第十六話 : 特別な一日(4)
思い返してみれば、ナツ兄ぃはいつも笑っていた。
初めて助手としてうちにやってきた時も、一緒にどこかへ出かける時も、ママに叱られて泣くわたしをなぐさめる時も、いつだってナツ兄ぃは笑っていた。
その中でもわたしがとびきり好きだったのが、ナツ兄ぃが困った時に見せる、あの笑顔。
一回り歳の離れたわたしから見ても、その顔をしている時のナツ兄ぃは年下の男の子みたいに感じた。
あの笑顔を浮かべているその瞬間だけ、ナツ兄ぃとわたしは同い年になるんだ。その瞬間がわたしにはかえがえのないものだったから、わたしはあの笑顔が大好きだった。
でも今は、その笑顔がわたしの心を凍りつかせている。
研究所の玄関から数十メートルの距離を隔てたその場所で、ナツ兄ぃはただ黙ってあの笑顔を浮かべている。
以前は同級生くらいに近く感じたその笑顔が、今は実際の距離以上に遠く感じた。
「……どこに、行くの? 中に、入ろうよ……」
かろうじて聞き取れるくらいの小さな声。ノドの奥からようやく搾り出せた言葉。
さっきまで全力疾走してきたせいもあるけど、それ以上に不安が大きかった。
少しでも言葉を間違えば、それまで大切に積み上げてきた何かが一瞬で崩れてしまうような、そんな恐怖感が心を締め付ける。
風に掻き消えてしまいそうなそんな言葉に、ナツ兄ぃは首を振って答えた。
その動作は、縦ではなく、横に。
たったそれだけのことなのに、わたしの心臓はドクン、と大きく揺らいだ。
「ごめんな、サン。俺はもう、行かなくちゃいけないんだ」
――どこに?
その言葉は声に出ることなく、頭の中だけに響き渡る。
ナツ兄ぃは相変わらずあの笑顔のままで、だけど遠くに離れたままで――。
「今までさんざんお世話になったってのに、何もできなくて、ごめん。教授にもミオ姉ぇにも……お前にも、いつか必ずちゃんと恩は返すから」
「……そん、なの……」
「じゃあな」
――行っちゃう。ナツ兄ぃが、行っちゃう!
「なんで行っちゃうの!? どうして!? 前みたいに一緒にいてよ! そばに居てよ! わたし二年も待ったんだよ! ずっといい子にしてたよ! なのになんで! どうして!」
声がかすれるぐらいに振り絞ったその叫びは、動き出したナツ兄ぃの足を止めてくれた。
わたしの足は金縛りにあったみたいに、ピクリとも動かない。もしナツ兄ぃがそのまま行ってしまったら、もう追いかけることなんかできない。
お願いだから、帰ってきて。
お願い、お願いだから。
もし『一生分の願い』なんてものがあるのなら、今使い切ったっていい。
だから、お願い。――行かないでよ、ナツ兄ぃ!
「……約束したんだ。いつか必ず迎えに行くって」
その時のナツ兄ぃの顔を、わたしは一生忘れないだろう。
いつもみたいな太陽みたいな笑顔でも、わたしの大好きなあの困ったような笑顔でもなく。
そこに居たのは、怖いくらいに真剣な表情の、今まで一度も見たことのないナツ兄ぃだった。
「フカちゃんとも彼女とも約束した。もう八年も待たせた。もしかしたら、二人はそれ以上に待っているかもしれない。――これ以上、待たせていられないんだ」
フカちゃん……?
なんでそこにフカちゃんが出てくるの?
それに、『彼女』って誰のこと?
わからない。わからないよ、ナツ兄ぃ。
「じゃあ行ってくるな。いい子にしてろよ、サン」
まるで近所に出かけるような、そんな軽い言葉。
だけどその言葉は、今までかけられたどんな言葉よりも、重かった。
今度こそナツ兄ぃは止まることなく、研究所の門をくぐって、わたしの視界からゆっくりと消えていく。
わたしの足はやっぱり動かなくて。心も固まったままで。
ナツ兄ぃが立ち去っていくのをただ見ているだけだった。
涙さえ、出てくれなかった。
わたしの『一生分の願い』は叶うことなく、ナツ兄ぃはその日以来、わたしたちの前から姿を消した。