第二十四話 : フライングマンの真実
――ナツは、まだ来ないのだろうか?
いつもの平原でいつものように佇みながら、フゥと名付けられた少女は、陽が昇ってから何度目になるのかわからないほどの思いを浮かべた。
その白い瞳を何度も何度も平原を取り囲む林へと向け、今か今かとナツの到着を望むフゥ。
この姿だけを見れば、デートの待ち合わせで彼氏を待つ少女の姿に見えないこともない。それほどまでにフゥの表情には歓喜の感情が色濃く出ていた。
『……ハヤク、コナイカナ』
ふと、自らの背後にそびえる木の影が細くなっているのに気付く。もう太陽は沈もうとしていた。
どれほどの時間をそうやって過ごしていたのかを考え、フゥは思う。
――時間が過ぎるのが、こんなにも早く感じるなんて。
自分が浮かれているのを実感しながら、フゥは細くなった木の影から出て、沈みかけた太陽にその身をさらした。
フゥには影がなかった。
そのことに今さら驚く様子もなく、フゥはまたも林へと視線を向ける。
その時、一筋の小さな光がフゥの目の前をよぎった。小さな小さな光の点。――それは一匹のホタルだった。
――こんな、川もない場所に、ホタル?
ホタルはフゥの周りをゆっくりと飛び続け、やがてフゥの足元の草へ止まった。
ぼぅ…ぼぅ…と弱々しくも光を発するホタル。その姿を、まるで慈しむような顔でフゥは見つめた。
――あなたも、さまよっているの?
そのホタルに触れようと、フゥが手を伸ばしかけたその時――、待ち人は現れた。
◇
「フゥ! フゥーー!!」
息を切らし、汗をだくだく流しながらナツが叫びます。教室からここまで一気に休むことなく走り続けたのですから、いくら元気満点のナツでもそりゃバテバテです。それなのにフゥの姿を見かけるやいなや元気が回復するのですから、恋の力ってのは偉大ですねぇ。
「フカちゃん、おっさんくせぇこと言ってんなよな。あと、フゥの前で余計なこと言うなよ? フゥにはフカちゃんの言葉も聴こえてんだからな」
そうでした、そうでした。以後気をつけます。間違ってもナツがフゥにぞっこんだって言わないようにします。
「だ、だからそんなんじゃねぇって言ってんだろ!」
真っ赤っかで否定するナツなのでした。そんな顔で言われてもまったく説得力ないですよ。
そんなこんなでようやく(愛しの)フゥの元までたどり着いたナツ。フゥも心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいでしょうか?
『ナツ。チョウド、イイトキニ、キテクレタ』
「え? ちょうどいいって?」
『……コレ、ミテ』
フゥが指差した先には光を発する何かがありました。……これは一体?
「何だこれ? ――あ、虫か! なんで光ってんだコイツ? どっかで充電とかしてきたのかな?」
『コレハ、ホタル。ヒカリデ、ナカマ、ト、カタリアウノ』
ほほう。これが『ホタル』ですか。実物を見るのはわたくしも初めてです。未来ではホタルどころか他の虫たちさえどこにも存在してませんからね。これは貴重な光景ですよ。
……あれ? そういえばホタルって川沿いに生息するんじゃありませんでしたっけ? なんでこんな林の中にいるんでしょう?
『……ナカマト、ハグレテ、サマヨッテイルノ、カモ』
そう言って、フゥはそのホタルに触れようと、足元にしゃがみながら手をのばしました。ホタルは逃げようとする気配もなく、ぼぅ…ぼぅ…と光を放ったままです。
しかし、フゥがそのホタルに触れることはありませんでした。
フゥの指はホタルの体に触れることなく、貫通するように透き通ったのです。
「―――っ!! フ、フゥ? 今のって……?」
ナツの声を聞いて、フゥがすっくと立ち上がります。それと同時に、ホタルがフゥの足元から飛び立ちました。
ホタルが放つ小さな光が、フゥの身体を中心にして、まるで踊っているかのように辺りを薄く照らすのでした。
『……コノコハ、ヒカリデ、オモイヲ、ツタエテル。ダレカニ、ミツケテホシクテ。ダレカニ、コタエテホシクテ。――コノコハ、ワタシト、オナジナノ』
「同じって、何が?」
『オモイヲ、ナニカデ、ツタエテル。コノコハ、ヒカリデ。ワタシハ、ウタデ』
目を閉じて、ホタルが放つ光を全身で受け止めるように両手を掲げるフゥ。それはまるで、フゥが淡い光のベールをまとったような、神秘的な光景でした。
『ウタダケガ、セカイニ、カンショウスル、スベダッタ。ワタシハ、ズット、ウタッテタ。ズット、ズット……。ヒトリ、キリデ』
フゥが目を開きます。光に向けて掲げていた両手を、さしのべるようにナツに向け、嬉しそうに言葉を紡ぎます。
『ソシテ、ヤット、デアエタ。ワタシニ、コタエテ、クレルヒト』
「…………」
『ナツ。ドウカ、コタエテ、ホシイ』
「……え? な、何を?」
「ワタシハ……。ワ、タシハ……」
「…………」
「…………」
――長い沈黙。
フゥは何度もその先を言おうとしてやめて、それでもまた言おうとして、目を伏せてためらいます。
その先の言葉を紡ぐことがフゥにとってどんなに重いものなのか、わたくしたちには想像すらできません。
ナツはただジッと、フゥの覚悟が決まるのを待ちました。
そして――。
『ナツ。ワタシハ、ワタシ、ハ……!』
何度目かの呼びかけの後、ついにフゥはその先の言葉を口にしました。
『ワタシハ! ……イマ、ドンナ、スガタヲ、シテイル?』
「――え?」
『ワタシハ……、マダ、ヒトノスガタヲ、シテイル?』
――『私はまだ人の姿をしている?』
言葉の意味はわかっていました。しかし、ナツにはその質問の意味がわかりません。疑問の表情を浮かべてナツは明らかに困惑しているようでした。
その顔を見てナツの考えていることを察したのか、フゥはその疑問に答えるようにゆっくりと、静かに歌いだしました。
心に響くあの歌声で。とてもとても悲しい唄を。
――ああ 私はフライングマン 果たしてそれは人なのか?――
――人でないなら私は何? 誰も答えてくれはせぬ――
――さまよえる者 フライングマン――
――記録されぬ者 フライングマン――
――歴史の記録を象る物に 私は何も触れられず――
――誰かの記憶の中にさえ 私は何も残せない――
――その場に残した足跡でさえ 儚く静かに消えてゆく――
――干渉されず することもできず――
――名を呼ぶ者も 応える者も 語りかけてくる者もなく――
――名前は意味を失って 言葉すらも忘れかけた――
――ああ 哀れなフライングマン 果たしてそれは人なのか?――
――己の姿すら知らず 己の名すら忘れた者――
――果たしてそれは人なのか?――
――どうか教えてくれないか 私は人でいられてるのか――
――どうか答えてくれないか 私は人と名乗ってよいのか――
――どうか許してくれないか 私は人でいてもよいのか――
――どうか聴いてはくれないか 人であることを願った唄を――
――ああ 私はフライングマン――
――哀れで滑稽なフライングマン――
――どうか教えてくれないか――
――どうか答えてくれないか――
「……う、ぐぅ……、う、うぅ……!」
嗚咽を発しながら溢れる涙をこらえるナツ。その唄はナツの心をえぐり、フゥの想いをその場に刻み込んでいきます。
――その想いとは、とてつもなく深い『悲しみ』でした。
この世界を象るあらゆる事象に干渉することもされることもない存在。それこそが『記録されぬ者』フライングマンの真実。
フゥがナツに尋ねたあの質問には、とても悲しい真実が隠されていたのです。
自分がどんな姿をしているのか、フゥにはわからなかったのです。
『誰にも認識されない』というのは、『自分でさえ自分を認識できない』という残酷な意味をも含んでいたのです。
自分の身体を見ることもできず、自分の存在をも感じることができないのです。
もはや、疑いようもありません。――彼女は、フゥは、間違いなくフライングマンです。
こんなにも悲しい運命を背負わされた者が、フライングマンという禁忌の存在以外にありえるはずがないのです。
『…………』
歌い終わったフゥは黙ってナツを見つめていました。
自分が人であること。人であると認めてもらうこと。ただそれだけの、そんなにも当たり前のことを確認するために、フゥはあんなにもためらい、口にするのを怖がっていたのです。
……どれほどまでに長い時間を、フゥは一人きりで過ごしたのでしょう? どれほどの孤独を味わえば、そんなにも当たり前のことがわからなくなるというのでしょう?
「う、……っぐ、く、っそ……!」
ナツ! 答えてあげてください! フゥの質問にきちんと答えてあげてください! 同情の涙など、フゥは望んでいませんよ!
「……っぐ、わかってる。わかってる……!」
あんなにも深い『悲しみ』を真正面から受けとめたのです。ナツが涙に暮れるのは当然のことでした。
しかし、ナツはこらえました。歯をくいしばり、唇を噛みながら涙をこらえ、精一杯の笑顔を浮かべて、フゥと向かい合います。
「フゥ。さっきの質問、答えるよ」
『……ン』
「フゥは……、肩まで伸びた髪がとてもよく似合ってて、少し小さな目をしてて、俺よりも、ほんのちょっとだけ背が小さくて、……そして、唄が上手な、ふ、普通の女の子だよ」
『フツウノ、オンナノ、コ?』
その言葉にフゥはほんの少し首をかしげ、そして気付きます。
『……アア、ソウカ。ワタシハ、オンナ、ダッタンダ』
その瞬間、ナツは泣き崩れそうになるのを必死に制しました。自分が女の子であることすら、そんなことでさえフゥはわからなくなっていたのです。
唇を震わせながら、涙をこらえながら、ナツは言葉を続けます。
「……あ、ああ、そうだよ。……フゥは、どこにでもいるような、普通の、……女の子だよ」
ナツの言葉を聞いて、フゥは天を仰ぎます。そして、呟きました。
果たして、その言葉はナツに向けての言葉だったのでしょうか。それとも、この世界全てに向けての言葉だったのでしょうか?
『――アア、アリガトウ、アリガトウ、……アリガトウ』
まるで歌っているかのような呟きと共に、フゥは微笑みました。
込み上げる喜びをほんの少しも隠そうとせず、フゥは満面の笑みを浮かべて感謝の言葉を呟き続けます。今にも踊りだしそうなくらい、心の底から嬉しそうな表情を浮かべながら――。
「……フカちゃん。俺、決めたぞ」
フゥの笑顔をジッと見つめたまま、ナツがわたくしに語りかけます。
ナツ、『決めた』とはなんのことですか?
「もうフゥにあんな悲しい唄なんか歌わせない。……あの笑顔を、守ってみせる」
――正直なところ、わたくしはフゥに対して心のどこかで「深入りしてはならない」と警戒していました。
わたくしの役目は日高一家を無事に元の時代へと帰還させること。フゥに深入りすることは、その任を全うする上で妨げになりうると思っていました。
しかし……。もう無理ですね。
わたくしは、フゥの笑顔を見てしまいました。ナツの誓いを聞いてしまいました。今さら「深入りするな」など、わたくしにはとても言えません。
「フカちゃんにはすげぇ迷惑かけると思う。今のうちに謝っとくな。……ごめん」
やれやれ。謝るくらいなら今からでも考え直してくださいよ。
「ハハッ、もうそれは無理! だってもう決めちまったからな」
わたくしとナツが会話を交わしているうちに、フゥの呟きも終わったようです。
フゥはナツに歩み寄り、微笑みを絶やさぬまま言葉を発します。
『アリガトウ、ナツ。ワタシノ、トイニ、コタエテクレテ』
「フゥ、すげぇ嬉しそうだな」
『ズット、シリタカッタ、コトダカラ。ダカラ、トテモ、カンシャシテル』
「……そっか。そんなに喜んでもらえて、俺もうれしいよ」
『ネェ、ナツ。モウヒトツダケ、コタエテ、ホシイ』
「もう一つって?」
『……ワタシノネガイニ、コタエテ、ホシイ。ドウカ、ドウカ、ワタシヲ――、』
『私を一緒に、未来に連れていってくれないか?』
わたくしもナツも、その後に続く言葉がきっとそうだと思っていました。
フゥのもう一つの願い――。それはきっと、ナツが昨日からずっと悩んで、やっと見つけた答えと同じものだと。健介くんが悩み続けるナツにあっさりと言い放ったあの答えと同じものだと。そう思っていたのです。
その言葉の続きを、フゥは笑顔を絶やさぬまま、喜びを抑えきれない声で言います。
――それは、わたくしたちの想像していた言葉とは、まるで違うものでした。
『ワタシヲ、コロシテクレナイカ?』
それは、わたくしが初めてフゥに会った時に告げられた、あの残酷な願いでした。