第三十一話 : 愛海の選択(1)
ベッド脇にある、ほんの少しだけ開かれた窓。
そこから入ってくる風に揺られて、ヒラヒラと舞うように揺れるカーテン。
カーテンの隙間からチラチラとこぼれる光が部屋の主の顔を照らします。
「う、ん……」
眉間にシワをよせながら、うるさそうに手を払いながら光から逃げるナツ。身体をずりずりとベッドの脇の方へよせていきます。
……あと少しですね。もう少し。あ、いい感じ。そのままそのまま……。
――ごつん。
あ、やりました。
「うがっ! いってぇ〜〜!」
やりましたねナツ。見事に頭から不時着成功です。
いやぁ絶妙な光の差し具合でした。光と風が織り成す天然の目覚ましを体験できるとは、ラッキーでしたね、ナツ。
「うっせ。……はぁ、今何時?」
もう正午ですよ。ずいぶんとよくお眠りでしたね。
「ふ〜ん、もう正午か。てことはもうすぐ学食の時間かぁ。――って、正午ぉッ!?」
おお、一度普通に会話しておいてから気付くなんて。それがかの有名なノリツッコミとやらですか?
わたくしの言葉を無視して、猛スピードで着替え始めるナツ。ジャンプしながらズボンを穿き、勢いを殺さぬままもぐるようにシャツに頭を突っ込みます。……Yシャツがボタン一個飛ばしなのは今は黙っておきましょうか。見てておもしろいし。
「フカちゃん、なんで起こしてくんねーんだよ! あ〜、くそ! もうカンペキ遅刻だよ! 遅刻ってレベルをはるかに超えて無断欠席だよ! うわぁ、俺の皆勤賞が、皆勤賞が〜〜!!」
やけに皆勤賞にこだわるナツ。こういう人って学年に一人はいますよね。
大体あと四日後には元の時代に還るんですから今さら皆勤賞なんか気にしても、
――あ。
「……そっか。そうだったよな」
シャツも着終わり最後にベルトを締めようとしたところで、急に勢いをなくして立ち尽くすナツ。その顔は昨夜イヤと言うほどに目にした表情と同じ、沈んだものでした。
……失言でしたね。せめて今日一日くらいは昨夜のことに触れずに過ごさせてあげたかったのですが……。フカちゃん、反省。
「……なぁフカちゃん、他のみんなは?」
パパさんとママさんはそろって散歩に出かけてますよ。夕方までは帰ってこないそうです。サヤとミオさんはもうすでに学校に出かけましたよ。
「……? サヤはわかるけど、なんでミオ姉ぇまで学校に? 今日から産休じゃなかったっけ?」
そうなんですけど、残務処理がどうたらこうたらと言ってましたよ。要するに、ただ家にいるのもヒマだから何かと理由つけて学校に行きたいと、そういうことでしょうね。
「ふ〜ん、そっか。…………」
それきり黙ってしまうナツ。部屋の中央で、ベルトをぶらんぶらんさせたまま天井を見上げています。
その表情からは何を考えているのか読み取ることはできません。普段はバカ正直というか表情や言葉に考えをぶちまけるナツだけに、こんな風に無表情で黙り込んでしまうともうお手上げです。
しばらくボケッと天井を見上げた後、ナツがポツリと呟きます。
「なぁフカちゃん。今日、学校サボってもいいかな」
……皆勤賞はいいのですか?
「どうせあと四日後には還るんだから意味ない、だろ?」
ぶらぶらさせたベルトをきゅっと締め、身支度を整えるナツ。そのままバッグも持たずに玄関へと向かいます。どこかに出かけるようですね。学校ではないようですが、一体どこへ出かけようと言うのでしょうか?
……まさかとは思いますが、あの雑木林でしょうか?
無言のまま玄関を出て行くナツの後ろ姿を追いかけ、わたくしも外へ。太陽は空の頂点で、ジリジリと地を焦がしていました。
◇
六月。初夏真っ盛り。カンカン照りのこんこんちき。目的地もなくただ歩き回っているナツ。飛行機雲。ポカポカ。ぽかぽか。
それにしても今日はいい天気ですね〜。いい天気すぎですよね〜。こんな日はちょっと大人っぽく背伸びしたい気分になりますね〜。
「何を意味わかんねぇこと言って――って、うわぁ! フ、フカちゃん、身体から湯気出てんぞ、湯気!」
はっはっは、湯気など出るワケないじゃないですか。これはアレですよ、アレ。……フェロモンです。
「んなモン出るワケねぇだろ! それってもしかして暑さのせいか? ったく、ムダに黒いから熱吸収しやすいんだよ。夏くらい色変えろよな」
黒は大人の色〜。シブくてちょいワルなシックな色〜。
「……ダメだこりゃ。壊れてる」
「――あら? もしかして、ナツくん?」
「ん?」
そ、そこにいるのは! わたくしたち『俯瞰の眼』のアイドル、フカサワさんではないですか!? おお、なんときれいな丸みなんでしょう、惚れ惚れしてしまいます。すいません、サインもらっていいですか? それとちょっとだけガン見してもいいですか?
「アンタあの時の。……たしか、愛海って言ったっけ?」
「あは、名前覚えててくれたんだ。で、何してるのこんなとこで? この通りって君のうちからだと学校の反対方向だよね?」
「……アンタこそどうなんだよ。こんな時間にこんなとこウロウロしてよ」
「私? 私はね〜、寝坊♪」
「はぁ?」
あれぇ? よく見るとあんまり丸くないですね〜? ――って言うかフカサワさんじゃない! 誰だお前! フカサワさんを返せ! フカサワさ〜ん!!
「って言うか、さっきからうるせぇ!」
「え、えぇ? な、何が?」
「あ、いや、こっちの話。フカサワさんの件でちょっと」
「そ、そうなんだ(フカサワさん?)。……あ、ナツくんって今ヒマ?」
「ヒマじゃねぇよ。散歩の真っ最中」
「ふふ、そうなんだ? じゃあ、私もお供していいかな?」
「別にいいけど。……学校は?」
「その言葉、そっくりそのままお返ししたいトコだけど。ま、言うなればサボリってトコかな」
「……この不良」
「普段は優等生なんだからたまにはいいでしょ」
フカサワさ〜〜ん!! フォ〜エバ〜!!
「だからうるせぇっての!」
「だ、だから何が?」
◇
――ぷはぁ、生き返りました。火照った身体を冷やすにはやはり行水に限りますね。
公園の噴水で水を浴びて身体はヒヤヒヤ。表面ツルツル。見事にピカピカフカちゃんの出来上がりです。
噴水の向かい側の木陰にあるベンチでは(いつの間に合流していたんでしょうか?)愛海さんとナツが、コンビニで購入したサンドイッチとジュースを片手に一息ついています。
「う〜ん、こうやって真昼間に堂々とサボリっていうのももいいよね。今度友達誘ってやってみようかな」
「…………」
「あれ、どうしたのナツくん? 食べないの? 別に後からお金請求したりしないから、気にしないで食べていいのに」
「…………」
サンドイッチを手に持ったまま納得いかない表情のナツ。愛海さんのにこやか笑顔とサンドを交互に見つめては眉をしかめたままです。
「ほら、難しく考えないの。目の前にはおいしいおいしいサンドイッチ。それを食べることを咎めるものは何もないよ。自分の心に素直になってごらん。ナツくんは今、目の前にあるサンドイッチを食べたい? それとも食べたくない?」
「……どうでもいい」
「――食べたい? 食べたくない?」
「だ、だからどうでもいいって言ってんだろ!」
「あれ〜、こないだも言わなかったっけ? 一応私、君の先輩なんだけど、その口の利き方はなんとかならないかな〜?」
「い、いへぇ! やへろ、ほっへひっはんな!」
笑顔のままナツのほっぺを引っ張る愛海さん。顔だけ見ればとても穏やかな笑顔なのに、その手の先にはこれでもかというくらいに伸びるナツのほっぺが。
すごいですね、ナツ。このままいけばほっぺ伸ばしのギネス記録を作ってしまいそうですよ。ファイト、ナツ。ファイト、ほっぺ。
「このっ、いいひゃへんにひねえとフンなふるほ!」
「あれぇ、『ブン殴る』って言ったの? 私を? あはは、できないよね、そんなこと」
愛海さんがようやくほっぺから手を離します。ほっぺを解放されたナツが愛海さんを睨み付けます。でも涙目です。マジ泣き寸前です。めっさうるうるです。
「男がちょっとほっぺつねられたくらいで女に手を出すわけないよね? そんなことしたら男がすたる。そうだよね?」
「う。……あ、当たり前だ! ちょっとつねられたくらいどうってことねぇよ! 俺は一人前の男だからな!」
「……ぷ、あっははは! やっぱり君は慎吾そっくりだね。強がり方までまるで同じ! ホント、同一人物なんじゃないかってくらいそっくりだよ、あははは!」
「なんだよ、バカにしてんのかよ! ってか、誰だよ慎吾って?」
「さ〜てね。――で、どっちにするの? 食べるの、食べないの?」
「…………」
無言。またもナツは眉をしかめてジッとサンドを見つめます。
……? 何をそこまで思い悩むことがあるのでしょう? パクッといっちゃえばいいのです。普段は好き嫌いなく何でもバクバク食べるナツのことです。サンドが嫌いなはずはないのですが?
ただ事でない雰囲気のナツの表情。それを見つめる愛海さんの表情も笑顔から真顔へと変わります。
ベンチに座る二人を異様な雰囲気が包みます。たかだか『サンドイッチを食べるか、食べないか』の選択をするだけ。たったそれだけのことのはずなのに。
長い長い沈黙の後、先に口を開いたのはナツの方でした。
「……どうしても、選ばなきゃいけないのかよ」
「え? いや、どうしてもってわけじゃないけど」
「絶対にどちらかを選ばなきゃいけないのかよ? どっちを選んでも辛い結末しか待ってないのに、それでも選ばなきゃいけないのかよ?」
「……ナツくん?」
「なんで……、なんでその二つしかねぇんだよっ! なんで選ばなきゃダメなんだよっ! くそ、くそッ……!」
ナツの目から一筋の涙がこぼれます。それは悲しみからでしょうか。それとも、悔しさからでしょうか。――あるいは、その両方なのかもしれません。
ナツはいまだに悩み続けています。フゥの望み。フゥの願い。それを叶えるべきなのかどうか、いまだに悩み続けています。正しい答えなど誰にもわかりません。どちらが正しいかなど誰にも決めることはできないのです。
本来、まだ十数年しか生きていない少年が答えを出せる選択などではないのです。どちらかを選ぶことから必死に逃れようとしたところで、誰にもそれを責めることなどできないのです。
顔を伏せても嗚咽は響きます。溢れる涙はナツの足元へこぼれ落ちます。
口を開いたのは、今度は愛海さんの方でした。
「……ねぇナツくん。聞いてくれる?」
「……ひっぐ、うぅ、……う、うぅ……」
「私は、君の抱えてる悩みを知らない。その重みも知らない。だから何か言ったところで、それは全て無責任な言葉。何も知らない人が自分勝手な意見を言っているだけの無意味な言葉。――それでも、聞いてほしいの」
「…………」
「私はね、たとえ残酷な結末しか待っていなかったとしても……、それでもやっぱり君は選ぶべきだと思うんだ。選ばないのは、……逃げることだから。逃げて逃げて、それでも逃げ切れない問題からはね、真正面から向き合うか、一生後悔するかのどちらかしかないと思うんだ」
遠くを見つめて、愛海さんは独り言のように呟きます。
その視線の先に何があるのでしょう。その言葉の裏で、愛海さんが思い返していることは、一体なんだったのでしょう。
ナツはうつむいたまま何も言わず、愛海さんの次の言葉を待っていました。
「私はね、逃げたことがあるからわかるんだ。寂しくて、辛くて、耐え切れなくて、必死に逃げた。……それでも逃げ切れなくて、死のうとまで思ったことがある。……だから、わかるんだ」
愛海さんの視線が遠くから近くへと移ります。やがて見つめた先は自らの右手首。そこにあったのは――、
「私にはね、大好きな人がいるの。近くにいるのに、とても遠いところにいる、大好きな人が」
そこにあったのは、いつか食堂で見たことのある、あの簡素なブレスレットでした。