第三十三話 : 愛海の選択(3)
眠っても眠っても、当たり前のように朝は来てしまう。どんなに望まなくても、意識は現実へと引き戻されてしまう。
どうしてまた目覚めてしまうんだろう。ずっと眠っていたいのに。慎吾のいる世界へ行きたいのに。
「おはようございます、愛海先輩♪」
「…………おはよう」
近所に住んでいる女の子――ノンちゃんの挨拶に応えるのも億劫だった。
この子の前では元気な私でいたいのに。慎吾が可愛がっていたこの子の前でも、私は笑顔を見せることができなくなっていた。
「あれぇ、今日も元気ないですね〜。そんなんじゃ慎吾先輩に怒られちゃいますよ〜」
ノンちゃんの無邪気な言葉。そんな言葉に反応してしまうほど、この時の私は弱かった。
「……怒ってくれるのなら、そんなもの要らない」
「えっ? ……愛海、先輩?」
「元気がないくらいで慎吾が怒ってくれるのなら、私を叱ってくれるなら、そんなもの要らない! それくらいで慎吾が目覚めるなら、一生落ち込んだままで構わない!」
「ご、ごめんなさい……」
「謝らないでよ! 謝るくらいなら軽々しくそんな言葉使わないで! 謝る……、くらい、なら……、う、っぐ……」
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
泣き崩れる私。そんな私の隣でずっと謝り続けるノンちゃん。
――惨めだった。ノンちゃんにこんなイヤな思いをさせている自分が、こんなにも弱くなってしまった自分が、とても惨めだった。
そのうち、私は学園にも行かなくなった。部屋からも出ることがなくなってしまった。
毎日毎日、ずっと目をつぶっていた。夢の中でなら慎吾に会えるから。夢の中でなら慎吾は話しかけてくれるから。
逃げていた。ひたすら、辛い現実から逃げていたんだ。
それでも心は充たされない。悲しみや辛さは収まらない。……当然だ。どんなに夢の中に逃げたところで、現実から逃げることはできないから。
――それなら、もう二度と覚めることのない眠りにつこう。
事故のショックでよく眠れないとおばさんに相談したら『病院から何錠かもらったから』と睡眠薬を分けてくれたことがあった。それがまだ充分に残っているはず。
両親に手紙を書いた。今まで育ててくれてありがとうって。こんな親不孝な娘でゴメンねって。
ノンちゃんにも手紙を書いた。ヒドイこと言ってゴメンって。ノンちゃんのこと大好きだよって。
他にもお世話になった人たちに手紙を書いた。おばさんにも、同じ部活の娘たちにも、仲良しの親友にも。
ふいに、その親友の声が聞きたくなった。
……ちょうどいい。手紙を書いてもまだ決心がつかなかったから。親友に別れを告げることで、この現実から踏ん切りをつけよう。――慎吾のところへ行こう。
『――アンタ、バカじゃないの!!』
決心を告げたその時、受話器の向こうから思い切り怒鳴られた。
おそるおそる受話器を耳に戻して、……驚いた。
『……アンタ、バカじゃないの……』
もう一度告げられた同じ台詞。それなのに、その言葉はさっきとは違う意味で心に突き刺さった。
――その声が、怒鳴り声から泣き声に変わっていたから。
『……慎吾くんがあんなことになって落ち込むのはわかるよ。アンタがそれでずっと苦しんでたのも知ってる。……でも、それでようやく出せた答えが、そんなことだっての?』
「…………」
『――バカ! そんなんで誰が喜ぶのよ! 誰が得するのよ! アンタはそれで楽になれたって勘違いできるのかもしんないけどね、そんなの、自分の辛さを他の誰かに押し付けようとしてるだけじゃない!』
「……じゃあ、どうしろって言うの。このまま、私にずっと苦しんでろって、そう言いたいの?」
『そうだよ! それがそんなにいけないこと!? 人はね、生きていたらとんでもなく辛いことなんか一つや二つ背負っていくもんだよ! でもね、それでも生きていけるのはなんでだと思う!? ――その辛さを乗り越えるだけの希望を持てるからだよ! アンタはそれを放棄してる! 希望を持とうとしてないんだよ!』
「……希望って何? この辛さを乗り越えられる希望って、いったい何? ……あるなら教えてよ。――教えてよッ!」
『それは……』
「ほら、ないじゃない! 適当なこと言わないでよッ!」
『……愛海。それはアンタが自分で気付かないと意味がないよ。アンタの希望は、アンタの望んでいることは何か、……思い出してよ』
「私の、望み?」
私の希望? 私が、望んでいること?
――そんなの、一つしかない。一つしか思いつかない。
『アンタが慎吾くんのためにできることは何? アンタだからできることはないの?』
「……私が、慎吾のために、できること……」
『ずっと……、慎吾くんを見てた、アンタだからできることがあるはずなんだよ……。それが何か考えなよ! 死ぬなんてバカなこと考える前に、そっちを考えなよ、……バカァ!』
受話器の向こうから聴こえる声。少し鼻にかかった声。その声を訊いただけで、彼女が涙で顔をぼろぼろにしているのがわかった。
私が慎吾のためにできること。私だからできること。
もしそんなものがあるのなら。慎吾の役に立てることがあるとするなら。以前の私ならどうしてた? そして、今の私なら?
――そんなの、決まってるじゃない。
その瞬間、何かがハジけた気がした。真っ暗闇だった道の先に、ポツリと灯りがともったような、そんな感覚。
世界が、ほんの少しだけ、広くなった気がした。
苦しんで苦しんで、ようやく私は一つの答えを出せた。
私が出した答え。――慎吾の居場所を守ること。
意識を取り戻した時、居場所がなくて困らないように慎吾の居場所を守ること。それが私の出した答え。私が生きていくための希望。
もちろん寂しさや辛さが消えたわけじゃない。慎吾が目覚めないことに変わりはないのだから。
それでも、答えを出す以前に比べればずいぶんと楽になった。
今こうして生きていること。それだけで、慎吾のためになるのだから。慎吾の役に立てるのだから。
現実からは逃げ切れない。――それなら、真正面から立ち向かってやる。
……なんだか男っぽいこと言ってるね、私。ちょっとだけあなたの影響受けちゃったのかな? ――ねぇ、慎吾。
久しぶりに会ったおばさんは、以前にも増してやつれてしまっていた。夫に先立たれて、息子までこんなことになってしまったのだから、しょうがないのかもしれない。
……答えを見つける前の私もこうだったんだろうか。
おばさんにも答えを出してほしかった。希望を持ってほしかった。慎吾が目覚めた時、以前と同じようなおばさんでいてほしかった。
――そう、おばさんを元気付けることも、慎吾の居場所を守ることに繋がるんだ。だってそれは、慎吾が父親と交わした、大事な約束だったんだから。
そうして慎吾の家に通いつめるうちに、おばさんも少しづつだけど元気を取り戻していった。そんなおばさんの様子を見ながら、ようやく私もあの場所へと入ることができた。
――慎吾の部屋。慎吾が眠ってしまってから、手付かずの部屋。
「慎吾が帰ってくるまでそのままにしたかった」とおばさんは言っていた。……でも、掃除もせずにホコリとかもそのままってのはダメじゃないかなぁ?
おばさんの許可を得て慎吾の部屋へ。
私にとってもこの場所は特別な場所だった。部屋に入る直前、手が震えるのを感じた。扉を開いた瞬間、部屋の中から懐かしい香りがした。
――慎吾の、匂いだった。
まるで神域のような、侵してはいけないような雰囲気。おばさんが手付かずだったのもよくわかる。でも、掃除はしないとね。
窓を開けて、空気を入れ替えて、散乱してる荷物を整理して、……ベッド下のアレ系の本は見なかったことにして。
そうして掃除をしている最中に、私はそれを見た。見つけてしまった。
「……手紙?」
机の横のゴミ箱の中。くしゃくしゃに丸められた手紙がいくつもあった。その中の一つを手に取って開いて見た。
――瞬間、世界が止まった気がした。
急いで他の手紙も開いてみた。どの手紙の中にも、よく知っている名前が一番初めに綴られていた。
『愛海へ』
『愛海』
『愛海以外の奴が読んだらぶっ殺す』
『愛海さんへ』
『愛海、読め』
『アイミへ』
『愛しの、』
『俺の一番大切な人へ』
どの手紙も途中で書くのを断念したのか、ぐしゃぐしゃと殴り書きで大きなバツ印が付けられていた。
バツ印がないのは一つだけ。何度も何度も消しゴムで消された跡が目立つ手紙。その跡の分だけ、そこには慎吾の気持ちが込められていた。
『俺の一番大切な人へ
もういつから一緒だったのかわからないくらい小さな頃から、ずっと一緒だったよな。だからお前の気持ちを聞いた時は、すげぇおどろいた。これでもかってくらいおどろいた。多分あんなにおどろくことなんてこの先一生ないんじゃないかってくらい、おどろいた。
まず、俺の返事を書く。何言ってんだって思うかもしれないけど、あの告白、なかったことにしてくれないか?
お前はバカにするかもしれないけど、女に告白させるなんてこと、俺からすればありえないことなんだ。……しょうがないだろ、これが俺の性格なんだから。わかるだろ?
だから、俺から言う。返事をするのは俺じゃなくてお前の方だ。
俺は、愛海のことが好きだ。いつから好きになったかなんてわからないくらい小さな頃から、ずっと好きだった。
このブレスレットはお前のために作ったんだ。お前の腕にちゃんと合うかどうかはわからないけど。まさか完成する前にお前から告白されるなんて思いもしなかったけど。
だからもし、俺の気持ちに応えてくれるなら、』
手紙は突然そこで終わっていた。代わりに殴り書きで『やっぱ会ってから直接言う!』と書いてあった。
読み終えて、最後の最後まで読んで、また最初から読み返して。
何度それを繰り返したんだろう。どれくらいの時間そうしていたんだろう。
なかなか部屋から出てこない私の様子を見ようと、おばさんが部屋に入ってきたことにも、ちっとも気付かなかった。
「愛海ちゃん……?」
その時の自分がどんな表情をしていたのか、後でおばさんから聞かされて恥ずかしかった。
おばさん曰く、とてもキレイな顔で微笑んでいたんだとか。……何言ってるんだろうね、まったく親子そろって。
――こんな嬉しすぎること、手紙で言うな。しかも捨てるな。
慎吾が目覚めた時に言わなければならない台詞が、一つ増えた。