第二十七話 : 光と影の追究
◆ ◆ ◆
「それでは、失礼致します」
二人に見送られながら、私はその部屋を後にした。
閉じたドアを見つめる。その先にはあの二人がいる。まるで兄妹のように仲睦まじい、あの二人が――。
……感傷、か。
地下駐車場の入り口をくぐるまで、後ろ髪を引かれるようなその感情は私の胸から離れることはなかった。
理由はわかっている。否定はしない。
私は、あの二人をかつてのあの兄妹と重ねてしまっているのだ。
名残惜しいのは当然。感傷に浸るのは必然だ。
だが振り返ってはいけない。――否、振り返る資格などない。
私はもう、あの頃の弱い自分を切り捨てたのだから。
『いいんですかい、あの小娘を日高ナツに会わせてしまって』
ふいに、耳の奥に『影』の声が響いた。
耳の奥に備え付けてある小型の無線イヤホン。『影』との密談を交わす時にしか使用しないそのイヤホンから、一人の男の声が聴こえてくる。
常に私の周囲に存在し、私の身に降り注ぐ危険を排除する役割。それが『影』だ。
『影』に意志は必要ない。私が進む先についてきて、私が留まる場所に留まる。私を置いてどこかに行くこともない、はずだった。
今日のように私の客に勝手に殺気を放つことも、私の行動に疑問を投げかけることも、普段の『影』からは考えられない行動だ。
「どういうつもりですか」
『どういうつもり、とは?』
「あのお嬢さんを怖がらせたのはなぜか。緊急時しか使わないはずのこの無線を今使用しているのはなぜか。あの二人を引き合わせたことに疑問を抱くのはなぜか。以上の三つについて、です」
『ああ。……あの小娘は、少し眩しすぎですからね。――失礼』
ホテルの地下駐車場にある車へとたどり着く。うやうやしくお辞儀をしながら、運転手が車の扉を開いた。
「ありがとうございます」と運転手を気遣いながら、イヤホンの声に耳を傾ける。
耳内にあるのに耳を傾ける必要などないのだが。
今のように、私が他者と関わっている際には『影』は語りかけてこない。自らの存在を護衛すべき対象以外には認識させない術を心得ている。
私が車内に乗り込んだのを確認し、運転手が静かに車を発進させてから数秒後、『影』は再び話しかけてきた。
このままいつも通り無言で過ごすのかとも思ったが、今宵の『影』は口が軽いらしい。
『先ほどの続きですが。あの小娘くらいまっすぐな敵意も久しぶりでしてね。こういう世界にいる者としてはああいう一直線で迷いのない存在は少々疎ましいわけですよ。影は、強い光に当たると存在が濃くなりますもんで』
「なるほど。二つ目の質問もその答えで納得できます。では、最後の質問の答えは?」
『はいはい。……なんでしたっけね』
「日高ナツと夕凪サンを引き合わせたことになぜ疑問を持つのか、ですよ」
『ああ、そうでしたね。でも、そりゃこっちが訊きたいくらいですよ。今まで散々日高ナツの情報を抑えてきたってのに、なぜ今さらそれを無駄にするんですかい? このちっぽけな頭じゃてんで理解できないんですがね』
窓の外を眺める。夜の街の光景が流れていく。
少し後方に不即不離で併走する車が見える。あの車に『影』が乗っているのだろうか。
……いや、そんな安易なことをあの『影』がするはずがない。
こちらは柳とは違って、本物の有能な人材だ。『影』を雇って十年になるが、いまだに柳はおろか、私の秘書でさえも『影』の存在には気付いていないのだから。
そんな人物が私の意図に気付いていないわけがない。
……試しているのかもしれないな。
私があの二人に必要以上に情をかけていないか――『影』はそれを確認しようと、わざとわからない振りをしているのだろう。
まったく、いらぬ心配だ。
いくらあの二人に面影を重ねていると言っても、あの二人はイオとオズではない。
いざとなれば切り捨てる。あの二人だけでなく、パズルのピースになっているものは、全部。
「あのお嬢さんには、大事な役割があるのですよ」
『ほう。一体どんな?』
――白々しい奴め。
そんな言葉を喉の奥で噛み殺して、別の言葉を紡ぎ出す。
「先ほどの三人での会合でも、やはり日高ナツは本来の目的を口にしませんでした。昔からフライングマンに興味があって私がたまたまそういう研究をしていることを知ってこの土地にやってきた、と。……それは本当のことでしょうが、彼の目的には一切触れていない。彼はまだ、隠したままなのです」
『あの小娘は、日高ナツの本来の目的を訊き出すための囮だと?』
「そうです。女というものはいつの時代でも得てしておしゃべりなものです。しばらく泳がせて獲物を釣ってきてもらいましょう。……あなたは『鵜飼い』というものをご存知ですか?」
『……ウカイ?』
「鵜という鳥は魚を丸呑みにする性質を持ちます。その習性を利用した漁業の方法ですよ」
『ああ、なるほど。……ッ』
言葉の奥で、わずかに喉が鳴る音がする。
笑っているのだろうか。
『影』が笑うなど、普段の彼からはまったく想像できない。
『安心しましたよ。やはり主は考えが深い。こちらが口を挟むことなどいらぬお世話でしたね。影は影らしく、ただついていくとしましょう』
その言葉を最後に『影』の言葉は途切れた。
後方に併走していた車が隣に並ぶ。車内を覗くと、後部車席に子供を三人乗せた主婦が何かわめきながら運転しているのが見えた。
やはり『影』ではなかったようだ。
普段存在すら感じさせない『影』が、殺気をむき出しにして、さらに私の意志まで確認してくるとは。
あのお嬢さんはそれ程までに彼の琴線に触れたのだろう。私が日高ナツに関心を示したように。
助手として役に立ったとしても、日高ナツの目的を聞き出すことにしても、どちらでもいい。
あのお嬢さんの出現で事態が転がるのなら、私には朗報しかもたらさないのだから。
あの兄妹のような二人を思い浮かべようとして、別の兄妹が頭に浮かんだ。
無表情の兄と、悲しげな顔の妹。
……そんな顔をするな、イオ。
自分が汚れてしまったことくらい、言われなくてもわかっている。
あの少女を手にかけてしまった時から――いや、違うな。
イオが自殺したあの朝から、私の心には闇が巣食ってしまったのだから。
私はもうイオの笑顔を思い出せない。書斎にある写真の中でしか、イオは笑ってくれない。
そのうち私は、悲しい顔をするイオの顔ですら思い出せなくなるだろう。
――後悔しているのか?
オズの声が、遠くから聴こえた気がした。
◇ ◇ ◇
「それでは、失礼致します」
まっすぐに背中を折ったきれいなお辞儀を披露しながら、仙堂のおじさんは一人、ホテルの部屋から出ていった。
後に残るのはわたしとナツ兄ぃの二人だけ。おじさんを見送って部屋の中へと戻る最中、ナツ兄ぃに気付かれないように、こっそりと気合を入れる。
邪魔者って言っちゃ悪いけど、おじさんが居ない今ならようやく大切な話を聞き出すことができる。もうはぐらかせたりなんかしない。きちんと全部聞き出してやる。
オレンジ色の光を放つ、どこか異国風の高級な造りの灯りが室内を照らす。過剰なくらいふかふかしたソファに腰掛けるナツ兄ぃの目の前に、わたしはもう一脚のソファをドカッと置き、同じ勢いで腰を下ろした。
面食らうナツ兄ぃに、はっきりと言ってやる。
「さぁ、もういいでしょ? 仙堂のおじさんも帰ったんだし、そろそろホントのこと聞かせてよ」
「な、なんのことだよ」
「相変わらずとぼけるのヘタだねナツ兄ぃ。多分おじさんも気付いてるよ。さっきのナツ兄ぃの話には、重要な部分は一切含まれてないって」
「…………」
「そんなことない」と一言口にすればいいだけのこと。でも、ナツ兄ぃはそれができない。
なんでだか知らないけど、ナツ兄ぃはウソをつくことを極端に嫌うんだ。
男の人って時々なんかわけのわかんないことにすごくこだわるよね。ママがよく言ってた。男はそういう生き物だと理解するのが女の役割だとかなんとか。
ナツ兄ぃの場合はそれが『男らしく在ること』と『ウソをつかないこと』の二つになる。仙堂のおじさんだって、あんな紳士な振る舞いの裏では何か不思議なこだわりを持っているのかもしれない。
ウソをつけないナツ兄ぃが出来ることはとにかく黙秘のみ。
沈黙と虚言は違う。だからナツ兄ぃの場合は沈黙は肯定、もしくは限りなく肯定に近い返答になってしまう。
自然、さっきのわたしの追究は正しかったことになるわけで。
「ナツ兄ぃはわたしを巻き込みたくない。でも、ナツ兄ぃがどんなに逃げたってわたしはついていくよ。だったら事情を知ってた方がまだ安全だよ。そう思わない?」
「む……」
「それにさっき『助手にしてくれる』って言ったじゃん。隠し事されたまま手伝いなんて出来るわけないし、今さらさっきの言葉撤回するなんて男らしくないよ」
「ぐっ、……男らしく、ない……」
「そうだよ。だから、とっとと言っちゃいなって」
「…………」
真剣な表情でうつむくナツ兄ぃ。
自分の信念と葛藤してるんだろうか。無言のままうつむくその姿に、いつかの寝顔が浮かんできた。
ナツ兄ぃに初めてキスした、あの時のこと。
あのキレイな寝顔がまるで昨日のことのように思い出せる。あの時よりも少しやつれて、顔に深みも出てきたけど、ナツ兄ぃの真剣な表情は今もキレイなままだ。
ナツ兄ぃがようやく顔をあげたのは、十分ほどたってからのことだった。
「……わかった、全部話す。俺がやろうとしてること、俺が今まで隠してたこと、全部。それでいいよな?」
断るはずがなかった。
視線だけで返事を返して、わたしは言葉の続きを促す。
「……もう、十四年前になるんだな。サンには前に話したことあるよな。俺とサヤとミオ姉ぇと両親とで、過去旅行に出かけた時の話」
「うん。覚えてるよ」
わたしの返事を聞いてから、ナツ兄ぃは大きく深呼吸した。
ナツ兄ぃはそのまま視線を窓の外へ向けて、どこか遠くを見つめながら、呟いた。
「……あれから始まったんだ。あの時代で、あの林の中で、あの真っ白な少女と出会ってから、俺はずっと走り続けてきたんだ」