の中で、ナツ兄ぃとサヤ姉ぇは一人の少女と出会ったんだ。
月明かりの下で夜空に吠えるように歌う、一人のまっしろな少女と。
――ああ 私はフライングマン――
――哀れで滑稽なフライングマン――
その悲しげな唄はナツ兄ぃの心を貫いた。
頬を伝う涙にも気付かないくらい、ナツ兄ぃはその唄と少女の姿に心を奪われた。
白いワンピース、白い髪、白い肌、白い髪、白い瞳。
存在の全てがまっしろなその少女こそ、あのおとぎ話に出てくる存在――フライングマンだった。
いろんな問題に直面しながらも、次第に心を通わせていくナツ兄ぃとフライングマンの少女、フゥ。
そしてナツ兄ぃは、フライングマンの残酷な真実を知った。
誰の記憶にも残らぬ者。
絶対孤独の運命を背負わされた者。
この世界の生まれでありながら別の世界の住人にされた者。
在るべき世界を守るために犠牲にされた者。
それこそがフライングマン――歴史の狭間でさまよえる者だということを。
『ワタシヲ、コロシテ、クレナイカ』
絶対孤独という運命から逃れるために、フゥは死を望んだ。
死んでいるように生きるくらいなら、生きている者しか為し得ない『死』を、フゥは望んだ。
そんな望みをかけられたナツ兄ぃの苦しみは、どれ程のものだったんだろう。
命を奪うことでしか救済の方法がないと思い知らされて。それ以外には何もできない自分の無力さを恨んで。
苦しんで、悩んで、考えぬいて。それでも見つからなかった答えは、ある一人の女性の口から発せられることとなる。
『絆って半分の糸って書くでしょ。見えない半分の糸が、私たちを繋いでるんだ』
その言葉が、ナツ兄ぃの中である答えを導き出してくれた。
フライングマンの運命から逃れるんじゃなくて、運命と戦うという答えを。
『俺は近いうちに未来へ還る。もしかしたら、フゥのことも忘れてしまうかもしれない。――だけど、俺は絶対に思い出すから! フゥのことを思い出すから! 思い出して、フライングマンの運命ってやつを打ち破ってみせるから!』
そして。
ナツ兄ぃはその言葉通り、フゥのことを思い出した。
◇ ◇ ◇
「覚えてるか? 昔、研究に熱が入ってサンの家にそのまま泊まってったことがあったろ。あの朝だよ、俺がフゥのことを思い出したのは」
室内を照らす暖色の灯りを見つめながら、ナツ兄ぃはそう言った。
あの朝のことは今でもはっきりと、全部覚えてる。
あの朝、わたしはナツ兄ぃにキスをした。歯と歯をガチンコさせるっていう大失態だったけど、わたしにとっては大切なファーストキス。
そしてあの時、ナツ兄ぃがその名前を叫んだことも、ちゃんと覚えている。
『――――フゥ!』
あのキスの後、ナツ兄ぃはわたしに自分が何かを叫んでいなかったか訊いてきた。何も知らなかったわたしは、正直に聞いたまんまの言葉をナツ兄ぃに言ってしまったんだ。
それがナツ兄ぃの記憶を蘇らせる鍵だとも知らずに。
あの時、ナツ兄ぃがなんであの時あんなに怒っていたのか、今ならわかる。
六年も思い出せずにいたことに、フゥと交わした約束を六年も放りっぱなしにしていた自分自身に、ナツ兄ぃは怒っていたんだ。
「フカちゃんは、俺とフゥのために自分を犠牲にした。自律思考を排除して、フゥと一緒に歴史の狭間に飛び込んだんだ。フゥを一人ぼっちにしないために。そして、俺とフゥを再び出会わせるために」
胸元のペンダントを大事そうに握りしめて、ナツ兄ぃはぎゅっと目をつぶった。
あのペンダントの中にはフカちゃんの記憶が詰まっている。そしてそれは、ナツ兄ぃとフゥとを繋ぐ絆でもあるんだ。
胸が、ズキンと、痛んだ。
あのペンダントはフカちゃんとの友情の絆なんだとずっと思ってた。フカちゃんがいなくなった理由が詰まった、開けることのできない宝箱なんだって。それをもち続けることで、ナツ兄ぃはフカちゃんへの友情を抱き続けているんだって、そう思ってた。
だけど、ホントは違ったんだ。
フカちゃんへの思いももちろんあるんだろうけど、あのペンダントにはそれ以上に、フゥとの再会を願う気持ちが詰まってるんだ。
それをあんなに大事そうにされたら、いやでもわかっちゃうよ。
フゥがナツ兄ぃにとって、とても大事な人なんだって。
「ナツ兄ぃは、その娘のことが好きなの?」
そんな質問をした後、すぐに後悔が押し寄せてきた。
なんでそんなわかりきったことを訊いてるんだろう、わたし。そんなの、わたしが一番よくわかってるっていうのに。
それでもやっぱり、ナツ兄ぃは正直に答えてくれた。
「う〜ん、よくわかんねぇ」
「……わから、ない?」
「そもそも俺って誰かを嫌いになったことがねぇんだよ。だから『好き』っていうのもよくわかんねぇんだよな。それこそ恋愛感情とかってどんなものなのか想像もつかねぇ。だから、フゥのことをどう思ってるのかなんて説明できねぇんだよ。自分でも理解できてないんだから」
そうだった。ナツ兄ぃはわたしが知ってる限り、誰かと付き合ったことはない。誰かを好きになったって話も聞いたことがないし、ママに聞いた限り、過去にもナツ兄ぃにそういった話は一度もなかったそうだ。
誰であろうと分け隔てなく接してすぐ仲良くなれるナツ兄ぃだけど、その反面、誰か特定の個人に対して特別な感情を抱くことがない。
それは、とっても悲しいこと。
生物の中で人間だけが唯一持ち得た尊いもの、それが愛情だってわたしは思う。
特定の一人に対してその愛情を抱くことができないなんて、それはとても悲しくて、とても孤独なこと。人として何かが欠落してると言われても否定できないことなんだと思う。
だけど。
「……じゃあ教えてあげるよ、ナツ兄ぃ」
「え?」
だけど、ナツ兄ぃはそうじゃない。ただ、気付いていないだけなんだ。
ナツ兄ぃはちゃんと愛情を持っている。たった一人にだけ向けられた特別な感情を、ちゃんと抱いてるんだ。
ナツ兄ぃの顔を真正面に見据える。さっきまでの真剣な表情は消えて、ポカンとした顔がそこにある。
わたしは今、どんな顔をしてるんだろう。
泣きそうな顔だったら、やだな。
「自分のことをどれだけ犠牲にしても、どれだけ苦労したってどれだけ挫折したって、それでも誰か一人のためだけにそこまで頑張れるのはね――、」
そこまで言って、少し不思議な気分になった。
わたしはこの言葉を一体誰に向けて言ってるんだろう。
ナツ兄ぃに? それとも、……わたし自身に?
「――それは、その人のことを愛してるってことなんだよ」
目の前のポカンとした顔に、ほんの少しだけ変化があった。わたしにとってはあまり嬉しくない変化が。
一度のまばたき。そのまま視線をさまよわせて、それは元の位置へと戻ってきた。
その間、約五秒。わたしにとっては、世界一長い五秒。
多分、ナツ兄ぃは今この瞬間、やっと自分のフゥに対する思いを認識したんだ。
何年も何年も、少しも余所見をすることなく走り続けてきたナツ兄ぃ。その疾走の先にある想いの正体は、自分の周りにいる人たちに抱いているものとは違う、一人の少女にだけ向けられた特別なものなんだって。
「……そっか。……ああ、やっぱりそういうことなのか」
「……うん。そうだよ」
「はは、そっかそっか。ああ、そうだよ。そうなんだよ。なんだよ、やっぱバカなんじゃん、俺って」
「…………」
そんな嬉しそうな顔しないでよ、バカ。
「なぁサン、やっぱそれってミオ姉ぇの教えなのか?」
「違うよ、わたしの持論。……あとね、もう一つだけ大事なこと教えてあげる」
「もう一つ? なんだよ」
まるで腫れ物が取れたみたいに清々しい表情のナツ兄ぃ。
その顔があまりにも嬉しそうだから、その顔にかなりムカついたから、一つ驚かせてやることにした。
ホントはそんなつもりじゃなかったけど、わたしにだって女としての意地があるんだ。
内緒話をするみたいに、ナツ兄ぃの耳へ顔を近づける。
「もう一つの大事なことってのはね……」
「ああ」
もう一つの話がなんなのかと、ナツ兄ぃは自然と耳に意識を集中させた。
そして次の瞬間、わたしはそれを実行した。
「――ッ!」
「…………」
柔らかい感触だけが唇から伝わってくる。
温かさとか、かすかな震えとか。それらは数秒遅れてやってきた。
多分だけど、その間、約五秒。
世界一長い五秒は、あっさりと更新された。
「……ふぅ」
自分でも驚くくらい色っぽい吐息を洩らしながら、わたしはナツ兄ぃの唇から顔を離した。
目の前にはこれ以上ないくらいに驚いているナツ兄ぃの顔。キレ長のきれいな眼が丸く見えるくらいに大きく見開かれている。
今のうちだ。早く落ち着かなきゃ。
胸の中で暴れる心臓を無理やり押さえつける。そんな素振りすら表に出しちゃいけない。
もう一度だけ吐息を洩らして。かすかな笑みを浮かべて。
世界で一番愛おしいバカに向けて、わたしはその言葉を口にした。
「わたしが、ナツ兄ぃを愛してるってこと」
ナツ兄ぃの顔は変化しない。もうこれ以上の驚きを顔に出せないみたい。
その顔をジッと見つめる。まるで時間が止まったみたいな感覚が部屋の中を包んだ。
今のわたしは、一体どんな顔をしてるんだろう。
かっこ悪かったら、やだな。
止まった時間がようやく動き出したのは、それから数分後のことだった。