閑話 帳を、下ろせ
夜。
屋敷が静かになると、私の手は止まる。
剣を磨く布を畳んでも。
部下に「お疲れさま」と声をかけても。
最後に残るのは、指先に張り付いた紙の感触だった。
引き出しから、革表紙の小さなノートを出す。
角は擦れて丸い。
最初の頁。
太い筆圧の四文字。
**帳を、下ろせ**
私はそれを見て、息を整える。
――思い出す。
暗い。
匂いがする。
汗と鉄と、湿った木。
縄が肌に食い込む。
擦れるたびに熱い。
足音が近づく。
笑い声がする。
『売り物』
『商品』
その言葉が頭の中で転がって、私は目を閉じた。
(……終わるんだ)
そう思った瞬間。
扉が開いた。
光が差した。
「……やめて」
少年の声。
青白い顔で、細い肩。
でも目だけが、まっすぐで。
男が笑う。
「なんだガキ――」
次の瞬間、男の喉が詰まった。
背後を取った護衛が、腕をねじ上げている。
そして、澄んだ声が落ちた。
「……連れて行きなさい」
少女の声。
凛としていて、迷いがない。
私の視界の端に、淡い色の裾が揺れた。
顔は見えない。
でも、少年は驚かない。
当たり前みたいに、同じ場所に立っている。
(……知り合いなんだ)
それだけ分かった。
男たちは押さえ込まれ、私は縄の痛みだけが現実だった。
少年が、こちらへ歩いてくる。
歩幅は小さい。
怖がらせないように。
「大丈夫?」
その一言で、胸の奥がひび割れた。
“もの”じゃなく、“誰か”として見られた。
涙が出そうになる。
出したら崩れてしまう気がして、唇を噛んだ。
少年は少し困った顔で笑う。
「ごめん。怖かったよね。……えっと、僕はユーリ」
名前。
私は、名前を呼ばれたことがない。
ユーリは焦らず、手を差し出した。
「こっちおいで。……一緒に、帰ろう」
私は頷いた。
頷くしかなかった。
屋敷は静かだった。
温かいお茶を渡されて、椅子に座らされる。
湯気が目に沁みた。
手が震えて、うまく持てない。
ユーリは隣で、そわそわしていた。
「……えっと、痛いところない?」
私は首を振る。
本当は、全部痛かった。
でも“痛い”と口にする勇気がなかった。
しばらくして、廊下の奥で足音が止まる。
扉が開いた。
淡い色のドレスの裾。
あのとき視界の端で揺れたのと同じ色。
「……ユーリ」
少女は、私を一度だけ見た。
値踏みじゃない。
確かめるみたいな視線。
ユーリは、ほっとした顔で笑う。
「リーリエ。来てくれたんだ」
「……この子?」
リーリエが私を見る。
私は背筋を伸ばして、息を吸った。
「……はい」
ユーリが慌てて言う。
「大丈夫。怖がらせないで。……えっと、今日から一緒にいるんだ」
リーリエは頷いた。
「分かった。じゃあ――お茶、もう一杯もらっていい?」
ばあやが微笑んで、カップを用意する。
私は、その場の“普通”に混ざっていくのが怖かった。
でも。
ユーリが笑っている。
リーリエが当たり前みたいにそこにいる。
それだけで、指先の震えが少しだけ止まった。
それからの生活は、簡単なことの積み重ねだった。
朝。
ばあやの足音で目が覚める。
布団は清潔で、部屋は暖かい。
食事。
最初は匙を持つ手が震えて、こぼしてしまった。
ユーリは笑わない。
「ゆっくりでいいよ」と言う。
それだけで、喉が詰まった。
風呂。
湯が熱くて、皮膚が痛いほどなのに、私は初めて“安心して目を閉じられた”。
日々。
私は、屋敷の中で生きていいのだと、少しずつ覚えていった。
ユーリは、時々ふらっと庭に出る。
風に目を細めて、無邪気に笑う。
――その笑いが、私には眩しかった。
なのに。
私は「どうして助けてくれたの」と聞けないまま、日だけが過ぎた。
ある夜。
ユーリは机に紙を広げて、急に元気になる。
「ね。気分変えよ。ごっこ、続き」
“ごっこ”。
遊び。
でもユーリは、真面目に遊ぶ。
ペンを回して、わざと低い声を作った。
「首領として、命ずる。合言葉がいる」
私は、笑顔を作った。
――友達のふり。
ここでは、それでいい。
ユーリは紙を見つめて、少しだけ真剣な目になる。
「……決めた」
そして、言い切った。
「合言葉は――**『帳を、下ろせ』**」
言葉が、胸の奥に落ちる。
私は頷いた。
「……はい」
その夜から、私はノートを作った。
ユーリの言葉を書き留めるための。
しばらくして。
屋敷に、人が増えた。
知らない大人の靴音。
低い声。
ばあやが私を呼んで、言った。
「マリーダさん。……引き取り先が決まりました」
言葉の意味が、すぐには入ってこない。
“ここ”が、永遠じゃない。
私はそれを、初めて思い知った。
その夜。
ユーリは私の顔を見て、すぐに気づいた。
「……決まったんだ」
私は頷く。
ユーリは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「そっか。……じゃあ、最後にもう一回、遊ぼう」
リーリエも来た。
いつもみたいに、当たり前の顔で。
「送別会ね」
言い方は軽いのに、目だけは真剣だった。
その夜、私たちは机を囲んだ。
紙とペン。
花丸。
ユーリはいつも通り、首領の声を作って言う。
「合言葉は?」
私は喉の奥が痛いまま、答えた。
「……帳を、下ろせ」
ユーリが頷く。
リーリエが、静かに笑った。
別れは、あっけなかった。
私は荷物を抱えて、玄関で頭を下げた。
言葉が出ない。
ユーリが、私の手の上に、小さな紙片を置いた。
「……持ってて。忘れそうになったら、読んで」
紙片には、たった四文字。
**帳を、下ろせ**
私は頷いた。
頷くしかなかった。
そのあと。
私は、屋敷に戻れなかった。
噂が増えて、顔色が変わって。
街の空気が、急に重くなる。
そして。
ユーリの名を、誰も口にしなくなった。
その次の日。
私は、紙を握りしめたまま、名前を問われた。
「……名前、言える?」
私は喉の奥で言葉を探した。
“商品”のままなら、名前はいらない。
でも、ここは私の家になるところだ。
お茶が温かい。
布団が柔らかい。
ユーリが、私を見ているような気がした。
「……マリーダ」
かすれた声。
私の義父となるその人はほっとした顔で笑った。
「マリーダ。うん、じゃあ――」
その日から私の人生に目標ができた。
ユーリのもとに帰る。
それだけを、決めた。
役職を決める遊び。
「闇の剣」と呼ばれる日が来ることを、私はまだ知らなかった。
――そして今。
ノートの最初の頁に指を置く。
**帳を、下ろせ**
私は深く息を吸って、吐く。
私はノートを閉じた。
「御意」




