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第七話 : ファーストキスの味

 

 ――パタン。


「ッ! ……静かに、静かに……」


 ドアを閉める音が室内に響き渡る。夜が明けたばかりでまだ静かだからか、思いのほか大きく響いちゃったみたい。

 視線を先へ向けると、目標対象はそんな物音など関係なしとばかりに、ぐっすりとまどろみの世界に身を投じていた。

 心の中で『セーフ』と呟き、目標へと前進開始。


「これも夜這いって言うのかな。明け方だから、朝這い? ……どっちでもいっか」


 一人ツッコミを入れつつ、目標へと無事に到着。

 目的の人物はほんの一枚布団をかぶったまま、さらには白衣を着たままで床で大の字になっていた。


「うわぁ。ナツ兄ぃの寝てるとこ、初めて見た……」


 カーテンから漏れる柔らかい朝日がナツ兄ぃを照らしていた。

 キレ長の瞳に光が反射する。その瞳にかかる前髪も光っていてまるで金髪みたい。疲れて脱ぐヒマもなかったんだろう白衣にも光が反射してより一層輝いて見える。

 ……やっぱりナツ兄ぃとサヤ姉ぇは兄妹だよね。二人ともキレイな顔してる。ナツ兄ぃは表情の変化が豊かだから普段はあまり気付かないけど、こういう風にぐっすり寝てる時はよくわかる。

 やっぱり、ナツ兄ぃはかっちょいい。


「うわ、まつげ長い。……あ、ヒゲ生えてきてる。パパのとえらい違いだよね」


 ナツ兄ぃの顔をジックリと観察しながら、パパに感謝する。パパがいなかったらこんな風にナツ兄ぃの寝顔を眺めるなんてほとんどあり得ないことだったんだから。

 いつもは晩御飯を食べたら家に帰ってしまうナツ兄ぃだけど、今日はパパもナツ兄ぃも研究に熱が入ってたのか、そのままうちに泊まっていくことになったんだ。

 ナツ兄ぃがうちに泊まるなんて初めてのことだ。緊張して、眠れなかった。

 そんなわけで、少し寝不足でフラフラしながら、ナツ兄ぃが眠るリビングへ来たわけなんだけど。……うわぁ、キレイな顔だなぁ……。

 ……あれ? ちょっと待って。今って、もしかして、すっごいチャンスだったりする?

 今この場にはナツ兄ぃとわたしだけ。パパとママはまだ寝てるし、ナツ兄ぃもぐっすり寝てる、と言うことはイコール、無防備。

 頭の中にいけない想像がモヤモヤ浮かんでくる。想像はそのまま小悪魔みたいな姿になって頭の中でダイレクトにささやいてきた。


『チャンスだよチャンス! そのままキスしちゃえーー!』


 ささやくどころか思い切り叫んでたけど、小悪魔の言うことはもっともだ。

 淡い朝日を浴びて少し輝くナツ兄ぃの唇。そこまでの距離はほんの数十センチ。ちょっとチュッとしちゃっても、覚えているのはわたしだけだ。

 ……うわ、ヤバい、心臓がうるさくなってきた。さっきまでのドキドキとはケタが違う。外に漏れちゃうじゃないかってくらいうるさくなってきた。……も〜うるさいなぁ、ナツ兄ぃが起きちゃうじゃない。


「う、んん」


 うわ! ナツ兄ぃが起きた! ……と思ったら寝言じゃない。ああ、焦った。

 一安心してもドキドキは収まらない。朝日は相変わらずナツ兄ぃを照らしたまま。それ以上に意識してしまうのは、ナツ兄ぃの唇。

 そんな、また心臓がうるさいくらいにドキドキしてきた時だった。


 プス〜。


 ……何、今の音? やけに情けない音が聴こえたような気がするんだけど。……もしかして、今のって……。

 朝の爽やかな香りの中に、妙に違和感のある臭いが混じる。そしてナツ兄ぃは、なぜか少し晴れやかな表情を浮かべていた。


「……ぷ、ぷぷぷ、――ぷはっ! う、くく……」


 寝ながらスカシっ屁をかますナツ兄ぃ。

 そのスッキリした表情とオナラの臭いとが妙にツボにはまった。込み上げる笑いを抑えることができない。

 口と鼻を手で押さえながら、笑いすぎで涙をじんわり浮かべながら、実感する。

 ああ、やっぱりわたし、ナツ兄ぃが大好きだ。

 優しいナツ兄ぃも、怒ったナツ兄ぃも、キレイな顔で眠るナツ兄ぃも、寝ながらスカシっ屁かますナツ兄ぃも、全部が全部どうしようもなく恋しくて、愛らしい。

 ひとしきり笑いきってから、深呼吸。不思議なことに、さっきまでうるさいくらいだったドキドキは治まっていた。


『初めてのキスはレモンの味がするらしいよ』


 前にミイちゃんから聞いた言葉を思い出す。好きな人とする初めてのキスには特別な思いがこもってるから、実際はそんなことはないんだけど果実の味がするんだとかどうとか。

 でも、ママ曰く、


『あたしのファーストキスはお酒の味がしたわね』


 ……ママって、一体いくつ離れた人とキスしたんだろ? ……人のことは言えないか。わたしだって、ナツ兄ぃとは一回り以上離れてるし。

 血は争えないなぁなんて思いながら、ナツ兄ぃの顔を覗きこむ。さっきまで飛び出すんじゃないかってくらいの勢いだったドキドキは、少しだけテンポを落として優しいドキドキに変わっていた。

 優しい鼓動に包まれながら、ナツ兄ぃの顔へと少しづつ近づいていく。

 ちょっと『チュッ』ってするだけ。それだけでいい。そうすればもっと暖かい気持ちになれる気がするんだ。

 わたしのナツ兄ぃの顔が、少しづつ、ゆっくりと近づいて――、あと数センチってところで、それは起こった。


「――――フゥ!」

「え?」


 ガチンッ!


 あとちょっとでキスできるってところで、ナツ兄ぃ突然のお目覚めだった。

 しかも急に起き上がるもんだから、ナツ兄ぃの歯とわたしの歯がモロに直撃。そりゃもう、痛いなんてもんじゃない。強いて言うなら、こんな感じ。


「うきゃ〜〜! いっひゃ〜〜い!」

「フゥ! ……あれ? ここ、どこだ?」


 起き立てで寝ぼけているナツ兄ぃ。痛みでうずくまっているわたしをドン無視しながら夢うつつの真っ最中のご様子だ。


「あ、そうか。昨日そのままミオ姉ぇのうちに泊まったんだっけ。……ん? 何してんだ、サン?」

「…………」


 ……前言撤回。

 どうしようもなく恋しくて、愛らしいけど。それと同じくらいに、ムカつく。


「うわ! サン、口から血出てんぞ! 大丈夫かよ!」

「うぅ……。初めてのキスの味は、血の味でした……」

「?? 何言ってっかわかんねぇけど、とにかく治療すんぞ。いいな?」

「……そういうナツ兄ぃだって出てるよ、血」

「え、うわ、マジだ。なんで? なんで血?」


 そりゃ、ナツ兄ぃの歯とわたしの歯とでガチンコしたからね。キスしようとしてこうなったなんて、恥ずかしくて言えないけど。


「……なぁサン。この家って、朝起きると口から血が出てるとかそんな呪い的なモンないよな?」

「あるわけないでしょ」

「そ、そうだよな。そりゃそうだよな。ハハ……」


 あ、ナツ兄ぃちょっと顔引きつってる。あとでさっきのガチンコのお返しに呪いネタであることないことふっかけてみようかな。うわ、おもしろそ。

 イタズラ心がうずいてくる。歯の痛みも治まってきたみたい。だけど優しいドキドキだけはまだ続いている。ちょっと失敗しちゃったけど、ナツ兄ぃとの初めてのキス。少し温かくて、ちょっと痛いけど、心地いいドキドキがずっと胸の中に残ってる。

 まだ顔の引きつってるナツ兄ぃに抱きつきながら、二人して洗面台に向かう。鏡の中には口から血を流す二人組の姿。……なんか、吸血鬼兄妹って感じ。兄吸血鬼は変に浮かない顔してるけど。


「ナツ兄ぃ、まだ顔引きつってるよ。うちには変な呪いとかないからね、多分」

「いや、それはもういいんだけど」


 ちぇ、いいのか。


「……なぁサン。俺、起きた時に誰かの名前叫んでなかったか?」

「誰かの名前? う〜ん、痛くてそれどころじゃなかったんだけど……、『フゥ』とか言ってたかな? 人の名前なの、それ?」

「……フゥ……」


 ブクブク――ペッ。

 うわ、血いっぱい出た。あれだけ痛かったもんね、そりゃこれだけ出るよね。って言うか、キスしたばっかですぐ口をゆすぐって、なんか勿体なかったかも。


「うわ〜。見てよナツ兄ぃ、こ――、」


 ガンッ!


 うがいを終えてナツ兄ぃに声をかけようとして振り向いたその時、激しい衝突音がわたしの耳に飛び込んできた。

 音の元は洗面台の壁。そこに、ナツ兄ぃの拳がめり込んでいた。

 

「ナツ、兄ぃ……?」


 壁に拳をめり込ませたまま、血の滲んだ歯を食いしばりながら、ナツ兄ぃは何かをぶつぶつと呟きながら、眉根をよせていた。

 ……怒ってる。何に対してなのかわからないけど、ナツ兄ぃはすごく怒っていた。

 どうしよう、キスしたこと怒ってるのかな? 謝った方がいいのかな? でも、何て声かけていいのかわからないよ。 ……どうしよう、どうしよう。

 そうやって、無言の間がしばらく続いた。

 実際は一分にも満たないほんの少しの間だったのかもしれないけど、わたしには数時間にも感じられるくらい、長い間だった。

 その静寂を打ち破ってくれたのは、いつの間にか目を覚ましていた、ママだった。


「あ〜あ。ちゃんと修理代だしなさいよ、ナツ」

「あ……」


 朝のあいさつもそっけもないママのその言葉で、ナツ兄ぃは憑き物が取れたみたいにいつもの表情に戻っていた。


「うわ、やべ。壁ヘコんでんじゃん。急にデカい音してサンも驚いただろ。悪かったな」

「いや、あの、いいよ別に。……あの、ごめんねナツ兄ぃ」

「あ? 何を謝ってんだ?」

「へ? あれ?」

「とにかく、ミオ姉ぇも起きたことだし朝メシにしようぜ。腹減ってきたのか、なんか口ん中がスースーしてんだよ」

「それ、血が出てるからじゃないの?」

「うお、そうだった!」


 回れ右して洗面台に向かうナツ兄ぃ。そこにいたのは少しだけおバカな、わたしの大好きないつものナツ兄ぃだった。

 安心した。急にナツ兄ぃが全然違う人になっちゃったみたいで、怖かったから。




 ――なぜこの時、ナツ兄ぃがこんなに怒っていたのか。わたしがその理由を知るのは、これからずっと後のことだった。



 

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