第三十六話 : 《言霊》
「……はぁ。や〜っぱヒマね」
誰もいない職員室。イスの背もたれにのけぞるくらいに背中を預けながら、ミオはポツリと呟いた。
「やっぱり産休とるの未来に還る直前にすればよかったかな。あ〜、失敗だわ。娯楽よりも大事をとるなんて、あたしもヤワになったもんね」
気が付くと、自分のお腹にいつの間にか手を添えている。そんな事実もミオにとっては驚きだった。
――その時、その瞬間が楽しければいい。後のことはどうにでもなる。
そんな刹那的な生き方をしてきたミオにとって、未来への帰還を四日も猶予を残した上での産休は、今までの彼女からすれば考えられないことだろう。
彼女にその決断をさせたもの。何よりも愛しく、何に変えても守らなければならないもの。いつの間にか添えられた手が、ミオに『母親の本能』というものを強く感じさせる。
「ったく。このあたしをこんだけヤワにさせたんだから、アンタにはそれ相当の責任とってもらうわよ。生まれてきたことを一瞬だって後悔しないくらい、幸せになってもらうからね」
妊娠しているのが一見してわかるほどお腹が出てきているわけでもない。その中にいるはずの赤ん坊もまだ男か女かもわからないほど、あやふやな存在。それでも、このお腹の中には確かに命が宿っている。そのことに、ミオはこの上ないほどの幸せを感じていた。
そんな母としての幸せをミオが一人静かに噛み締めていた、その時。――絶望はやってきた。
――ああ 私はフライングマン――
――哀れで滑稽なフライングマン――
――どうか笑ってくれないか どうか聴いてはくれないか――
――孤独をまとったこの唄を 絶望にまみれたこの唄を――
――哀れな夢を見続ける者 叶わぬ願いを捨てきれぬ者――
――フライングマンの悲しき唄を どうか聴いてはくれないか――
幸せを噛み締めていたミオの心に、どこからか深い闇が降り注ぐ。ふわっと覆いかぶさるように、ソレはゆっくりとまとわりついてくる。
――本当の孤独を知っているか――
――それは冷たいもの それは暗いもの――
――本当の絶望を知っているか――
――それはきっかけ 境界を超える呼び水――
――冷たく暗い孤独の海 その絶海への道しるべ――
――本当の地獄を知っているか――
――身を焦がす苦しみ 耐え切れぬ痛み――
――それすらも味わうことのない地獄を知っているか――
――それでも希望は捨てられぬ 夢見てやまぬ光の陸――
――それすら絶海への道しるべ 絶望への呼び水――
――されど希望は捨てられぬ そして孤独はやってくる――
――永久の地獄を知っているか――
――知らぬと言うなら教えよう 愚かなこの身で伝えよう――
――この身に宿る絶望よ 終わることなき弧地獄よ――
――愚かな我が身の声となり 皆に伝えてくれないか――
――ああ 悲しき絶望の唄――
――哀れで滑稽な愚かな唄――
――どうか聴いてはくれないか どうか笑ってくれないか――
誰が歌っているのか。どこから聴こえてくるのか。なぜ歌っているのか。
そんな疑問が湧く前に、ミオの心に一つの不安が走った。
自らのお腹の中に感じていたはずの確かな幸せ。――それが、なくなっていた。
「う、うわぁあアアぁッッ!! イヤ、イヤアアァア!!」
――この唄が赤ん坊を殺した! どこかに連れていってしまった!
唄に宿った絶望は、ミオにそんな妄想を抱かせた。
耳を塞いでも、叫び声をあげても、唄は心に突き刺さる。絶望は心に覆いかぶさってくる。
絶望をのせて《言霊》は出ずる。
唄に込められた思いを、《言霊》は無情にも、聴く者全てに届けた。
◇
《言霊》とは、言葉に込められた不思議な力、という解釈が一般的には成されています。
その一つとして、言葉として発せられた『思い』が『念』となり、相手の心にも通じるということがありますね。例えるなら、やけに説得力のある人の言葉などがそうです。自分の言葉に自信を持っていたり、経験に裏打ちされた確かな根拠などを述べた言葉には、普段発している言葉とは違った、確固たる思いが込められているのです。
自分の考えていること。その思いを相手に強く訴える時に言葉に込められるもの。それこそが《言霊》と呼ばれているものの正体なのです。
「――確固たる思い、それが《言霊》の正体なんだな!」
……しかし。フゥのあの唄に込められているものは、わたくしが今言った《言霊》とは、少し違う気がするのですよ。
「あ? どういうことだよ!? ――とりゃッ!」
緩やかなカーブ、身体を斜めに傾けて華麗に走り抜けるナツ。相変わらず尋常ではないスピードを保ったままそう問いかけるナツに、わたくしは以前から疑問に思っていたことを話してみました。
前にも言いましたが、フゥの唄のように、あんなにも人の心に影響を及ぼすものなどわたくしは知りません。《言霊》の存在自体は知ってはいましたが、わたくしの知ってる《言霊》はあれとは全然違うものです。レベルがまるで違うのですよ。
《言霊》がこもった言葉と言われる一般的なレベルは先ほども申したとおり、あくまで『説得力がある』程度のもののはずなのです。フゥの唄は、聴く者の心を強く揺り動かせるほどの力を秘めています。あれを《言霊》の仕業だと言ってしまうのは、少し疑問が残りますが……。
「何言ってんだよ? 同じことだろ!」
?? どういうことですか?
「いろんな経験してる奴の言葉には説得力があるってさっきフカちゃんが自分で言ってたじゃねぇか! フゥは喜びの経験も悲しみの経験も、俺たちが想像できないくらいいくつも経験してるってことだろ? それにフゥは元々小さい頃から唄を歌ってたって言ってたし、唄に気持ちを込めることなんかそれこそ慣れっこだろうしな!」
むぅ。確かにそうかもしれませんが。……やはり釈然とはしないんですよねぇ。
それにしてもナツ、普段と違って冴えてるじゃないですか。ナツは今みたいに身体を動かしながらの方が頭の回転が早いのかもしれませんね。
「……なんか普段はあまり頭が回転してないみたいな言い方だな」
はい、そうですよ(キッパリ)。
「……と、とにかく! 《言霊》ってのは強い思いの結晶! そういうことでいいんだよな!」
……まぁ、その解釈で間違いはないと思いますよ。
さぁ、《言霊》についてわたくしが知ってることは言いました。先ほどのわたくしの問いに答えてもらいましょうか。ナツが先ほど言った、『フゥの願いも自分の願いも叶える』というのは、一体どういう意味なのですか?
「ああ、それは――」
◇
「うわあああッッ!!」
「きゃあああぁぁあ!!」
「やめろ、やめてくれーーッ!!」
絶望の唄が学園を包み、悲痛な叫びが校舎中にこだました。
小等部もその例に盛れず、耳を塞いでのたうちまわるクラスメイトの姿を、サヤはまるで地獄絵図を見ているかのような思いで見つめていた。
「うわあ! やめて、イジメないでーー!」
「今度こそいい成績とるから、だから見捨てないでママーー!!」
「俺だって……、俺だって頑張ってるのに……! なんで報われないんだよ!」
「いやだあァッ! そんなことしたくない! いやだよおッ!」
教室中に響き渡る叫び声。彼らの頭にはそれぞれの思う『絶望』が、まるで悪夢のように繰り広げられていた。
のたうち回る者。倒れて動かない者。何かから逃げるように走り回る者。目を見開いたまま失神する者。声の限りに叫ぶ者。――そして、それらを見つめている者。
サヤには絶望が降り注ぐことはなかった。今見ているこの光景こそが絶望の光景とも言えなくもなかったが。
「……なに? なんなの、これ?」
どうして急にこんなことになったのか。どうして自分だけは平気なのか。
先ほどまで仲良く談笑していた親友の紀子も、突然泡を吹いて倒れてしまった。――あの唄が聴こえてきた、その瞬間に。
「……まさか、まさか!!」
窓の外に向けられたサヤの視線がそれを捉えた。
絶望の泉が湧くその源泉。絶望の風を巻き起こすその中心。――白い少女の姿を、サヤは捉えた。
「……なんで? なんでこんなことをするの? ――どうしてぇッ!!」
サヤの胸に、今朝同じ相手に抱いた感情――怒りが込み上げる。その顔には普段の冷静な様子からは想像もできぬ程の激情の表情が浮かぶ。その手には、昨夜『俯瞰の眼』を脅すために使ったスタンガンが握りしめられていた。
「お兄ちゃんだけでなく、紀ちゃんや愛海先輩たちまで巻き込もうと言うの!? ――許さない! そんなこと絶対に許さないッ!」
そしてサヤは走り出した。絶望の中心へ。白い少女の元へ。
それこそが少女の望みだと、知る由もなく。
◇
……そ、そんなことができるわけがありませんよ! 正気ですか、ナツ!
「そんなのやってみなきゃわかんねぇだろ!」
一点の迷いもない表情で、ナツはそう叫びました。
自分の考えに相当の自信があるのか、その言葉にはまるで《言霊》が宿ったかのような、確固たる思いがこもっていました。
しかし、やはり無理ですよ! ナツの言ってることは全て希望的観測に過ぎません! 大体、用意が足りなさ過ぎますよ! 誰も救われないという最悪の状態になってしまう可能性の方が高すぎます! そんな確証も何もない考えに全てを託すと言うのですか、ナツ!
「――確証なら、ある!」
すさまじいスピードの中、わたくしの声だけでなく風を切る音までも遮断するかのようなナツの言葉。
何がここまでナツに自信を持たせるのでしょう。何がここまでナツを奮い立たせるのでしょう。
――その答えは、ナツの次の言葉に隠されていました。
「愛海が言ってた『見えない半分の糸』! そしてフライングマンの呪いを打ち破った《言霊》の力! この二つが、俺たちの願いを叶えるための、――確証だぁッ!」
――ズザザザザッ!!
地面に足をすったまま、滑り込むように最後の角を曲がるナツ。目的の場所は、もう目前に迫っていました。
ナツのこの先の道を決める運命の時。その交錯の瞬間も、もう目前に迫っていました。