第二十一話 : 無条件の愛情
――果たして、彼らを帰してしまってよかったのだろうか?
夜空に映える弓張り月に、少女は心の中で語りかけた。
つい先ほどまでこの場所にいた少年と『俯瞰の眼』の姿を思い浮かべながら、少女はふと気がつく。
心の中でとは言え、自身が何かに語りかけることなど随分と久しぶりのことだった。そして、少女にはその理由がわかっていた。
――私の望みは、もうすぐ叶えられる。
ならばやはり、と少女の思考は戻される。彼らを帰してしまってもよかったのかと。
そこで少女は彼の言葉を思い出した。彼が元の時代に帰るのはまだひと月も先のことだと。それまで毎日ここに来るつもりだということも。
――こんなにも、明日という日が待ち遠しいのは、久しぶり。
悠久の時を過ごし、ようやく巡り会えた『こたえる者』。
何度も消そうと葛藤した、胸の内に残っていたかすかな残り火。
希望の風を受けて、残り火は燃え上がる。
絶対孤独の海の中で冷え切った身体を、チリチリと少しづつ燃え上がらせていく。
――私の望みは……、長い間願い続けた二つの願いは、もうじき叶う。
――彼は『こたえる者』。
――私の問いに『答える者』。……そして、私の願いに『応える者』。
少女の身体は震えていた。
それは、随分と長い間経験していなかった、歓喜の震えだった。
◇
「どういうことなんだよ! ちゃんと説明してくれよ!」
机の上で震えるナツの拳。それが怒りからくる震えだということは、その荒い口調と態度がありありと物語っていました。
そして、そんな白熱するナツとは逆に、
「…………」
相手の身体ごと貫くような鋭い視線で、サヤは机の向こう側に座る相手を睨みつけていました。
その相手とは、ミオさんでした。
帰ってきたナツとサヤを「大切な話があるから」とリビングに呼び出し、ミオさんはとんでもないことを言い出したのでした。
「回りくどいのは性じゃないから、はっきり言うわね。……この旅行は、あと一週間で終わりになったから。……ごめん、全部あたしのせいだ」
確かにこの過去旅行には期限がありました。しかし、それはまだ一月以上も先のことのはずです。ナツもサヤも、そしてわたくしも、なぜミオさんがこんなことを言い出すのか、納得することも、想像することすらもできません。
「…………」
「だから! 黙ってねぇでちゃんと答えろよ!」
「……ごめん、ホントごめん」
「謝る前にちゃんと事情を説明してくれないかな、ミオ姉ぇ。じゃないと、わたしたちどこに不満をぶつけていいのかわからないから」
冷静に、かつ、怒りを充分に含んだ一言。サヤもかなりご立腹のようです。ですが、やはり説明してもらわないことには話がすすまないのは確かです。
ミオさん、一体どういうことなんですか? 旅行の期限が縮まるなんて話、わたくしにも伝わっていませんが。
「……とある事情で『管制塔』とコンタクト取ってみたんだけどね、そしたら帰ってきた返事が一週間以内の緊急帰還命令。……まったく、ありがたすぎて涙が出てくるわね」
「そんな皮肉いらない。とある事情って、何?」
「……あ、あはは……。それがねぇ〜……」
ひきつり笑いを浮かべながら、ミオさんは口ごもります。
ちなみにミオさんの言う『管制塔』とは、過去旅行を行う交通機関のことを指しています。他にも過去へと送るゲートを『出発ゲート』。還ってくる時のゲートを『到着ゲート』と言います。まんま空港で使っているのと同じ名称ですね。けして作者が気のきいた名称を思い付かなったわけではないのです。きっとそうなのです。
「読者に向けての説明なんかどうでもいいんだよっ! ミオ姉ぇ、なんなんだよ、そのとある事情って! もしフカちゃんの説明ばりにどうでもいいことだったら承知しねぇからな!」
――カッチ〜ン。
どうでもいいこととはなんですか、どうでもいいこととはっ!?
「まぁ簡単に言っちゃうと、……できちゃってたのよ、あたし」
「できてたって、何が?」
「何がって、……赤ちゃんが」
『…………赤ちゃん?』
顔を斜め45度に傾けて、ミオさんの言葉を繰り返すナツとサヤ。そしてわたくし。
この後どんなリアクションが正しいのか皆さんもご存知ですね?
さぁご一緒に。――せーの、
『赤ちゃん〜〜〜〜〜〜ッッッ??!!!』
日高家に三人の叫び声が響き渡ります。
アゴ開きッぱで口パクパク状態のナツ。瞳孔開きっぱでまばたきも忘れてガン見するサヤ。お目々パッチリのわたくし。(元からですが)
当の本人であるミオさんはテレ隠しなのか申し訳ない気持ちをごまかしているのか、「あははは……」と渇いた笑みを浮かべるのでした。
「あ、赤ちゃんって……、あの赤ちゃん? ハイハイしたりダァダァ言ったりする、あの赤ちゃん?」
「それ以外にどんな赤ちゃんがいるってのよ、ナツ?」
「花札で松竹梅の三枚集めると役になる赤い札じゃなくて?」
「……お兄ちゃん。それ、赤タン」
「朝にシャワー入った時にやるやつ?」
「それ、朝シャン」
「パンパン強く打ちつけたらできちゃうやつか?」
「……ナツ、それ微妙に当たってるっぽいんだけど、何のこと?」
「赤アザ」
「そ、それを言うなら青アザだから。……ま、まぎらわしい言い方しないでよね」
そんなこと言うサヤの顔こそ赤くなっているのでした。……赤サヤ?
「そんなことより! マジかよミオ姉ぇ!」
「ええ、大マジメな話よ。略して大マジの話よ」
「だからそれ、あんまり略してないから。って言うか、ミオ姉ぇって彼氏いたの?」
「サ〜ヤ〜、どういう意味よ? あたしほどの女に彼氏いない方がおかしいでしょ?」
胸を強調したセクシーポーズをとりながら流し目を送ってくるミオさん。……う〜む、さっきまでシュンとなってたのに、ちょっとだけ普段の調子を取り戻してきたんでしょうか?
「でも、おかしくない? わたしたち、過去旅行に来る前に健康診断とか受けたよ。その時に妊娠のことわからなかったの?」
「あ、あはは……。ホントならこの旅行ってあんたたち日高家だけの旅行のはずだったでしょ? 今回の旅行ってそれにあたしが無理やり付いてきた形じゃない? だから、そのゴタゴタのせいで健康診断とか受けてなかったんだよね。……まさか、妊娠してるなんてまったく気付かなくって、……ごめんね」
次第に弱くなっていくミオさんの語調。やはりこの話になるとさすがにバツが悪いのか、おとなしくなってしまいました。
ミオさんのその様子を見て、さすがのサヤも何も言うことができません。サヤにだってどうして未来に還らなきゃいけないのか、その理由がわかっているのです。
われわれ未来人とこの時代の人間とでは身体の構造がやや違います。はるか昔の地球に存在した原始人と現代の人間の身体の構造が同じかどうかを想像していただければわかりやすいと思います。少しづつ変化していく環境と共に、その住人である人間も少しづつ変化していかざるを得なかったのです。
その理由もあって、過去旅行に赴く際には健康診断が必須なのですが、ミオさんは先ほど自身が述べた理由で診断を受けていなかったようです。
よって、ミオさんの妊娠はこの時代の病院で診てもらうことができません。最悪、彼女のお腹の中の赤ん坊がこの世に出でることなく亡くなる場合だってあり得るのです。
だからこそ、ナツたちの両親も今回のことはしょうがないことだと一週間後に未来に還ることを承諾したのです。サヤもさすがに「もっとこの時代にいたい」という自分のわがままをミオさんの赤ん坊の命と引き換えにして押し通すわけにはいかないのでした。
――しかし、
「……はっきり言って、俺はまだ帰りたくない。もっとこの時代で過ごしていたい」
みんながみんな、未来への帰還はしょうがないものと納得しかけている中、ナツは重々しい口調でそう言いました。
「ミオ姉ぇが還らなきゃいけないのはわかったよ。だったらミオ姉ぇだけ先に還せばいいじゃねぇか」
「ナツ、それはもちろん考えたよ。だけど、『ゲート』はそう簡単に同じ時代に何度も開けない! だから、それはできない……! もしそれをしてしまったら、最悪アンタたちが還ってこられないかもしれな、」
「――俺はさ! 今日、やっとあの娘と仲良くなれたんだよ! 明日だって会う約束したし、フカちゃんだって会うのは止めないって言ってくれた! なのに、あと一週間しかいれないなんて、俺はイヤだ! 俺たちには関係ねぇ、ミオ姉ぇの問題に俺たちまで巻き込むなよっ!!」
「……ッ!」
ミオさんの口から声にならない声が漏れます。その顔は、心をえぐられたかのように辛く、苦痛に充ちた顔でした。
「……ナツ」
「なんだよ父さ、――ぐぁっ!!」
「っ!! な、何してるのよおじさん!」
その瞬間、ナツはリビングの壁まで吹き飛ばされました。
それまで無言で皆のやり取りを見ていたパパさんが、急にナツを思い切りブン殴ったのです。
「なんだよ、ふざけんなよ! なんで俺が殴られなきゃいけねぇんだよ!」
「……日高家家訓。『家族の痛みは皆で分かち合う』……忘れたか、ナツ?」
「……あぁ、覚えてるよ。だったら、俺は今から父さんをブン殴ってもいいってことだよなぁ! 痛みを分かち合うんだから、当然のことだよなぁ!」
「父さんがお前を殴ったのは、お前がミオちゃんを殴ったからだ」
「はぁ? 俺がいつミオ姉ぇを、」
「ミオちゃんがさっきのお前の言葉にどれだけ傷付いたかくらい、いつものお前ならわかるはずだろ。ちょっとは頭を冷やせ」
「……クッ」
「――あなた」
パパさんの傍らにママさんが立ちます。パパさんがこれ以上ナツを殴らないように止めようとしている――かと思ったのですが、どうやら違うようです。
ママさんの表情は、いつものほんわかとは違う、まるで愛海さんのように凛とした瞳でナツを優しく見つめるのでした。
「ねぇナツ。父さんも母さんも、ナツのこと大好きよ。ナツだけじゃなくて、もちろんサヤのこともね」
「……それが、なんだよ」
「親ってね、生まれてきた子供には無条件で愛情が注げるの。たとえ世界中があなたたちを目の敵にしたって、私たちだけはあなたたちの味方。父さんと母さんだけは、あなたたちをけして見捨てたりはしない」
「…………」
「そしてそれはミオちゃんも同じ。母さんたちにとっては、ミオちゃんだって大切な家族だもの。ミオちゃんのお腹の中にいる、新しい命だってね」
「……ッ! おばさん……!」
「母さんにとっても大切なんだから、ミオちゃんにとってはもっとも〜っと大切なはずよ。……だからこそ、それを守ろうと強くなれるのね。大切な弟や妹からいくら非難されても、罵倒されても、それを真正面から受け止めてみせるくらいに、ね」
「…………」
ナツは何も言えずに、ただただ立ち尽くしていました。
悔しそうに、歯がゆそうに、そして、泣きそうな顔をしながら。
「……わかってるよ。俺だって、本当は全部わかってんだよっ!」
歯をぎりぎりと噛み締めて。くちびるをわなわなと震わせて。
心の内をさらけ出すように、ナツは嗚咽まじりに叫びました。
「ミオ姉ぇが今回のことをどんだけ俺らに悪いと思ってるかなんて、顔を見りゃすぐにわかるし、声を聴けばイヤってくらいわかっちまうんだよ! ミオ姉ぇは俺のたった一人の姉ちゃんだ! 俺の大切な家族だ! だから、……本当は、わかってんだよ、……わかってんだよぉっ!」
「……ナツ」
「でも! ミオ姉ぇがお腹の中の赤ちゃんを大切にしてるのと同じくらいに、俺だってあの娘のことが、フゥのことが大切なんだよ! だから……! だから、簡単にそうですかなんて納得なんかできねぇんだよぉっ!!」
そう言い残して、ナツは二階の自分の部屋へと走り去っていきました。瞳にたまった涙を一滴もこぼさないように、荒々しく拭いながら。
「お兄ちゃん……!」
その背中を追うように、ナツに続いてリビングを出て行くサヤ。
……おそらく、先ほどのナツの涙を見てしまったのでしょう。普段「男はみだりに泣くもんじゃない!」なんて公言しているナツが、あんなにも悔しそうに涙を浮かべている姿を、放ってはおけなかったのでしょう。
ナツとサヤがいなくなったリビングで、ミオさんはママさんに抱きついて泣きじゃくっていました。
「う、うぅ……、おばさん、ごめん。ごめんね。……あと、ありがとう」
「あらも〜、何〜? ミオちゃんに泣き付かれるなんて、何年ぶりかしら〜? やっぱり、もうすぐお母さんになるって言ってもまだまだ子供ねぇ〜」
「う、うっさいなぁ」
「ナツのことは大丈夫。あの子はそんなヤワじゃないから。それはミオちゃんだって知ってるでしょ?」
「うん、うん……。ぐすっ……」
「……ところであなた、さっきから何してるの?」
ママさんの指摘を受けてビクッと震えるパパさん。両手を広げて、まるで何かを待っているかのようです。
「い、いや、母さん違うんだ。もしかしたらミオちゃんが次はこっちに抱きついてくるのでは、と淡い願望を込めたポージングなどではなくて、ミオちゃんの叔父としての役割を示そうとしてるのであって、けしてミオちゃんの胸の感触を存分に味わうチャンスなどと期待しているわけではなくて、―――はあぅ!」
一人勝手に自滅していくパパさんの両ほほに、ミオさんとママさんのWビンタが見事に炸裂するのでした。
……さすがは日高家の長。(苦笑)