第十一話 : 流れていく砂のお城
幸せは一つずつ積み上げていくものだけど、不幸は一気に押し寄せてくるもの。
これはママの持論。幸せと不幸は形からして全然違うとか。
幸せはショールみたいに薄くて、軽くて、温かくて。意識しなかったら気付かないくらい身近にあるもので。
不幸はまるで津波みたいに大きくて、怖くて。せっかく作り上げた砂のお城をグシャリと洗い流してしまうんだとか。
ママ独特の感覚だからあまり深くは理解できなかったけど、不幸の感覚だけは共感できた。って言うか、実感した。
本当に、悪いことって言うのはな〜んでこうも重なってやってくるんだろ。やんなっちゃう。
「やった、やった、やりましたよ! ミオさん、サン、ナツくん! やってしまいましたよ〜!!」
酔ってんのか、ってくらいのテンションでパパが帰ってきたのは研究発表が終わって一週間が経った夜のこと。
普段はご近所から『落ち着いていて気品が漂っているダンナ様ですわね〜』なんて言われるくらい外面のいいパパが、ご近所迷惑顧みずの大声をあげながらの帰宅。今頃近所の奥様連中のパパのイメージは『酔っ払ってアルコール臭が漂っているダンナ様』へと格下げしていることだろう。
そんな妙なテンションのパパだったけど、別に酔っているわけじゃない。って言うかお酒を飲める人じゃないから別の用件でハイテンションなんだってのはわかるんだけど……、なんか、その「訊いて訊いて」って得意満面な顔見せられたら逆に訊きたくない。訊いたら負けの気がするし。なんかムカつくし。
「クマさん、何かいいことあったの?」
「いいことどころの話じゃありませんよ! 聞いてくださいよミオさん!」
ママ、絶妙の合いの手。そこらへんはやっぱり夫婦だね。
ママの救いの手によりパパはさらにムカつく顔で饒舌に語りだした。
「ついに付いたんですよ! 私の研究に、費用を出してくれるって言うスポンサーが、ついに付いたんですよ〜!!」
「ッ!! マ、マジすか!?」
「マジですよ! マジなんですよ! 混じりっけなしのマジの話なんですよ〜!」
うわ、うわ、パパってば今、かなりのご陽気さんだよ。『おお、面白いこと言ったなオレ』って顔しちゃってるし。すごいムカつくんだけど。
「クマさん、――調子のりすぎ」
「あ、……ごめんなさい」
ママ、絶妙の合いの手。またの名をツッコミ。
ママのツッコミによりシュンとした顔になるパパ。それでも口元がたまにニヤニヤするところを見ると、相当の額を負担してくれることになったのかな?
「費用もそうですけど、それ以外にもいろいろ援助してくれることになったんですよ! 社会的な研究の認定から助手も大勢付けてくれて、さらには大きな研究所まで用意してくれるんです! 来週からはそこで研究が出来るんです! 今までできなかった大規模な実験や複数同時研究なんかも出来るようになるんですよ!」
「……うそ、でしょ?」
「マジすか教授!?」
「マジですよナツくん! 本当のことなんです! 何度も何度も確かめましたから間違いなしです!」
「やった! やったじゃないすか!」
「そうだよ、やったんだよナツくん!」
パパとナツ兄ぃ、大の男二人が満面の笑みで喜び合っている光景が目の前で広がっている。
パパの研究が認められた。それは単純に嬉しい。だって、パパがどれだけ頑張ってきたのかは、それこそ小さい頃からずっと見てきたんだから。
嬉しいよ。嬉しいけど……。わたしは、二人のようには心から喜べないよ。
だって……、だって……。
「ほら、サン」
なだめるような顔で、ママはわたしの頭をなでた。
たまに、ママにはわたしの心の中がまる見えなんじゃないかって思う時がある。そうでなきゃ、今このタイミングでこんなことしない。
「クマさんとナツがず〜〜〜っと続けてきた努力がついに認められたの。一緒に喜んであげよましょうよ。せめて今だけは、ね」
ママ、わかってるよ。わかってるんだ。
一緒に祝ってあげることが、二人への最高の賛辞になるってことくらい、わかってるんだ。
だけどね、だけど。それってね……。
もうパパとナツ兄ぃがこの家で研究することがなくなるってことだよね。
あの『研究室』って書かれた部屋に堂々と入ってもよくなっちゃうんだよね。
『ご飯できたよ』って二人を呼びに行くこともできなくなっちゃうんだよね。
学校から帰ってきても、二人から『お帰り』って言ってもらえないんだよね。
ナツ兄ぃの困った顔、今みたいに毎日見れなくなっちゃうんだよね。
――やっぱり、素直に喜べないよ。
パパとナツ兄ぃが喜び合っているそばで、困った顔のママにそっと抱き寄せらながら、わたしは必死に笑顔を作ろうとして、できなくて、いろんな思いがごちゃごちゃになって、自分の顔がどんな表情になってるのかもわからなくなって。
結局その夜、わたしは二人に「おめでとう」を言うことができなかった。
◇ ◇ ◇
研究を支援してもらってから、わたしたちの生活は一変した。
パパとナツ兄ぃの仕事場は家の中の小さな一室から大学の近くにある大きな研究施設へと変わり、毎日朝早くから夜遅くまで帰ってこなかった。月日が流れるごとに助手の人数も研究の進行もどんどん進み、大学や国にまで、パパの研究は大きく認められていった。
ナツ兄ぃは自宅から研究所まで通うので、うちにはまったくやってこない。たまに何かの荷物を取りに来るくらいで、その荷物が一つづつ減っていくのが、ナツ兄ぃがこの家に完全に来なくなる日へのカウントダウンみたいで、怖かった。
狭かった我が家は『研究室』と札の付いていた部屋の解放、さらにほとんど一日ママとわたしの二人きりになったために、イヤな程広く感じた。
研究費用を捻出する負担がなくなったことで、少しだけ生活が豊かになった。ママはクセが付いてしまっているのか、なかなかムダな物を家に置こうとしないからスペース的には広いままだけど、それでもいつの間にか家具や食材がワンランク上のものになってるのを見ると、我が家の経済事情の向上は子供のわたしでも実感できた。
今までパパの研究をないがしろにしていた大人たちは、パパの研究が進むたびに手のひらを返したように『前々からいつかやってくれると思ってた』なんて気持ち悪いおべっか使ってくるし。『お嬢ちゃんの方からパパによろしく言っておいてくれないか』なんて気持ち悪い顔で言われた時は、そのオヤジの残り少ない髪の毛を全部引きちぎってやろうかと思った。ナツ兄ぃに止められたから、たったのニ、三十本しか引きちぎれなかったけど。
いいこと尽くしのはずだった。だけど、イヤなことだらけだった。
ナツ兄ぃが居て、ママが居て、パパが居て、どんなに狭くてもこの家は幸せだったのに。
裕福ではなかったけど、ほとんど物も何もなくて殺風景な家だったけど、ここには全てがあった。
わたしの幸せがいっぱい詰まってた。宝物だった。
――あの頃の幸せな日常がいつか戻ってくること。
いつからか、わたしはそんなことばかりを考えるようになっていた。
わたしの願いは叶うことなく時間だけが巡り、あの研究発表から、二年が経とうとしていた。