第十五話 : 特別な一日(3)
祝賀会もやっと中盤に差し掛かって、参加者もやや会話や食事に辟易してきたそんな頃合。そんなタイミングを見計らって構成していたのか、会の幹事や参加者、代表者によるスピーチが始まって、ようやくパパの番までスピーチが回ってきた。
『――ではございますが、今回の実験の成功は、周りで支えてくれた方々の誰一人無くしては叶わなかったことでしょう。この場に居る全ての方に、深く感謝を申し上げます。本当にありがとうございます!』
パパの言葉と共に、会場の空気がわっと湧き上がる。
涙をうっすら浮かべる研究員。うんうんと何もしてないくせに偉そうに頷くどっかのお偉いさん。パパのスピーチなんかそっちのけで食事をほうばるちびっ子たち。
そんな種々様々な空気の中、わたしはスピーチ台の脇でカウントダウンの真っ最中。
……あと二十秒、十九、十八、十七……。
「何をぶつぶつ数えてんの、サン?」
「あ〜、数えてる最中だからあとにしてよママ。……十五、十四……」
はてな顔のママ。まさか我が娘が『一分以内で終わらせろよコラ』と父親を脅してあるとはさすがのママでもわかんないだろうな。
さぁタイムリミットはあとちょっと。わたしとの約束、って言っても一方的に脅しただけだけど、それを破って長々と演説かました日にはパパ、覚悟しとけ。
『その中でも私が一番に感謝している、長い間そばで支えてくれた人がいます。……こういう言い方をすると妻が誤解してしまいそうですが』
会場に低い声の笑い声が響く。
パパ、ノリノリだ。でもそんな小粋なジョークいらないからさっさと終わらせてよ。あと五秒だし。
『今日でこの研究から身を引き、新たな門出を迎える彼、日高ナツくんににマイクを譲ろうと思います』
その言葉と共に、パパは軽く拍手しながら、脇に控えるナツ兄ぃをマイクの前へと促した。
……驚いた、ジャスト一分じゃん。やるねパパ、時間配分をそこまで計算できるなんて、その気になったら研究が行き詰っても結婚式の司会とかで稼いでいけるんじゃない?
まぁそんなことどうでもいいか。このスピーチが終われば、ナツ兄ぃの仕事は全部終わるんだから。
緊張気味な表情でマイクの前に立つナツ兄ぃ。その最初の一声は、パパとは違う意味で笑いを響かせた。
『えっと、日高ナツです。初めまして』
「僕、何度もお会いしてますけどー!」
「なに緊張してんだよ日高ー!」
『う、うっせーな! いいんだよ、初めての人もいんだから!』
真っ赤な顔で言い返すナツ兄ぃ。うわ、あの顔やばい。ちょっとキュンってきちゃう。
さっきまで黙ってスピーチを聞いていた研究員たちがナツ兄ぃの時だけ野次を飛ばしているその光景から、ナツ兄ぃが皆からどれだけ慕われているのがよくわかった。性格も明るくて人見知りしなくてほんのりおバカなナツ兄ぃだし、人気者になるのは当たり前なのかもしんないけど。
……何て言うか、ナツ兄ぃを取られたみたいな気がしてちょっと悔しい。
『えっと、すいません。ちょっとジャマ入っちゃったんですけど、続けます』
まだ何か言いたそうな研究員たちを手で追い払う。
一呼吸置いて、スピーチは続く。
『……え〜、俺が教授の研究を手伝うようになって四年。結構いろんなことあったけど、やっぱり一番印象的だったのが二年前の研究発表です。アレがきっかけで、こんなデカい研究所や俺なんかよりも全然教授の力になってくれる奴らも集まったし。……本当に、皆に感謝してます』
ナツ兄ぃがペコッと頭を下げる。下げたまま、頭を上げない。
拍手を求めてるのかと勘違いした誰かが皆を促すように拍手した。それにつられて拍手が会場に響いたけど、それでもナツ兄ぃは頭を上げなかった。
ふいに、何か言いようのない不安が押し寄せる。
「ナツ兄ぃ……?」
長すぎる。ただのお辞儀にしては、ナツ兄ぃのそれは不自然なほど長すぎた。
ずっと頭を下げたままの姿に会場にざわめきが起こった。スピーチの内容を忘れたのかとか、どこか具合が悪くなったんじゃないかとか、皆そんなことを心配してたんだと思う。
でも、わたしの心をよぎった不安はそれとはまったく違うこと。違うっていうことはわかるのに、それが実際なにかはわからない。でも、同じような感覚をどこかで受けた覚えがある。
……そうだ、コレは。
フカちゃんのことを訊ねたあの時と、同じ感覚だ。
長すぎるお辞儀は突然終わり、ナツ兄ぃがようやく頭を上げ、スピーチを再開する。
なんでなのかはわかんないけど、ナツ兄ぃの目に涙が溜まっているように見えた。
『……俺は、今日でこの研究から離れます。ようやく軌道に乗ってこれからだって時に、助手を辞めるなんて無理を許してくれた教授に、すげぇ感謝してます』
野次を飛ばす人はもういない。そんな雰囲気じゃない。その場にいる皆がナツ兄ぃの言葉に注目している。
皆の視線を一向に受けて、ナツ兄ぃは胸を張って言葉を続けた。
『やりたいことがあります。成し遂げたいことがあります。一生をかけてでも、守ると誓った約束があります。……その約束を果たすために、俺はここから離れます。長い間、どうもお世話になりました』
そう言って、ナツ兄ぃはまた深く頭を下げた。
シンとした雰囲気の中、誰かの拍手が響く。パパだった。
パパの拍手に釣られて、会場を拍手が包む。司会の人がナツ兄ぃからマイクを受け取って、簡単にナツ兄ぃの今後の成功を祈るとかそんなことを言いながら、スピーチは終了した。
すぐにでもナツ兄ぃのところへと駆けつけたかった。
さっき感じたあの変な不安を取り払うためにも、『成し遂げたい約束』って言うのがなんのことなのかを問い詰めるためにも、ナツ兄ぃのところへ駆けつけたかった。
でも、さすがはナツ兄ぃ。人気者。
今日でお別れとなるナツ兄ぃに声をかけようと集まってきた研究員たちや関係者の人たちがナツ兄ぃを取り巻いて、わたしの入るスペースなんかどこにもなかった。
普段なら大人たちの股の間を這ってでも先に進むわたしだけど、この動きにくい格好じゃそんなことできないし、したところで前に進めないだろうし、服汚したってことでママに殺されるだろうし。
結局、遠くから眺めるだけしかできない。
「む〜〜くっそ〜!」
「ねぇ、サン」
「ん?」
後ろから呼ぶ声がする。サヤ姉ぇだった。
「お兄ちゃんはしばらく捕まってるだろうから、今のうちに料理食べちゃったら? 食べ終わる頃には解放されてるんじゃないかな」
もっともな意見を言いながら、サヤ姉ぇはわたしの好きそうな料理をのせた小皿を差し出してくる。
いつもと同じ、落ち着いた表情を浮かべるサヤ姉ぇを見て、思う。
……変だ。何か変だよ。
サヤ姉ぇはさっきのナツ兄ぃのスピーチを聞いて何も思わなかったの?
『約束』ってのがなんのことなのか気にならないの?
勘の鋭いサヤ姉ぇがさっきのナツ兄ぃの様子を見て何も気にならないなんておかしいよ。
黙ってサヤ姉ぇを睨む。わたしの言いたいことが伝わったのか、サヤ姉ぇはわたしの耳元でボソッとささやいた。
「何か聞きたいことがあるなら後にした方がいい。あの状況じゃ、今は落ち着いて会話なんてできないよ」
……そっか。やっぱりサヤ姉ぇも何か感付いてるんだ。ナツ兄ぃがおかしいって思ったのはわたしだけじゃないんだ。
『自分だけが感じた感覚じゃない』っていう妙な安心感。それのせいなのか、急にお腹が空いてきた。
「そう言えばさっきからあまり食べてなかったんだよね〜。ママはパパのとこ行っちゃったし、今のうちにいっぱい食べとこっかな!」
「そうそう。サンはまだまだ育ち盛りなんだから、いっぱい食べた方がいいよ」
「サヤ姉ぇ、そのセリフ、ちょっとおばさんくさい」
「…………」
ショックだったのか、微妙な表情で絶句するサヤ姉ぇ。
あ、ちょっとこの顔おもしろいかも。ママがサヤ姉ぇにちょっかい出すのがわかった気がした。
◇ ◇ ◇
祝賀会もそろそろ終盤に差し掛かっていた。
さっきまでスピーチに使われていた場所では、今はどこかから呼んだのかテレビで見たことのあるマジシャンの人がジッと見入る子供たち相手にマジックを披露していた。
サヤ姉ぇは相変わらずわたしが何か食べる様子を笑顔のままジッと見てるし、ママはパパのところに行ったっきり帰ってこない。多分、夫婦で偉い人とかと話でもしてるんだろう。大人の付き合いってやつだ。
そして肝心のナツ兄ぃは――いつの間にか、いなくなっていた。
「あれ、あれ!? サヤ姉ぇ、ナツ兄ぃどこ行ったか知らない!?」
「……いなくなってるね」
「うわぁ、ご飯に夢中になってて全然気付かなかったぁ! 別のフロアに行っちゃったのかな? わたし、ちょっとナツ兄ぃ探してくるね!」
「いいじゃない、さすがに祝賀会終わる頃には戻ってくるだろうし。わざわざ探しに行ったら逆にすれ違いになっちゃうよ」
「そうかもしんないけど、ジッとしてるなんて性に合わないし!」
「あ、ちょっと! サン!」
サヤ姉ぇの言葉を振り切って、会場を出る。
会場であるラボの前に長々と続く廊下。何人か会話をしている人の姿はあっても、ナツ兄ぃの姿は見えない。
ラボの近くにある部屋の中にも、フリースペースっぽい広場にも、男子トイレにも、ナツ兄ぃは居なかった。
――不意に、ゾッとした。
さっき感じた不安が現実味を帯びて再び襲ってくる。
転ばないように、スカートの端を持って長い廊下を思い切り走った。
ママに見つかったら間違いなく怒られるけど、そんなの今はどうでもいい。
通りすがる人たちが皆振り向く。多分、わたしの表情のせいだ。自分ではよくわからないけど、多分今のわたしの表情は、相当せっぱつまった必死な表情になっているんだろう。
途中にある部屋なんてどうでもよかった。なんでかわからないけど、その中にナツ兄ぃが居ないことは確信していた。
ナツ兄ぃが居るとするなら、それは多分、あの場所だ。
そんな妙な直感が身体を動かしていた。いつだったかミイちゃんに言われたあれだ。『女の勘は信用できる』ってやつ。
息が切れてきた。ああ、動きにくい。
なんでこんな格好してきたんだろう、くそ、もう動きづらいったら。
どうしてこんなに長い廊下なんか作ったんだか。この研究所は前から嫌いだったけど、もっと嫌いになりそう。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――!」
自分の声じゃないみたいな感覚。現実感がない。
現実感よりも不安の方が大きくて、『休ませろ』って言う身体の要求なんか聞いてる場合じゃない。
いつの間にか靴が片方なくなっているのに気付く。走りづらい。もう片方も脱いだ。
なんでこんなに必死になってるんだろう。なんでこんなに不安なんだろう。
わからない。わからない。
でも、行けばわかる。
だって、ナツ兄ぃがいるとするならきっと、もうこの建物の中じゃないから。
「――ッ! ナツ兄ぃッ!」
目的地の正面玄関が見えた。誰の姿も見えない。
でもその先、研究所入り口の門の辺りで、スーツを着た誰かの背中が見えた。
――いや、誰かじゃない。ナツ兄ぃだ。ナツ兄ぃを見間違えるはずがない。
「待ってよナツ兄ぃ! どこ行くの!?」
正面玄関を裸足のまま駆け抜けて、門に向かって歩いていくナツ兄ぃに呼びかけた。
背中が止まる。でも振り向かない。何も話さない。
研究所の中から笑い声が聴こえる。それ以外に聴こえてくるのはわたしの荒れた息だけ。
目の前にナツ兄ぃが居るのに、まだ怖い。怖くて仕方がない。
荒れた息を整える。吐き出す息にまで細心の注意を払う。
ヘタに動いたらその瞬間にナツ兄ぃが消えてしまう気がした。
「サン……」
捜し求めていた背中の主は、ようやくこっちへ振り向いてくれた。
その表情は、わたしの大好きな、あのちょっと困ったような笑顔だった。