幕間 辺境伯
辺境伯シュラウドは、歓喜していた。
歓喜。
その単語が、自分の胸から出てくること自体、何年ぶりか分からない。
前王が死んだ日から――いや、もっと前から。
笑うという行為を、どこかへ置き忘れていた。
老いたわけではない。
衰えたわけでもない。
ただ、怒りと警戒と、諦めだけが残っていた。
「……俺は、まだ笑えるのか」
吐き捨てるように呟いて、シュラウドは自分の頬がわずかに上がっているのに気づいた。
理由は一つ。
“あの日”を思い出したのだ。
---
帝国兵を蹴散らしていた頃。
王国の旗が、まだ恥ずかしくなかった頃。
剣を振れば、守れるものがあると信じられた頃。
王弟、あのユーリの父。
そして、剣聖ラシード。
戦場で肩を並べ、血と泥の中で笑い合った男たち。
シュラウドは、あの二人を「友」と呼べた。
だからこそ、今の王都の腐り方が耐え難い。
王が弱いのは構わん。
弱い王など歴史にいくらでもいる。
だが。
弱い王に取り付いて、国を売る馬鹿ども。
あれは許せない。
---
王都で乱があった――という報は、届いていた。
だが、シュラウドは半分しか信じなかった。
王都の噂は、いつも盛られる。
王都の嘘は、いつも整っている。
辺境とは違う。
辺境は、嘘をつく前に死ぬ。
「……話半分だ」
そう言って、紙束を机に放り投げた。
“残りの半分”が届いたのは、その数日後だった。
封蝋。
筆圧。
文字。
ラシードからの手紙。
シュラウドは、封を切った瞬間に分かった。
これは嘘じゃない。
この男が、嘘を書けるはずがない。
---
手紙の内容は、短い。
王都の結界が破れた。
王女が攫われた。
奪い返された。
そして――飛空邸が飛んだ。
(最後、意味が分からん)
だが、戦場の男は“意味が分からん”からといって、止まらない。
要点は二つだ。
一つ。
王国は、いよいよ帝国に喉元を晒した。
二つ。
それでも。
王国の中に――立ち上がる旗が出た。
ユーリ。
友の息子。
幽閉されたはずの子。
その名が、紙の上で燃えていた。
そして、手紙の末尾。
ラシードの文字が、いつもより乱れている。
《俺は、死に場所を見つけた》
シュラウドは、そこで息を止めた。
死に場所。
戦場の男が、静かに書く言葉だ。
「……馬鹿が」
喉の奥から出た声は、怒りではない。
寂しさだ。
同時に。
羨ましさでもあった。
---
シュラウドは窓の外を見た。
雪の降る辺境。
白い大地。
黒い森。
帝国兵を潰すためだけに鍛えてきた辺境伯軍が、ここに眠っている。
眠っていたわけではない。
牙を研いでいた。
ただ。
王都が腐りすぎていて、振るう旗が見つからなかった。
だが。
見つかった。
親友の息子の旗の下なら。
――自分も、死んでもいい。
そう思えた。
「……若い連中の時代だ」
口にして、今度ははっきり笑った。
笑える。
まだ、笑える。
「よし」
シュラウドは立ち上がり、外套を掴んだ。
「まずは前哨戦だ」
帝国の威力偵察部隊が、すでに辺境の“近隣”まで来ている。
調子に乗っている証拠だ。
王都の結界が消えたからといって、辺境まで裸になったと思っている。
――ならば、教えてやる。
辺境は、最初から鎧だ。
---
夜。
雪原。
帝国兵は火を囲み、笑っていた。
「王都が割れた」
「竜騎兵が飛ぶぞ」
「次は、辺境だ」
言葉が、軽い。
彼らはまだ知らない。
王都が崩れたからこそ、辺境は目を覚ます。
雪の闇の中。
シュラウドの剣が、抜かれた。
音はしない。
代わりに。
雪が、泣いた。
「――潰す」
短い命令。
次の瞬間、辺境伯軍が動いた。
一撃。
二撃。
威力偵察部隊は、火を囲む暇すら奪われる。
「な、何だ……!?」
悲鳴。
シュラウドは笑った。
「答えは一つだ」
帝国兵の前に立ち、刃の切っ先を向ける。
「辺境伯だ」
そして、呟いた。
「……ユーリ。
お前が動くなら、俺も動く」
雪は降り続ける。
だが、眠っていた牙は――もう眠らない。




